史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

人吉 Ⅱ

2017年04月15日 | 熊本県
(武家屋敷)


武家屋敷門

永国寺から歩いて数分。西郷隆盛が宿舎として利用した。但し、西南戦争時に焼失したため、現存の建物はその後ほかの邸を移築したもの。
屋敷の主、新宮嘉善は父親が官軍に属していたが、身の潔白を証明するため、住んでいた家族・親族をほかに移動させて屋敷を提供したという。


(官軍砲台跡)
薩軍が人吉に逃げ込み、永国寺に本拠地を構えたあと、官軍は村山に本陣を構える。


砲台跡から人吉市内を臨む

薩軍が市街地に堂々と陣を張ったのに対し、悪く言えば臆病な、良く言えば安全な場所を選んだ。現在は人吉西小学校が建ち、本陣を偲ぶものは無い。

高台からは市内が一望でき、薩軍の本拠地永国寺も指呼の間である。官軍はここから永国寺に向け砲弾を打ち込んだ。薩軍も応戦したが砲弾は届かなかったという。
人吉に退却して三十三日間。遂に薩軍は山中を壊走する。明治十年(1877)六月一日のことであった。


官軍砲台は山頂に在った

(瓦屋官軍本陣跡)


瓦屋町官軍本陣跡(政岡邸)

 六月一日、官軍は午前八時頃、村山からの砲撃授護のもとに、人吉市街に突入し激しい市街戦となった。この日、別働第二旅団司令長官山田顕義少将(新宮簡の上官)は、照岳にあって官軍を指揮しており、その後戦況が進むのをみて、山を下り村山に至って諸隊を督励した。既に大橋は薩軍によって落とされていて、球磨川を渡ることが不可能と悟り、北岸に陣を張り、翌日の攻撃に備えるため本陣を瓦屋の政岡邸に定めた。当時、使用された望遠鏡、燭台、火鉢、銃掛、鉛弾製造用手灼等が保存されているそうである。

(青井阿蘇神社)
JR人吉駅から徒歩数分の場所に青井阿蘇神社の大きな鳥居がある。創建は806年(大同元年)というから大変古いが、本殿や楼門といった建造物はいずれも華美で、桃山時代の気風を伝えている。

人吉に割拠した薩軍は、兵の補給を図るため士族千五百人と言われる人吉で募兵した。恐らく徴兵ははかばかしくなく、その焦りの反映であろう。薩軍は青井阿蘇神社の楼門前に断頭台を設置し、従軍を拒む者を見せしめに殺したと伝えられる。一種の恐怖政治である。このような乱暴な方法を思い付き実践したのは辺見十郎太辺りであったろうか。


青井阿蘇神社


教育勅語碑

 楼門脇に教育勅語碑が建立されている。教育勅語というと、今話題の森友学園が生徒にこれを暗唱させていたことで俄かにクローズアップされている。戦前、教育勅語が軍国主義に悪用されたことがあるため、教育勅語そのものを否定するような風潮があるが、よくよく内容を見れば「親孝行をしましょう」とか「友達と仲良くし、信じ合いましょう」とか、特に毛嫌いするようなものではない。
 教育勅語は、明治二十三年(1890)十月、明治天皇により渙発されたもの。この起草には熊本県出身の法務長官井上毅や明治天皇の侍講元田永孚らが大きな役割を果たした。

(大信寺)


大信寺

 大信寺は官軍の拘置所として使われた。本堂前に西南戦争の戦死者の慰霊塔である「戦死之碑」が建てられている。


戦死之碑

(願成寺)


願成寺

 願成寺は相良氏の菩提寺であり、初代長頼から三十七代頼綱に至る歴代城主の墓地がある。九州には大村氏や鍋島氏の大名墓があって、いずれも圧倒的な迫力であるが、この人吉の相良家墓地も負けていない。


相良長頼の墓

 初代相良長頼は、藤原鎌足の子孫とされ、平安末期に遠江国相良荘の地頭をしていた武家である。元久二年(1205)に人吉庄の地頭に任命されて以来、相良氏と人吉の関係が始まった。長頼は建長六年(1254)、七十八歳で亡くなった。長頼の遺骨は金堂須弥壇の下に埋葬されていたが、西南戦争で金堂が焼失すると、その後金堂跡地に長頼の墓を建設する運動が起こった。現在の石塔は明治二十一年(1888)の完成。碑文は第三十六代頼紹(よりつぐ)が記したものである。


相良頼基墓

 相良頼基(よりもと)は、天保十二年(1841)、相良頼之の四男に生まれた。相良藩最後の藩主となる。安政三年(1856)、兄の急死により家督を継いだ。慶応元年(1865)、丑歳騒動と呼ばれる、新旧兵制採用に関する悲劇があり、このため多くの人材を失った。西洋流(佐幕派)の後退により藩論は統一され、頼基は一隊を率いて上京しようとしたが、熊本藩の向背を恐れて薩摩藩の蒸気船によろうとして延引した。慶応四年(1868)二月上京、八月の会津戦争には日光口より参加。翌年六月には人吉藩知事となり、明治四年(1871)、免じられほどなく隠居した。明治十八年(1885)年四十五で没。


相良長福墓

 相良長福(ながとみ)は、相良頼之の長男。父の隠居に伴い天保十年(1839)家督を継いだ。藩の財政再建のため軋轢を生み、茸山騒動や一揆鎮圧に苦慮した。安政二年(1855)江戸からの帰国途中に発病し、間もなく病死した。三十二歳であった。

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