ハノイに着任して4カ月余りが経過した。年末年始の休みを利用して息子がベトナムに遊びに来るという。ハノイでは世界遺産ハロン湾やニンビンの街を日帰り旅行した。その後、鉄ちゃんの息子は、当初の計画とおりハノイからベトナム統一鉄道を使って南下した。翌週末をホーチミンで過ごすというので、私は飛行機でハノイから移動して現地で合流することにした。私にとっても初めてのホーチミン訪問となった。
岩倉使節団は欧米歴訪の帰路、シンガポールを出港した後、明治六年(1873)八月二十一日、正午頃、サイゴン河口に至り船中泊した。「米欧回覧実記」では久米邦武はサイゴン(現・ホーチミン)を「柴棍」と漢字で表記している。
翌二十二日、一行を乗せた船はサイゴン河を遡ること四十英里(マイル)、その日の午後一時頃にサイゴン市内に至った。
――― 柴棍府は、安南国のうち、真臘(チャンパ)部の都府にて、今は仏国の属地となりしより、船路の便には非れども、仏国政府より、年年八百万「フランク」の金を郵便会社に付し、往来此に立ち寄らしめて、此地の運送を便にし、植民を利し、兼ねて船客をして此地の民に散財し、其利潤を受しむ。故に仏の郵船は必ず此に立寄り、二日の程を費やすなり。
と、まずフランス領であることを強調している。
――― 柴棍河を挟みて人家を列ね、河東を本府となす。此地の炎熱は、非常にして、亜丁(アデン)に亜する処なりと云。本日は稍(やや)軽熱なりしも、八十六度に上りて、昼夜をわたれり。地は曠平にして、路を開く𤄃なれども修らす。街上に樹あり。草を生じて荒蕪す。平衍なれども車行安からず。外国人の居留地はやや修美なり。砌石を匝(めぐら)し、磚瓦を布き、屋造は三階の白堊晈然として、亜細亜風を錯えたる、欧州建築なり。
八月のサイゴンは猛暑である。暑さに閉口しながらも、街の様子の描写に余念がない。
――― 支那人種の不潔を厭わざるは、怪しむべきほどなり。曾て西洋人の長崎に来るもの、日本を目して潔癖ありと云。長崎は修潔の俗にも非ず。因て疑う。西洋も亦不潔なりと。今にして信ず。是支那人に反対せるを謂う處なることを。日本人の潔を好むは、欧州に恥ざるべし。
と、当地に住む中国人の不潔さを罵っている。中国人、そしてベトナム人の衛生観念は日本人とはかけ離れている。それは、今も変わらぬ風景である。
使節団一行はサイゴンの南のチャーレンという街に繰り出している。恐らくこのチャーレンという場所は、チョロン(Cho Lon)地区に違いない。十八世紀後半より華僑が住み初め、今でもチョロンはホーチミン随一の中華街である。
久米邦武は「其市街は陋悪にしてみるに足らず」と一刀両断している。穂城会館(天后宮)を訪問し、
――― 左に関帝を祀り、右に財帛星君を祀る。支那人の建てたるものにて、造営は精工を極む。壁は磚瓦にて造成す。其瓦は青黒色にて、甚だ堅し。欧州の磚瓦も、堅良を譲るべし。瓦を葺くこと、我邦と同じ、棟に陶製の竜をおき、檐(ひさし)は平面の磁に、絵画を染付たるを以て粧ひ、咸豊戊午、粤東沈玉造の款名あり。堂庭はみな石を甃し、屋内には瓦を甃し、瓦甚だ堅牢なり。
と珍しく中国人の製作したものを誉めている。
チョロンに行けば、今も往時のままの(久米邦武も見たであろう)穂城会館(天后宮)を目にすることができる。
チョロンを象徴するビンタイ市場
天后宮(穂城会館)
関帝
天后聖母
財帛星君
「米欧回覧実記」を著した久米邦武は、サイゴン(柴昆府)で教会を目にしているが、有名なサイゴン・ノートルダム寺院が創建されたのは1880年以降というから岩倉使節団が当地を訪れた後のことである。久米邦武はサイゴンで「羅馬教(即ち天主教)の寺もあり」と記しているが、彼らが見たのはどの教会だっただろうか。市内でも比較的有名なサイゴン大教会(聖母マリア教会)やチョロンのチャータム教会はいずれも十九世紀後半から末にかけて創建されたもので、岩倉使節団がサイゴンに上陸した時にはまだ無かったはずである。サイゴン動植物園と小児病院の周辺にいくつかある小さな教会、カットミン・サイゴン教会(Nha nguyen Thanh Giuse Dong Kin Cat Minh Sai Gon)やグエンアン教会(Nha Nguyen Co TTMV TGP Sai Gon)は、十九世紀の半ばに建てられたそうで、このうちのどれかが使節団が目にしたものなのかもしれない。
カットミン・サイゴン教会
カットミン・サイゴン教会(Nhà nguyện Thánh Giuse Dòng Kín Cát Minh Sài Gòn)は、この地域でももっとも古い教会の一つ。もちろん現在の建物は建て替えられて新しくなっているが、教会自体の創建は1862年とされている。
陳興道像
陳興道像のあるメーリン広場(Me Linh)の向かい側がフェリー乗り場になっていて、ここからサイゴン川のクルージング船が出ている。恐らく明治六年(1973)の岩倉使節団も、この辺りからサイゴンに上陸したのだろう。「米国回覧実記」によれば彼らは「ホテルデユニワル」に宿泊したという。ホテルデユニワルは、Hotel de univers(オテル ユニヴェール)と推定される。Hotel de universは、現在、陳興道像の立っているメーリン広場周辺、Melinh Pointというビルのある辺りにあったという。
ハノイ郊外の墓地
久米邦武の批判は、ベトナムの墓地に及んでいる。
――― 墓地を相し、田中の一区をとして此に葬る。故に、到る所に、冢墓纍纍(るいるい)たり、亦悪風なり、亦悪風俗と謂べし。
久米邦武が何をもって「悪風」「悪風俗」と批判しているのかはっきりとは分からない。ベトナムでは土葬が原則である。現代においては、土葬墓地が宅地開発や工業用地整備の障害になっているのは事実であり確かに「悪風」であるが、百五十年前、そこまで「悪風」だったのだろうか。一説によれば、土葬墓地は何年か周期で掘り起こされ、白骨化したところで移し替えられるという。つまり墓地をリサイクルしているという話を聞いたことがある。とすれば、割といけている、持続可能な仕組みなのかもしれない。
ミトーの水上家屋
ミトーの水上家屋
久米邦武はサイゴンの川沿いの家屋を描写している。
――― 河ニソヒテハ、水中ニ家ヲ架出シ、或ハ舟ヲ家トスルモノアリ
さすがに現代のホーチミンではこのような家屋はみかけないが、メコンデルタの街、ミトーに行ってみると、久米邦武の描写そのままの風景を見ることができる。
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