史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小金井 Ⅱ

2014年08月24日 | 東京都
(金蔵院)


金蔵院


小金井小次郎君追悼碑

 JR小金井駅の南口を出て、徒歩凡そ十分の住宅街の中に金蔵院がある(小金井市中町4‐11)。金蔵院は、境内に白萩が多く植えられており、誰いうとなく「萩寺」と称されるようになった。
 金蔵院境内から少し離れた、西念寺の南の墓地に小金井小次郎の墓がある。一際高い追悼碑が目につくので、直ぐに分る。
 小金井小次郎は、文政元年(1818)、名主関勘右衛門の二男に生まれた。天保二年(1831)、十四歳のとき、博打打ちを志願して勘当され、府中の博徒藤屋万吉の弟分となった。天保十一年(1940)、武蔵二塚明神前の大喧嘩で侠名を挙げた。捕えられて佃寄場に服役中、新門辰五郎を知り、兄弟分となった。弘化三年(1846)正月の大火で、寄場への飛び火を防ぎ、辰五郎とともに油倉を死守した功により赦された。のちに八王子相撲事件で三宅島に流刑となり、島の女性と結婚し、明治元年(1868)島から戻った。武蔵・相模に数千人の身内を抱えていたといわれる。維新後は、若者を連れて三宅島に戻り、島の開発に尽くした。明治八年(1875)辰五郎の臨終を看取った。明治十四年(1881)、六十四歳にて没。追悼碑の右に墓があるが、墓碑銘は山岡鉄舟による。
 このところ、黒駒勝蔵、竹居吃安、小金井小次郎といった幕末の侠客の墓を集中的に訪ねることになった。幕末という時代、関東一円に侠客と呼ばれる人種が生まれた。手元の角川「日本史辞典」によれば、侠客とは「弱きを助け、強きをくじくと称して名を売った遊び人。江戸初期の旗本奴、町奴、男伊達などがそれである。多くは賭博、けんか渡世をこととし、親分子分の関係で結ばれていた」とされる。現代社会で見られるヤクザとか、暴力団とは別の人種のようである。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 飯田 山本 | トップ | 「北の墓 ―歴史と人物を訪ね... »

コメントを投稿

東京都」カテゴリの最新記事