(満福寺)
満福寺
上総堂 黒羽藩士の墓
市川大林寺(= 廃寺。現在のJR市川駅北)に集結した旧幕府軍は、総帥に大鳥圭介を選出し、日光へ向けて行軍を始めた。慶応四年(1868)四月十二日のことである。
小金から北上を続ける本隊とは別に、土方歳三の率いる支隊は水街道から下妻、下館をたどる経路をとった。武井(現・茨城県結城市南郊)での遭遇戦で快勝を得た大鳥隊は、栃木に入った。その頃、土方支隊は蓼沼(現・栃木県上三川)に進軍していた。
土方歳三は、蓼沼の満福寺に陣を置き、ここで四人の黒羽藩士を捕え斬首している。黒羽藩は前藩主大関増裕が幕府で海軍総裁兼若年寄を務めた佐幕派の家柄である。しかし、大関増裕が前年に亡くなったあと、藩論は一変して勤王に転じていたのである。
斬首された四人の黒羽藩士の墓が、満福寺から百メートルほど離れた満福寺上総堂に残されている。

満福寺

上総堂 黒羽藩士の墓
市川大林寺(= 廃寺。現在のJR市川駅北)に集結した旧幕府軍は、総帥に大鳥圭介を選出し、日光へ向けて行軍を始めた。慶応四年(1868)四月十二日のことである。
小金から北上を続ける本隊とは別に、土方歳三の率いる支隊は水街道から下妻、下館をたどる経路をとった。武井(現・茨城県結城市南郊)での遭遇戦で快勝を得た大鳥隊は、栃木に入った。その頃、土方支隊は蓼沼(現・栃木県上三川)に進軍していた。
土方歳三は、蓼沼の満福寺に陣を置き、ここで四人の黒羽藩士を捕え斬首している。黒羽藩は前藩主大関増裕が幕府で海軍総裁兼若年寄を務めた佐幕派の家柄である。しかし、大関増裕が前年に亡くなったあと、藩論は一変して勤王に転じていたのである。
斬首された四人の黒羽藩士の墓が、満福寺から百メートルほど離れた満福寺上総堂に残されている。
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