史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

三国 Ⅰ

2018年10月20日 | 福井県
(三国神社)


三国神社

 三国は、鉄道がなかった江戸時代以前、物資の輸送手段の中心が船舶であった時代、日本海を代表する湊町であった。かつては三国町という独立した自治体であったが、平成の大合併により丸岡町、春江町と合併して坂井市の一部となった。
 かつて隆盛を誇った港町の名残を、町の中を歩くとあちこちで見ることができる。


木立神社

 境内の木立神社は、松平春嶽を祭神とし、明治二十四年(1891)に創建された。春嶽は、寿像と太刀一振りと立願文(りゅうがんもん)一巻を当社に寄進している。


瑞身門


光華閣(松平茂昭書)

 三国神社は、三国の惣社。大鳥居をくぐって笏谷石の石段を上ると、明治三年(1870)創建の楼門(瑞身門)がある。掲額の三字額「光華閣」は福井藩第十七代藩主松平茂昭の書である。

(汐見公園)


福井藩吹屋跡

 汐見町一角に浅田新右衛門家(屋号平新)が吹屋(鋳物工場)を建設した。幕府の命を受けた福井藩では、海岸防備のために三国湊の対岸新保浦や河口の宿浦にお台場を設けたが、ここに設置する大砲を福井藩御用達の浅田家が請負、製造したのである。

(斯文館跡)


斯文館跡

 斯文館は、文久二年(1862)、庶民教育の振興を図るために三国湊の豪商たちが設置した私塾である。翌年には思誠館と改称した。滝谷寺の住職道雅上人が教授の任にあたり、毎月三と八の日を定日とした。当地の多賀谷(たがや)家は医業に携わり、塾の教務にも当たった。今もこの家の表札は「多賀谷」となっている。町人自らの教育に対する情熱が、のちに龍翔小学校の建設に結び付いた。

(港会所跡)


港会所跡

 江戸時代、三国湊の自治は住民自治で行われていた。明治三年(1870)には会所をこの地に移転して自治事務を執り行った。



(金清)


島雪斎の生家

 現在、呉服屋?金清のある場所が、木彫家島雪斎の生家跡である。
 島雪斎は、文政三年(1820)に生まれ、京都に出て長谷川玉峰の門人として木彫の修行に励み、法教の栄誉を得た。幕末から明治初期にかけて優れた作品を製作し、同時期に木彫で名をはせた志摩乗時一門と並んで活躍し、三国工芸の名声を高めた。明治十二年(1879)没。


(下西区民館)


三国幽民生誕地

 三国湊中心街の西側にあった西町が、寛永・正保年間(1624~1647)頃、上西町と下西町に分れた。下西地区にはオランダ人エッセルがデザインした龍翔小学校が建てられ、三国港のシンボルとして偉容を誇った(大正三年取り壊し)。
 この地域は、古くから有力商人が軒を連ね、中でも江戸後期に一代で財を成した宮越屋与兵衛(三国与兵衛、森与兵衛とも称す)は有名である。その三男に生まれた儒学者三国幽民(大学)は幕末の騒乱に関与したことでも知られる。
 下西地区の山方には職人も多く住み、精密な彫刻技術を誇った島雪斎などの名人を生んでいる。

(大野屋)


大野屋

 越前大野藩では、家老内山良休の提案を受けて、大野屋と称する産物会所(今でいう商社)を起業した。第一号店は安政二年(1855)大阪に開店。以後、全国に四十店舗を展開した。この地は三国湊で大野屋が置かれた場所である。家屋の形態は、三国独特の典型的なカグラ建てである。

(運上会所跡)


運上会所跡

 運上会所は、文久元年(1861年)に設置された役所である。

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