(薩軍三勇士の墓)
西南役薩軍戦没勇士之墓
前回行き着けなかった薩軍三勇士の墓に再チャレンジである。山北保育園の南側の丘にある。
この墓に葬られているのは、薩軍の藤坂吉左衛門宗隆、伊集院義兼、山倉文左衛門義種の三 士。このうち藤坂、伊集院の命日は、明治十年(1877)三月十日とされている。この日、薩軍は木葉の政府軍を襲う目的で三個小隊を木留の本営から出動させ、玉東町西安寺の辺りで政府軍と戦った。この戦闘で薩軍萩原隊に十余名の死傷があり、藤坂、伊集院、山倉の三士は、萩原隊に属していたと考えられている。山倉は三月十日、負傷し、近所の山野家に匿われたが、五月二十日落命。藤坂、伊集院の墓地に追葬された。この墓碑は、昭和六十三年(1988)に新しく建てられたもので、三士の位牌は今も山野家に祀られているという。
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西南役薩軍戦没勇士之墓
前回行き着けなかった薩軍三勇士の墓に再チャレンジである。山北保育園の南側の丘にある。
この墓に葬られているのは、薩軍の藤坂吉左衛門宗隆、伊集院義兼、山倉文左衛門義種の三 士。このうち藤坂、伊集院の命日は、明治十年(1877)三月十日とされている。この日、薩軍は木葉の政府軍を襲う目的で三個小隊を木留の本営から出動させ、玉東町西安寺の辺りで政府軍と戦った。この戦闘で薩軍萩原隊に十余名の死傷があり、藤坂、伊集院、山倉の三士は、萩原隊に属していたと考えられている。山倉は三月十日、負傷し、近所の山野家に匿われたが、五月二十日落命。藤坂、伊集院の墓地に追葬された。この墓碑は、昭和六十三年(1988)に新しく建てられたもので、三士の位牌は今も山野家に祀られているという。
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