史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

瑞浪 Ⅲ

2021年09月18日 | 岐阜県

(土岐町)

 土岐町の下街道沿いに明治天皇土岐小休所碑が建てられている。石碑の背後は雑草が生い茂り、廃屋が放置されている状態である。

 明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇がこの地にあった安藤茂兵衛宅で休憩したことを記念したものである。

 

明治天皇土岐御小休所

 

(釜戸町)

 

明治天皇釜戸行在所

 

 釜戸町の土岐川を臨む民家の前に明治天皇釜戸行在所碑が建てられている。明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇が小川兵蔵宅で昼食休憩したことを記念したものである。

 

土岐川

 

(琵琶峠)

 中山道は改修や荒廃により、江戸時代の現状を残すところが少なくなっている。瑞浪市内の釜戸町、大湫町、日吉町にまたがる約13キロメートルは、丘陵上の尾根を通っているため開発の手が届かず、往時の原形をとどめている。特に琵琶峠を中心とする約1キロメートルは、五百メートル以上にわたる石畳も確認されている。東側の上り口より琵琶峠を目指す。

 

中山道 琵琶峠東上り口

 

琵琶峠の石畳

 

 石畳は江戸時代の舗装道路である。未舗装道路は雨が降るとぬかるみ、わらじ履きの旅人を悩ませたことだろう。牛馬の通行にも大きな支障をきたした。石畳による舗装は、画期的な改善であった。

 とはいえ、前夜の雨で石の上は滑りやすく、現代人にとっては歩きにくい道である。およそ八分の徒歩で琵琶峠に行き着く。

 

中山道 琵琶峠

 

 琵琶峠には、烏丸光栄(公家・歌人)や太田南畝(狂歌師)、岡田文園(尾張藩士・国学者)らの文学碑が建てられている。小さな展望台が設けられているが、さほど見晴らしが良いとはいえない。

 

琵琶峠からの眺望

 

和宮歌碑

 

 和宮の歌碑である。

 

 住み馴れし都路出でて けふいくひ

 いそぐもつらさ 東路のたび

 

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土岐

2021年09月18日 | 岐阜県

(神明坂)

 

明治大帝駐蹕碑

 

 土岐市土岐津町土岐口神明坂に明治天皇の聖蹟碑がある。明治大帝駐蹕碑は、野村素介の書。野村素介は長州藩出身の政治家で、元老院議官などを歴任した。書家としても知られ、全国各地に書が残されている。

 

萬古不滅

 

聖徳無窮

 

 明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇が東山道を巡幸し、この地で鳳輦が三時間余りとどまったことを記念したものである。

 

(土岐口)

 

鈴木家

 

 土岐口の鈴木家には、中山道大湫宿本陣の一部が移築され、皇女和宮の宿泊した座敷が保存されている。一般公開されていないので、外観だけで撤収。

 

(慈徳院)

 

慈徳院

 

明治帝御供水

 

 明治十三年(1880)六月、明治天皇が下街道を通って京都に向かう際、高山の深萱邸にて慈徳院で汲み上げた聖水を用いてお茶を飲んだ。そのことを記念した御供水碑である。

 

(高山)

 

明治天皇高山御小休所

 

 高山は下街道十五里二日の行程の中間地点で、馬継場、宿場町として栄えた。下街道は、恵那槇ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ、中山道の脇街道である。中山道よりも峠が少ないため、利便性が良く、善光寺参り、御岳参り、伊勢神宮参りの人々が往来し、信州、美濃、尾張から出荷される荷物が牛馬によって輸送された。

 明治天皇は、明治十三年(1880)、中山道を通って京都までの巡幸の際、六月二十九日の午後二時頃、深萱英次宅に到着した。天皇は建物奥の庭に面した十二畳の間に、皇族、太政大臣ほか供奉員らは隣接した四室に入って休息をとった。

 

(南宮神社)

 

南宮神社

 

明治天皇観陶聖蹟

 

 明治十三年(1880)六月二十九日、この地で明治天皇は陶芸の様子をご覧になった後、高山御小休所で休憩した。

 

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多治見

2021年09月18日 | 岐阜県

(永保寺)

 

永保寺本堂

 

 虎渓山永保寺は、鎌倉末期、夢想疎石らが、この地の深山幽谷に魅せられて庵を結んだのが始まりで、中国廬山の虎渓の風景にあやかり、虎渓山と名付けられた。暦応二年(1339)には北朝の光明天皇の勅願寺となり、室町時代には守護土岐氏の保護により、三〇余の僧坊が立ち並んで隆盛を極めた。しかし、戦国時代には再三の戦乱で荒廃し、現在まで塔頭として存続しているのは、保寿院、続芳院、徳林院の三つのみとなっている。

 和宮は上洛の途中、永保寺に滞在した。和宮は永保寺からわざわざ「一呑みの清水」(現・御嵩町)から清水を取り寄せ、点茶を楽しんだと伝えられる。

 

六角堂(霊擁殿)

 

 梵音巌上の六角堂には、千体地蔵が祀られている。滝の水は、虎渓山北西にある「しでこぶし」群生地付近の湧水を集めたものという。

 

無際橋と観音堂

 

 永保寺庭園は夢想疎石の初期の作庭。西から迫る長瀬山や、前を流れる土岐川の清流奇岩を借景としている。古来より「虎渓三十六景」と称され、多くの文人墨客に親しまれてきた。国宝に指定されている観音堂は、観音閣、水月場ともいわれる。正和三年(1314)の建立で、永保寺ではもっとも古い建物となっている。

 

(西浦庭園)

 

西浦庭園

明治天皇行在所蹟

 

 西浦庭園は、幕末から明治にかけて美濃焼や町の発展に貢献した西浦圓治の庭園で、かつて離れ座敷が建てられていた。この離れ座敷は、明治十三年(1880)六月、明治天皇下街道巡幸の際に行在所となった。この巡幸には、伏見宮、太政大臣三条実美をはじめとするお供があり、千人を超える大行列であった。その夜は、岐阜提灯を五〇張以上灯し、数千匹のホタルを放って天皇の旅情を慰めたという。明治天皇は「木曽路以来、初めて賑々しい景況である」と喜んだ。

 離れ座敷の建物は、表門とともに大正時代の初め頃、京都嵯峨の宝筐院へ移築され、今も書院として残されている。

 

明治天皇行在所旧蹟

 

 庭園内には、三基の聖蹟碑が建てられている。明治天皇行在所旧蹟碑は岸信介の書。

 

明治天皇行在所聖蹟

 

西浦庭園

 

明治天皇御駐輦地

 

 明治天皇駐輦地碑は元帥東郷平八郎の筆。

 

(御幸公園)

 

御幸公園

公園は犬の便所ではありません

 

 御幸公園は西浦庭園から少し離れた場所にある。この地には、西浦圓治(1806~1884)が、後年を過ごした別邸があり、西浦庭園と呼ばれた名園があった。

 西浦家は、江戸時代からの大きな陶器商で、西浦焼と呼ばれる陶磁器の生産に乗り出すなど、美濃焼の品質向上とその名を世に広めることに尽力した。

 西浦庭園は、江戸時代末期に作られたもので、滝を備えた池を中心に古樹が茂り、各所に奇岩が配されて、大変静かな趣があったといわれる。第二次大戦後、庭園は分割して売却され、今はわずかに石組みが往時を偲ばせるのみとなっている。

 御嵩町の愚渓寺に茶室が移築保存されているという。

 

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