(若狭国吉城歴史資料館)
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若狭国吉城歴史資料館
佐柿には、小浜藩主となった酒井忠勝が寛永十一年(1634)に建設した御茶屋屋敷があった。御茶屋屋敷は、藩主の領内巡見の際の休息所であった。それ以降、佐柿は、町奉行所支配の下で丹後街道の宿場町として栄えた。現在、若狭国吉城歴史資料館の建つ辺りには、小浜藩の佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)があった。享和三年(1803)に佐柿陣屋と改められた。今も石垣や池泉跡、水路跡などが残されている。建物は全て廃藩後に破却された。
(准藩士屋敷跡)
准藩士屋敷跡
准藩士屋敷は、小浜藩預かりとなった水戸天狗党の残党を収容するため、慶應二年(1866)に新築されたもので、現在辛うじて当時の石垣が残されている。
水戸天狗党は、慶應元年(1865)、首領の武田耕雲斎以下三百五十三名は死罪となったが、遠島となった武田金次郎(武田耕雲斎の孫)以下百十名は、若年であることを理由に小浜藩に預けられて敦賀で謹慎し、翌年赦免された。小浜藩では、彼らを准藩士として扱い、佐柿に移した。慶応四年(1868)、朝廷より水戸帰藩を命じられ、佐柿を後にした。
茨城県から始まり、栃木県、群馬県、長野県、岐阜県、そして福井県にわたって点在する天狗党関連史跡の旅はいったんこれで完了である(蠅帽子峠はまだ踏破できていないが)。ちょっとした達成感に浸った。
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若狭国吉城歴史資料館
佐柿には、小浜藩主となった酒井忠勝が寛永十一年(1634)に建設した御茶屋屋敷があった。御茶屋屋敷は、藩主の領内巡見の際の休息所であった。それ以降、佐柿は、町奉行所支配の下で丹後街道の宿場町として栄えた。現在、若狭国吉城歴史資料館の建つ辺りには、小浜藩の佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)があった。享和三年(1803)に佐柿陣屋と改められた。今も石垣や池泉跡、水路跡などが残されている。建物は全て廃藩後に破却された。
(准藩士屋敷跡)
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准藩士屋敷跡
准藩士屋敷は、小浜藩預かりとなった水戸天狗党の残党を収容するため、慶應二年(1866)に新築されたもので、現在辛うじて当時の石垣が残されている。
水戸天狗党は、慶應元年(1865)、首領の武田耕雲斎以下三百五十三名は死罪となったが、遠島となった武田金次郎(武田耕雲斎の孫)以下百十名は、若年であることを理由に小浜藩に預けられて敦賀で謹慎し、翌年赦免された。小浜藩では、彼らを准藩士として扱い、佐柿に移した。慶応四年(1868)、朝廷より水戸帰藩を命じられ、佐柿を後にした。
茨城県から始まり、栃木県、群馬県、長野県、岐阜県、そして福井県にわたって点在する天狗党関連史跡の旅はいったんこれで完了である(蠅帽子峠はまだ踏破できていないが)。ちょっとした達成感に浸った。
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