史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

徳山 Ⅲ

2019年07月06日 | 山口県

(大迫田霊園)

 

羽嶋喜市(鬼一)利正墓

 

 羽嶋喜市は、第二大砲組。干城隊付属斥候隊。慶応四年(1868)九月五日、岩代館ノ原にて負傷。二十日、死亡。十八歳。

 

 

贈従四位 風月江村君墓(江村彦之進の墓)

 

 江村彦之進は、天保三年(1832)の生まれ。嘉永六年(1853)、徳山藩校鳴鳳館の句読師となり、安政四年(1857)江戸に出て、安積艮斎に学んでその塾長となった。安政六年(1859)、実兄の本城清と九州諸国を遊歴し、帰国して萩の明倫館に入った。文久二年(1862)、萩の同志とともに攘夷実行のことに奔走し、朝議の攘夷決定を見て帰藩。学館訓導役となり、藩政に参じて海防局長、会計局長となった。元治元年(1864)、禁門の変に際して。八月十一日、恭順派のため禁固に処され、翌日弁論のため外出途中に殺害された。年三十三。

 

 

西南戦争戦没者官軍墓

 

 大迫田霊園はかなり広い。竹さんご夫妻と手分けして羽嶋喜市の墓を探すことにした。三人で勢いよく車を飛び出して、隈なく探したものの、なかなか見つからない。江村彦之進や西南戦争戦没者の墓は、たまたま歩いていて発見したものである。探せばもっと面白い墓が見付けられたかもしれない。

 結局、何のことはない。羽嶋家の墓は我々が車を停めたすぐ目の前にあったのであった。

 

(泉原墓地)

 

林與喜之墓 

 

 林與(たすく)は、徳山藩士麓の長男。物頭・旗奉行。慶応三年(1867)京都で筆商に扮し探索。変名を林屋与右衛門。慶応四年(1868)献功隊参謀兼軍監として東征。明治二年(1869)五月十一日(墓石には五月八日とある)、蝦夷大川にて戦死。二十七歳。傍らに追慕碑が建てられている。

 

 

追慕碑

 

(福田寺)

 

福田寺        

 

 

古志義人直庸墓

 

 古志義人(蔵人とも)は徳山藩士信邦の嫡子。献功隊。明治二年(1869)五月十一日、蝦夷神山村にて戦死。三十七歳。

 

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