史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

壬生

2009年06月07日 | 栃木県
(壬生城)
 壬生藩は、遠祖に鳥居元忠を持つ鳥居家が、正徳二年(1712)に移封されて以降、幕末に至るまで鳥居家三万石の領地であった。幕末には常に佐幕と勤王の間で揺れ、両派で激しい争いが絶えなかった。戊辰戦争以降も藩論が定まらず、最終的には宇都宮藩等の近隣諸藩と足並みをそろえて官軍に属することになった。


壬生城跡

 陣屋の置かれた壬生城は、明治四年(1871)の廃藩置県の直後、廃城となり、現在は壬生城址公園として整備されている。土塁と水堀が残されているが、ほとんど往時の遺構は残っていない。


壬生城址公園

 慶応四年(1868)四月十九日、大鳥圭介の率いる旧幕軍の猛攻に耐え切れず、新政府軍は宇都宮城を明け渡した。これに対し、板橋にあった東山道総督府は、すぐさま精鋭を送った。河田左久馬(鳥取藩)が隊長に任命され、土佐藩、鳥取藩を主力とする兵約五百である。この部隊は三月に甲州勝沼で近藤勇の甲陽鎮撫隊を破った戦歴を持っている。河田左久馬指揮下の混成大隊は、同月二十日壬生城に入って宇都宮城に対峙した。
 その翌日、旧幕軍と新政府軍は、壬生城と宇都宮の中間に位置する安塚で激突することになる。

(常楽寺)


常楽寺

 常楽寺は、寛正三年(1462)、当時の壬生城主壬生胤業が創建した寺院で、江戸時代には鳥居家の菩提寺となった。


官修墓地 忍藩 佐藤市郎春儀之墓

 墓地には、安塚の戦闘で唯一の忍藩の戦死者である佐藤市郎の墓がある。


鳥居家累代の墓


斎藤一族の墓
手前は斎藤元昌墓

 斎藤元昌は、壬生藩の蘭方医である。天保十一年(1840)に壬生領内では初めての人体解剖を行い、嘉永三年(1850)には種痘を開始したことでも知られる。また、下野国に招かれた二宮尊徳の主治医も務めた。戊辰戦争では野戦病院で負傷者の治療に当たった。壬生藩は、六代藩主鳥居忠挙が蘭学を好んだため、蘭学が盛んとなった。現在、斎藤元昌らが住んでいた旧街道は、蘭学通りと呼ばれている。

(興光寺)


興光寺

 蘭学通りを西へ少し入ったところに興光寺がある。三代将軍家光の遺骸を日光に葬送する際に、幕命により福和田村から現在地に移転させられたという歴史を持つ寺である。


官修墓地
土佐 国吉榮之進親敬墓(左)
半田擢吉墓など

 興光寺官修墓地には、安塚の戦争で犠牲となった新政府軍兵士の墓がある。墓碑を確認すると、土佐藩士、因州鳥取藩士のものらしい。安塚の払暁での戦闘での戦死者は、主力となった土佐藩がもっとも多く六名、続いて鳥取藩四名、松本藩二名、吹上藩、壬生藩、忍藩、不明各一名、計十七名となっている。


官修墓地
因藩官軍附属山国隊 新井兼吉道成之墓(右)
高室次兵衛宗昌 田中淺太郎利政之墓(左)


官修墓地
因藩 石脇鼎元繁墓

(雄琴神社)
 雄琴神社は、当初藤森神社と称していたが、壬生城を本拠とした壬生氏が、遠祖を祀る雄琴神社(現・滋賀県大津市)から分祀して改称したものである。
 幕末、戊辰戦争の宮司黒川豊麿は、周辺の神主五十六名から成る利鎌隊を組織して新政府軍の先導隊として活躍した。安塚での戦闘にも参加している。


雄琴神社


黒川家遠祖之碑

(安塚)


安昌寺

 安塚の安昌寺にも官軍兵士土佐藩士山村鉄太郎の官修墓地がある。墓石は新しく建て替えられたらしいが、その傍らに同じく山村鉄太郎の名を刻んだ朽ちかけた墓碑も置かれている。


土佐 森山鉄太郎之墓


島田家

 安塚交差点のすぐ北側、道路左側に長屋門が見える。安塚の戦争の際、新政府軍が本陣を置いた島田家である。

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