(青柳北共同墓地)
青柳の共同墓地に徳川方の戦死者の墓が四基ある。それぞれ墓石には「齊藤庄之助 純教居士霊位」「土屋勘次郎光朝 純理居士霊位」「吉岡恒太郎 純行居士霊位」「渡邉氏 純證居士霊位」と刻まれているのが確認できるが、「幕末維新全殉難者名鑑」に彼らに一致する名前を見出すことはできない。没年月日は、いずれも慶応四年(1868)閏四月七日である。
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青柳北共同墓地
徳川方戦死者の墓
(松ヶ島)
菅原神社の北、松ヶ島の共同墓地にやはり出津付近の戦闘で戦死した青野虎之助の墓がある。
青野虎之助が戦死したのは、慶応四年(1868)閏四月七日。松ヶ島で官軍の砲弾を受けて戦死したといわれる。行年三十八。やはり「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。
徳川義軍 青野虎之助の墓
(出津村古戦場跡)
出津村古戦場跡
養老橋西詰を百メートルほど北上したところに、平成十八年(2006)に出津史跡保存会が建てた古戦場の石碑が建っている。
慶応四年(1868)閏四月七日、徳川義軍と官軍が養老川を挟んで戦ったことを記したものである。
(龍昌寺)
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龍昌寺
飯沼の龍昌寺墓地には、小倉由次郎の墓がある。墓碑によれば、慶応四年(1868)五月十七日、戦死とある。
小倉由次郎は請西藩士。江戸詰。遊撃隊東軍第四軍に属し、箱根で戦死したとされる。
臣道誠忠居士(小倉由次郎の墓)
(飯沼共同墓地)
この日は、市川のグラウンドで野球の練習に参加して汗を流した後、市原に移動して過去にチャレンジして行き当たらなかった、五井、姉ヶ崎周辺の史跡を回ることにした。野球の練習で十分汗だくになっていたが、炎天下に歩き回って、これ以上出ないというくらい汗をかいた。まだ梅雨明けは宣言されていないが、この夏一番の暑さを記録した。
養老川に沿って南下して、日立化成飯沼寮の近くの飯沼共同墓地で徳川義軍の墓を訪ねた。ただし、この墓碑の下に眠る戦死者の名前は伝わっていない。
徳川義軍無名戦士之墓
中央に新しい墓碑が建てられているが、恐らくその背後の石塊が古い墓石であろう。
(中瀬墓苑)
六年前、探し当てられなかった「三士之墓」に再チャレンジである。前回も歩いた中瀬墓苑内を探す。無縁墓石の中に、「三士の墓」を発見した。
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戊辰之役 三士之墓
市原市文化財研究会刊「上総市原 第三号」(昭和五十四年十二月)と同じ文化財研究会の「義軍官軍むかしむかし」によれば、この墓は間者として撤兵隊に捕えられて拷問の末、処刑された官軍兵士の墓ということである。恐らく市原市内で唯一の官軍の墓である。彼らは厳しい拷問にも口を割らなかったため、出自も氏名も伝わっていない。
(下谷共同墓地)
岡村善六の墓
下谷共同墓地を訪ねたのも二回目である。この墓地に百姓善六の墓がある。なかなか見つけにくい墓で、今回も墓地内を二周半くらい回ってようやく出会うことができた。岡村家の墓を目印にすると良い。
岡村善六は、慶応四年(1868)閏四月七日、流れ弾に当たって死亡したといわれる。
青柳の共同墓地に徳川方の戦死者の墓が四基ある。それぞれ墓石には「齊藤庄之助 純教居士霊位」「土屋勘次郎光朝 純理居士霊位」「吉岡恒太郎 純行居士霊位」「渡邉氏 純證居士霊位」と刻まれているのが確認できるが、「幕末維新全殉難者名鑑」に彼らに一致する名前を見出すことはできない。没年月日は、いずれも慶応四年(1868)閏四月七日である。
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青柳北共同墓地
徳川方戦死者の墓
(松ヶ島)
菅原神社の北、松ヶ島の共同墓地にやはり出津付近の戦闘で戦死した青野虎之助の墓がある。
青野虎之助が戦死したのは、慶応四年(1868)閏四月七日。松ヶ島で官軍の砲弾を受けて戦死したといわれる。行年三十八。やはり「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。
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徳川義軍 青野虎之助の墓
(出津村古戦場跡)
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出津村古戦場跡
養老橋西詰を百メートルほど北上したところに、平成十八年(2006)に出津史跡保存会が建てた古戦場の石碑が建っている。
慶応四年(1868)閏四月七日、徳川義軍と官軍が養老川を挟んで戦ったことを記したものである。
(龍昌寺)
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龍昌寺
飯沼の龍昌寺墓地には、小倉由次郎の墓がある。墓碑によれば、慶応四年(1868)五月十七日、戦死とある。
小倉由次郎は請西藩士。江戸詰。遊撃隊東軍第四軍に属し、箱根で戦死したとされる。
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臣道誠忠居士(小倉由次郎の墓)
(飯沼共同墓地)
この日は、市川のグラウンドで野球の練習に参加して汗を流した後、市原に移動して過去にチャレンジして行き当たらなかった、五井、姉ヶ崎周辺の史跡を回ることにした。野球の練習で十分汗だくになっていたが、炎天下に歩き回って、これ以上出ないというくらい汗をかいた。まだ梅雨明けは宣言されていないが、この夏一番の暑さを記録した。
養老川に沿って南下して、日立化成飯沼寮の近くの飯沼共同墓地で徳川義軍の墓を訪ねた。ただし、この墓碑の下に眠る戦死者の名前は伝わっていない。
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徳川義軍無名戦士之墓
中央に新しい墓碑が建てられているが、恐らくその背後の石塊が古い墓石であろう。
(中瀬墓苑)
六年前、探し当てられなかった「三士之墓」に再チャレンジである。前回も歩いた中瀬墓苑内を探す。無縁墓石の中に、「三士の墓」を発見した。
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戊辰之役 三士之墓
市原市文化財研究会刊「上総市原 第三号」(昭和五十四年十二月)と同じ文化財研究会の「義軍官軍むかしむかし」によれば、この墓は間者として撤兵隊に捕えられて拷問の末、処刑された官軍兵士の墓ということである。恐らく市原市内で唯一の官軍の墓である。彼らは厳しい拷問にも口を割らなかったため、出自も氏名も伝わっていない。
(下谷共同墓地)
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岡村善六の墓
下谷共同墓地を訪ねたのも二回目である。この墓地に百姓善六の墓がある。なかなか見つけにくい墓で、今回も墓地内を二周半くらい回ってようやく出会うことができた。岡村家の墓を目印にすると良い。
岡村善六は、慶応四年(1868)閏四月七日、流れ弾に当たって死亡したといわれる。
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