(恵迪斎跡)
恵迪斎跡
天保九年(1838)、松平春嶽の命を受けた橋本左内が、藩内の文教の発展向上に努めた。その一環で嘉永六年(1853)、藩内で初めて福井城下外、粟田部の地に公立平民学校として恵迪斎が創立された。初代塾長は三寺三作。粟田部の地に教育の灯りを点した。明治十二年(1879)、校舎新築とともに松平春嶽の命により当地に花筐校が誕生した。昭和十二年(1937)には花筐文庫が建設され、この場所は粟田部の郷土教育文化の発祥の地として歩み続けた。
(岡太神社)
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岡太神社
岡太(おかもと)神社本殿近くに坪田孫助の碑がある。
坪田孫助翁碑
坪田孫助は、天保七年(1836)の生まれで、幼名を駒吉のち松吉と称し、家を興すに至り孫助と名乗った。生来機敏で商才があり、その先見性は海外通商貿易の必要なことを痛感し、横浜に飛び福井羽二重の国外輸出に努力した。越前福井藩の藩財政再建の責任者由利公正は、坪田孫助の識見を高く評価して、藩保有の生糸全部の処分を一任した。その結果、期待通りの大成功を収め、莫大な利益を博したので、福井藩はこれに対して金五百両という大金をもって報いた。坪田孫助は、福井羽二重の声価を世界中に広めた功労者であり、海外通商貿易の日本人最初の先学者として郷土の誇るべき偉大な傑物であったことを讃えてこの碑が建てられた。篆額は農商務大臣榎本武揚。
(金刀比羅神社)
金刀比羅神社
花筐神社の山頂に金刀比羅神社が鎮座している。境内から旧粟田部市街地を見下ろすことができる。
参道に斎藤梁山、結城林詮の顕彰碑がある。
斎藤梁山寿碑
斎藤梁山は、医師斎藤良衛を父として、天保四年(1833)に生まれ、恵迪斎創立当初よりの塾生で、三寺三作塾長が松平春嶽の命で帰藩するに当り、塾長代行を託された。塾生の信望も篤く、また教育に対する情熱は父祖伝来の医業までも捨て、郷土の子弟教育に一生を捧げた、熱血あふれる教育者であった。門弟は七百に及んだという。この寿碑は、明治三十年(1897)、門弟有志が師の還暦を祝い建立したものである。享年六十二。
恵迪斎林詮碑
福井藩士結城林詮の顕彰碑である。結城林詮は、恵迪斎初代塾長三寺三作が安政四年(1857)、福井藩学明道館教授として帰藩した後、慶應元年(1865)、二代目塾長として恵迪斎の経営に努力した。明治三年(1870)、藩命により恵迪斎が廃止され、その後郷学所長を務め、窮理、桜鳴、愛景、花筐の各小学校教員として初代校長を務め、明治十九年(1886)まで粟田部の小学校教育に尽くした。明治三十六年(1903)、その功績を顕彰して有志の手によりこの石碑が建立された。
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恵迪斎跡
天保九年(1838)、松平春嶽の命を受けた橋本左内が、藩内の文教の発展向上に努めた。その一環で嘉永六年(1853)、藩内で初めて福井城下外、粟田部の地に公立平民学校として恵迪斎が創立された。初代塾長は三寺三作。粟田部の地に教育の灯りを点した。明治十二年(1879)、校舎新築とともに松平春嶽の命により当地に花筐校が誕生した。昭和十二年(1937)には花筐文庫が建設され、この場所は粟田部の郷土教育文化の発祥の地として歩み続けた。
(岡太神社)
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岡太神社
岡太(おかもと)神社本殿近くに坪田孫助の碑がある。
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坪田孫助翁碑
坪田孫助は、天保七年(1836)の生まれで、幼名を駒吉のち松吉と称し、家を興すに至り孫助と名乗った。生来機敏で商才があり、その先見性は海外通商貿易の必要なことを痛感し、横浜に飛び福井羽二重の国外輸出に努力した。越前福井藩の藩財政再建の責任者由利公正は、坪田孫助の識見を高く評価して、藩保有の生糸全部の処分を一任した。その結果、期待通りの大成功を収め、莫大な利益を博したので、福井藩はこれに対して金五百両という大金をもって報いた。坪田孫助は、福井羽二重の声価を世界中に広めた功労者であり、海外通商貿易の日本人最初の先学者として郷土の誇るべき偉大な傑物であったことを讃えてこの碑が建てられた。篆額は農商務大臣榎本武揚。
(金刀比羅神社)
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金刀比羅神社
花筐神社の山頂に金刀比羅神社が鎮座している。境内から旧粟田部市街地を見下ろすことができる。
参道に斎藤梁山、結城林詮の顕彰碑がある。
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斎藤梁山寿碑
斎藤梁山は、医師斎藤良衛を父として、天保四年(1833)に生まれ、恵迪斎創立当初よりの塾生で、三寺三作塾長が松平春嶽の命で帰藩するに当り、塾長代行を託された。塾生の信望も篤く、また教育に対する情熱は父祖伝来の医業までも捨て、郷土の子弟教育に一生を捧げた、熱血あふれる教育者であった。門弟は七百に及んだという。この寿碑は、明治三十年(1897)、門弟有志が師の還暦を祝い建立したものである。享年六十二。
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恵迪斎林詮碑
福井藩士結城林詮の顕彰碑である。結城林詮は、恵迪斎初代塾長三寺三作が安政四年(1857)、福井藩学明道館教授として帰藩した後、慶應元年(1865)、二代目塾長として恵迪斎の経営に努力した。明治三年(1870)、藩命により恵迪斎が廃止され、その後郷学所長を務め、窮理、桜鳴、愛景、花筐の各小学校教員として初代校長を務め、明治十九年(1886)まで粟田部の小学校教育に尽くした。明治三十六年(1903)、その功績を顕彰して有志の手によりこの石碑が建立された。
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