(吉田神社御本宮)
吉田神社は、貞観元年(859)に平安京の守護神として創建された古社である。鎌倉時代以降、吉田家が代々神職を相伝し、室町末期には吉田兼倶が吉田神道を起こして幕末に至るまで大きな権勢を誇った。
幕末の吉田家の当主は吉田良熈(よしひろ)、良義(よしのり)である。
吉田神社御本宮
(斎場所大元宮)
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)は、神職の卜部(吉田)家邸内にあったものを文明十六年(1484)に、吉田兼倶が移建したもので、吉田神道の根本殿堂とされた。本殿(重要文化財)は慶長六年(1601)の建築で、平面上八角形に、六角形の後房を付した珍しい形をしている。
斎場所大元宮
斎場所大元宮の奥に明治天皇御胞衣塚があるが、残念ながら一般人の立ち入ることのできるエリアから見ることはできない。
(吉田神葬墓地)
吉田神社から南へ500メートルの場所に吉田神葬墓地がある。ここに吉田家の墓地があるのではないかと期待して、訪ねることにした。結果的に(恐らく)吉田家の墓地は鍵がかけられて進入できず。
その代わり墓地中央に田能村竹田の義子田能村直入の墓に出会うことができた。
直入先生墓(田野村直入の墓)
田能村直入(ちょくにゅう)は、文化十一年(1814)の生まれ。九歳のときに田能村竹田の門に入って南画を学び、竹田にその画才を愛され、義子として田能村の姓を与えられた。壮年に清国に遊び、二十六歳のとき大阪に出て学を篠崎小竹に学び、武を大塩平八郎に受けた。明治初年、京都に移り、南宋画学校を創め、理事兼教授となった。のちの私立美術工芸学校の前身である。そののち博覧会・共進会の審査員を数多くつとめた。画は雅致に富み、とくに山水に長じた。明治四十年(1907)、年九十四にて没。
吉田神葬墓地
吉田良熈は文化七年(1810)の生まれ。初め良芳と称したが、嘉永六年(1853)三月、良熈と改めた。吉田神社吉田兼倶の後裔で、代々神祇官次官を継承した。文政六年(1823)十二月元服して昇殿を許され、天保八年(1837)五月、侍従、十二月、神祇権大副に任じられ、弘化四年(1847)五月、従三位に進み、ついで嘉永四年(1851)正月、正三位に叙された。安政五年(1858)三月、日米通商条約勅許阻止のため中山忠能以下八十八卿の公家が列参した際、その中に加わった。明治元年(1868)、年五十九で没。
吉田良義(よしのり)は、天保八年(1837)の生まれ。父は吉田良熈。嘉永三年(1850)九月、元服して昇殿を許され、安政三年(1856)二月、侍従となり、慶應元年(1865)十二月、従三位に進み、慶應三年(1867)八月、神祇権大副となった。その間、安政五年(1858)三月、日米通商条約勅許阻止のため中山忠能以下八十八卿の公家が列参した時、その一員に加わった。維新の際、家学吉田神道の振興を志して平田銕胤に入門し、また矢野玄道に国学の講義を受けるなど研鑽を重ねた。明治元年(1868)二月、参与・神祇事務局輔となり、同年十月、皇学所御用掛に任じられ、明治二年(1869)九月、皇学所が廃されると、十二月、宮中勤番、明治三年(1870)十二月、皇太后宮職勤番を仰せ付けられた。明治二十三年(1890)、年五十四で没。
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