(村野家)
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村野家
東久留米市柳窪4‐15の村野家は、天保九年(1838)建築の茅葺の主屋、明治後期建築の離れのほか、土蔵や穀倉などを備えた豪農の住宅である。残念ながら普段は非公開。
慶応二年(1866)六月、上名栗村で勃発した一揆は、たちまち関東西部一円に広がり、各地で豪農や村役場の家屋が次々と打ち壊された。その数、判明しているだけで五百二十という。
同年六月十六日、一揆勢数百名は柳窪に到達し、質屋を営む村野七次郎宅がその標的となった。七次郎宅では酒を用意して接待したが、二十数名が家の中に雪崩れ込み、鋸や鉈で柱や鴨居など数カ所を傷つけられ、この騒動で当時四歳であった娘キクがショック死するという騒動となった。
これに対し、韮山代官江川太郎左衛門配下の鉄砲方が現場に急行し、発砲して撃退した。この戦闘で一揆勢は八名が即死、十三名が逮捕され、八十余名が負傷という大きな犠牲を払って壊滅した。
当家の裏庭の一角には戦死した七名を祀る無名墓碑が建てられているらしい。
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村野家
東久留米市柳窪4‐15の村野家は、天保九年(1838)建築の茅葺の主屋、明治後期建築の離れのほか、土蔵や穀倉などを備えた豪農の住宅である。残念ながら普段は非公開。
慶応二年(1866)六月、上名栗村で勃発した一揆は、たちまち関東西部一円に広がり、各地で豪農や村役場の家屋が次々と打ち壊された。その数、判明しているだけで五百二十という。
同年六月十六日、一揆勢数百名は柳窪に到達し、質屋を営む村野七次郎宅がその標的となった。七次郎宅では酒を用意して接待したが、二十数名が家の中に雪崩れ込み、鋸や鉈で柱や鴨居など数カ所を傷つけられ、この騒動で当時四歳であった娘キクがショック死するという騒動となった。
これに対し、韮山代官江川太郎左衛門配下の鉄砲方が現場に急行し、発砲して撃退した。この戦闘で一揆勢は八名が即死、十三名が逮捕され、八十余名が負傷という大きな犠牲を払って壊滅した。
当家の裏庭の一角には戦死した七名を祀る無名墓碑が建てられているらしい。
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