(大福田寺)
伊賀上野から伊賀鉄道にて伊賀神戸(かんべ)に出て、そこから近鉄を乗り継いで桑名に出る。桑名では駅前の桑名市物産観光案内所にて自転車を貸してくれる。これまで何度か桑名に立ち寄っているが、いずれも年末年始の休業日に当たっていたため自転車を調達できなかった。今回初めて自転車を借りて市内を探索することができた。遠距離を移動するので、電動自転車を選んだ(借りるときに保証料千円を支払うが、返却時に戻ってくる。つまり実質無料である)。市内の大福田寺、仏眼院、晴雲寺を回ったが、実に快適であった。
大福田寺
藤原廣蔭墓(鬼島広蔭の墓)
大福田寺に富樫(鬼島)廣蔭の墓がある。墓石には藤原廣蔭と刻まれている。
鬼島廣蔭は、寛政五年(1793)、和歌山に生まれた。文政四年(1821)、二十八歳のとき、本居大平に神典・歌道を学び、翌年、その嗣となり、松坂で本居春庭に学んだ。さらにその翌年、多病により本居氏の嗣を辞し、曾祖母の富樫家を継ぎ、再び松坂で春庭について語学・歌書・神典など国学を究めた。文政十一年(1828)、春庭の没後、遺子、弟子の指導に当たり、小津久足に後事を託した。翌年、多度神社神主、桑名の中臣神社の祀官を兼ね、鬼島家を継ぎ、国学を子弟に教授した。安政二年(1855)、上京して従五位下に叙せられた。古典に明らかで語法に詳しく、音義に新設をたて、その門人約千七百人を教えた。門下に竹内南淵、吉川楽平、堀秀成、落合直澄、長尾名島、富樫広厚、山本資胤などの人材を出した。明治六年(1873)、八十一歳で没。
(佛眼院)
佛眼院
佛眼院は桑名藩主の祈願所であり、規模・格式ともに領内において最も有力な寺院の一つであった。佛眼院が残した『公私用留記』には鳥羽伏見戦争の勃発から桑名開城に至る切迫した状況が記録されている。また『公私用留記』では赤報隊が安永村晴雲寺に入った様子が記録されている。「悪党共之様子ニ十分相見へ候」「大方奕徒」と表現されており、「怪しい一軍」と受け止めていることが見て取れる。
(晴雲寺)
晴雲寺
安永の晴雲寺には赤報隊が宿泊した。「相楽総三とその同志」(長谷川伸著 中公文庫)によれば、一行は綾小路俊実の隊に合流するため、慶応四年(1868)一月二十八日、晴雲寺に入った。その報が亀山藩に届くと、「偽ものの公卿と強盗どもが泊った」と受け取り、進藤百助率いる藩兵は直ちに晴雲寺を包囲した。彼らを偽物と信じて疑わない亀山藩士らは滋野井公寿らを生け捕り東征軍本営に引き渡した。このとき激しく抵抗したのは赤木小太郎のみだったと伝えられる。赤木は亀山藩士に組み伏せられ捕えられた。捕えられた川喜多真彦(亀山藩士)、赤木、綿引富蔵の三人は三滝川(御嶽川)の河原に引き出され、首を刎ねられた。
伊賀上野から伊賀鉄道にて伊賀神戸(かんべ)に出て、そこから近鉄を乗り継いで桑名に出る。桑名では駅前の桑名市物産観光案内所にて自転車を貸してくれる。これまで何度か桑名に立ち寄っているが、いずれも年末年始の休業日に当たっていたため自転車を調達できなかった。今回初めて自転車を借りて市内を探索することができた。遠距離を移動するので、電動自転車を選んだ(借りるときに保証料千円を支払うが、返却時に戻ってくる。つまり実質無料である)。市内の大福田寺、仏眼院、晴雲寺を回ったが、実に快適であった。

大福田寺

藤原廣蔭墓(鬼島広蔭の墓)
大福田寺に富樫(鬼島)廣蔭の墓がある。墓石には藤原廣蔭と刻まれている。
鬼島廣蔭は、寛政五年(1793)、和歌山に生まれた。文政四年(1821)、二十八歳のとき、本居大平に神典・歌道を学び、翌年、その嗣となり、松坂で本居春庭に学んだ。さらにその翌年、多病により本居氏の嗣を辞し、曾祖母の富樫家を継ぎ、再び松坂で春庭について語学・歌書・神典など国学を究めた。文政十一年(1828)、春庭の没後、遺子、弟子の指導に当たり、小津久足に後事を託した。翌年、多度神社神主、桑名の中臣神社の祀官を兼ね、鬼島家を継ぎ、国学を子弟に教授した。安政二年(1855)、上京して従五位下に叙せられた。古典に明らかで語法に詳しく、音義に新設をたて、その門人約千七百人を教えた。門下に竹内南淵、吉川楽平、堀秀成、落合直澄、長尾名島、富樫広厚、山本資胤などの人材を出した。明治六年(1873)、八十一歳で没。
(佛眼院)

佛眼院
佛眼院は桑名藩主の祈願所であり、規模・格式ともに領内において最も有力な寺院の一つであった。佛眼院が残した『公私用留記』には鳥羽伏見戦争の勃発から桑名開城に至る切迫した状況が記録されている。また『公私用留記』では赤報隊が安永村晴雲寺に入った様子が記録されている。「悪党共之様子ニ十分相見へ候」「大方奕徒」と表現されており、「怪しい一軍」と受け止めていることが見て取れる。
(晴雲寺)

晴雲寺
安永の晴雲寺には赤報隊が宿泊した。「相楽総三とその同志」(長谷川伸著 中公文庫)によれば、一行は綾小路俊実の隊に合流するため、慶応四年(1868)一月二十八日、晴雲寺に入った。その報が亀山藩に届くと、「偽ものの公卿と強盗どもが泊った」と受け取り、進藤百助率いる藩兵は直ちに晴雲寺を包囲した。彼らを偽物と信じて疑わない亀山藩士らは滋野井公寿らを生け捕り東征軍本営に引き渡した。このとき激しく抵抗したのは赤木小太郎のみだったと伝えられる。赤木は亀山藩士に組み伏せられ捕えられた。捕えられた川喜多真彦(亀山藩士)、赤木、綿引富蔵の三人は三滝川(御嶽川)の河原に引き出され、首を刎ねられた。