(白老元陣屋資料館)
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仙台藩白老元陣屋資料館
一年半前の来訪時には、閉館のため見学できなかった白老の仙台藩元陣屋資料館を再訪した。
幕末、蝦夷地の警備を命じられたのは、仙台藩のほか、弘前藩、庄内藩、秋田藩、盛岡藩、会津藩の東北六藩であった。中でも仙台藩は白老から道東の広尾、厚岸、根室、さらに千島列島に至る広大な範囲を任じられることになった。当初、幕府からは勇払(現・苫小牧市)に元陣屋を置くように命じられたが、仙台藩の重役三好監物は現地を調査した結果、「勇払は湿地帯であり陣屋を建てにくい上に波が荒く船の出入に適していない。それより自然の地形をそのまま利用できる白老に置いた方がよい」と判断し、ここに元陣屋を置くことになった。
白老の地を視察する三好監物(右)ら
元陣屋には、概ね百二十人の藩士が交替で詰めた。日常的には、弓や剣術の稽古のほか、火縄銃や大砲の訓練に励んだといわれる。
仙台藩白老元陣屋資料館の展示
(仙台藩士の墓)
仙台藩士の墓を含め、陣屋跡は維新後しばらく住民の記憶から消えていたが、明治三十九年(1906)、雑草の中に倒れていた藩士の墓石が発見されたことから、地元住民が中心となり、塩釜神社の建て直しや藩士の供養に力を注いだ。
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仙台藩士之墓
仙台藩が白老を拠点として蝦夷地を警衛していた安政三年(1856)から慶應四年(1868)までの十二年間における地没者は、判明しているだけでも二十三名に達している。内訳としては男十九、女四となっている。その中には代官草刈運太郎の名も見える。
(社台小学校)
社台小学校
社台小学校の正門を入って右側に草刈運太郎の墓がある。
草刈運太郎墓
仙台藩が白老に元陣屋を築いたのは安政三年(1856)のことで、その三年後の安政六年(1859)には代官が置かれることになり、その三代目代官として草刈運太郎が着任した。慶応四年(1868)一月、戊辰戦争が起こり、東北諸藩と同盟を結んだ仙台藩は敗れ、白老の陣屋にも政府軍が迫った。元陣屋の藩士は全員白老を撤退したが、運太郎は藩の民政責任者として当地に残った。その時、進軍してきた政府軍が狼藉を働いたため、これに抗議して争いとなり、深手を負って社台の漁家相木林蔵の番屋に逃れた。しかし、傷は癒えず、同年八月二十五日、前浜で自害して四十九歳の生涯を閉じた。この墓碑は明治十六年(1883)、旧仙台藩士で画家の茂庭竹泉が同地を訪れた際、その死を悼んで建立したものである。今も供養のため地域住民の手により墓前祭が行われているという。
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仙台藩白老元陣屋資料館
一年半前の来訪時には、閉館のため見学できなかった白老の仙台藩元陣屋資料館を再訪した。
幕末、蝦夷地の警備を命じられたのは、仙台藩のほか、弘前藩、庄内藩、秋田藩、盛岡藩、会津藩の東北六藩であった。中でも仙台藩は白老から道東の広尾、厚岸、根室、さらに千島列島に至る広大な範囲を任じられることになった。当初、幕府からは勇払(現・苫小牧市)に元陣屋を置くように命じられたが、仙台藩の重役三好監物は現地を調査した結果、「勇払は湿地帯であり陣屋を建てにくい上に波が荒く船の出入に適していない。それより自然の地形をそのまま利用できる白老に置いた方がよい」と判断し、ここに元陣屋を置くことになった。
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白老の地を視察する三好監物(右)ら
元陣屋には、概ね百二十人の藩士が交替で詰めた。日常的には、弓や剣術の稽古のほか、火縄銃や大砲の訓練に励んだといわれる。
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仙台藩白老元陣屋資料館の展示
(仙台藩士の墓)
仙台藩士の墓を含め、陣屋跡は維新後しばらく住民の記憶から消えていたが、明治三十九年(1906)、雑草の中に倒れていた藩士の墓石が発見されたことから、地元住民が中心となり、塩釜神社の建て直しや藩士の供養に力を注いだ。
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仙台藩士之墓
仙台藩が白老を拠点として蝦夷地を警衛していた安政三年(1856)から慶應四年(1868)までの十二年間における地没者は、判明しているだけでも二十三名に達している。内訳としては男十九、女四となっている。その中には代官草刈運太郎の名も見える。
(社台小学校)
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社台小学校
社台小学校の正門を入って右側に草刈運太郎の墓がある。
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草刈運太郎墓
仙台藩が白老に元陣屋を築いたのは安政三年(1856)のことで、その三年後の安政六年(1859)には代官が置かれることになり、その三代目代官として草刈運太郎が着任した。慶応四年(1868)一月、戊辰戦争が起こり、東北諸藩と同盟を結んだ仙台藩は敗れ、白老の陣屋にも政府軍が迫った。元陣屋の藩士は全員白老を撤退したが、運太郎は藩の民政責任者として当地に残った。その時、進軍してきた政府軍が狼藉を働いたため、これに抗議して争いとなり、深手を負って社台の漁家相木林蔵の番屋に逃れた。しかし、傷は癒えず、同年八月二十五日、前浜で自害して四十九歳の生涯を閉じた。この墓碑は明治十六年(1883)、旧仙台藩士で画家の茂庭竹泉が同地を訪れた際、その死を悼んで建立したものである。今も供養のため地域住民の手により墓前祭が行われているという。
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