(ありがた山つづき)
従五位五島盛徳之墓
「但馬の殿様」の著者吉盛智輝氏より、東京に行くのでありがた山を案内して欲しいとの電話があり、喜んでご一緒させていただくこととした。土曜日の朝、最寄駅である京王線のよみうりランド駅で待ち合わせた。これまで何度も電話ではお話しているが、実際にお会いしたのは今回が初めてであった。但馬に限らず殿様(大名家から旗本に至るまで)に関する知識があふれ出そうなほど豊富な方であった。早速ありがた山を訪れた。
前回訪問時から二年が経過したが、その時よりも宅地造成はさらに近くまで迫っており、さらに背後の山は削り取られて新しい道路が通じていた。吉盛氏は
「あらゆる時代の墓石が一同に集められた珍しい場所で、これを維持保存するのは稲城市の義務だ」
と力説されていたが、そもそも稲城市はありがた山の存在(あるいはその存在価値)に気が付いているのだろうか。
雨が降り続け、時には猛烈な勢いになった。一旦傘をとりに自動車に戻る一幕もあったが、二度三度と山頂まで往復して、墓石を調査した。
吉盛氏によれば、かなり貴重な発見もあったようだが、私としては取り敢えず五島盛徳(しげのり)の墓石を発見することができて、満足であった。
五島盛徳は天保十一年(1840)の生まれ。父は五島藩主盛成。安政元年(1854)、初めて上京し、翌安政二年(1855)、元服して十二月、従五位下近江守に叙任された。安政五年(1858)正月、襲封して翌年入部した。元治元年(1864)、勅を奉じて上洛し、殖産(漁業、新田開発)・倹約により海防を厳にし、兵制を改革した。慶應三年(1867)十月、上洛を促されたが、病気を理由に家老太田秋之助を先発させた。慶應四年(1868)、勝手不如意につき江戸藩邸の引き払いを願い出て、上京して海防上冨江藩三千石の吸収を図った。明治二年(1869)六月、版籍奉還により五島藩(のちに福江藩と改称)知事となり、明治四年(1871)、廃藩によりこれを免じられた。明治八年(1875)、年三十六にて没。
「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば盛徳の墓は、文京区の吉祥寺にあることになっているが、経緯不明ながらありがた山に移送されたようである。
なるほど、そういうことなんですね。既に魂を抜かれているんですね。それにしても、こうして保存されているのは、大変貴重だと思います。