史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

桑名 Ⅳ

2016年03月26日 | 三重県
(大福田寺)
 伊賀上野から伊賀鉄道にて伊賀神戸(かんべ)に出て、そこから近鉄を乗り継いで桑名に出る。桑名では駅前の桑名市物産観光案内所にて自転車を貸してくれる。これまで何度か桑名に立ち寄っているが、いずれも年末年始の休業日に当たっていたため自転車を調達できなかった。今回初めて自転車を借りて市内を探索することができた。遠距離を移動するので、電動自転車を選んだ(借りるときに保証料千円を支払うが、返却時に戻ってくる。つまり実質無料である)。市内の大福田寺、仏眼院、晴雲寺を回ったが、実に快適であった。


大福田寺


藤原廣蔭墓(鬼島広蔭の墓)

 大福田寺に富樫(鬼島)廣蔭の墓がある。墓石には藤原廣蔭と刻まれている。
 鬼島廣蔭は、寛政五年(1793)、和歌山に生まれた。文政四年(1821)、二十八歳のとき、本居大平に神典・歌道を学び、翌年、その嗣となり、松坂で本居春庭に学んだ。さらにその翌年、多病により本居氏の嗣を辞し、曾祖母の富樫家を継ぎ、再び松坂で春庭について語学・歌書・神典など国学を究めた。文政十一年(1828)、春庭の没後、遺子、弟子の指導に当たり、小津久足に後事を託した。翌年、多度神社神主、桑名の中臣神社の祀官を兼ね、鬼島家を継ぎ、国学を子弟に教授した。安政二年(1855)、上京して従五位下に叙せられた。古典に明らかで語法に詳しく、音義に新設をたて、その門人約千七百人を教えた。門下に竹内南淵、吉川楽平、堀秀成、落合直澄、長尾名島、富樫広厚、山本資胤などの人材を出した。明治六年(1873)、八十一歳で没。

(佛眼院)


佛眼院

 佛眼院は桑名藩主の祈願所であり、規模・格式ともに領内において最も有力な寺院の一つであった。佛眼院が残した『公私用留記』には鳥羽伏見戦争の勃発から桑名開城に至る切迫した状況が記録されている。また『公私用留記』では赤報隊が安永村晴雲寺に入った様子が記録されている。「悪党共之様子ニ十分相見へ候」「大方奕徒」と表現されており、「怪しい一軍」と受け止めていることが見て取れる。

(晴雲寺)


晴雲寺

 安永の晴雲寺には赤報隊が宿泊した。「相楽総三とその同志」(長谷川伸著 中公文庫)によれば、一行は綾小路俊実の隊に合流するため、慶応四年(1868)一月二十八日、晴雲寺に入った。その報が亀山藩に届くと、「偽ものの公卿と強盗どもが泊った」と受け取り、進藤百助率いる藩兵は直ちに晴雲寺を包囲した。彼らを偽物と信じて疑わない亀山藩士らは滋野井公寿らを生け捕り東征軍本営に引き渡した。このとき激しく抵抗したのは赤木小太郎のみだったと伝えられる。赤木は亀山藩士に組み伏せられ捕えられた。捕えられた川喜多真彦(亀山藩士)、赤木、綿引富蔵の三人は三滝川(御嶽川)の河原に引き出され、首を刎ねられた。

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伊賀

2016年03月26日 | 三重県


伊賀鉄道

 京都から八王子に戻る途中、今回は三重県の伊賀上野と桑名に立ち寄ることにした。朝七時過ぎに実家を出て、七時四十一分発の近鉄急行に乗車する。祝園でJRに乗り換え、木津、加茂、伊賀上野を経て十時半に伊賀市の上野に行き着いた。ほぼ三時間を要したが、そのうち一時間半は待ち時間であった。JRの乗り換えは実に効率が悪い。特に加茂で関西本線への乗り継ぎでは三十分以上を待たされた。利用者を増やしたければ、もう少し利用者の利便を考慮したもらいたいものである。
 JRの伊賀上野駅は市街地の北の外れにある。そこから伊賀鉄道という典型的なローカル線に乗って上野市駅を目指す。
 伊賀上野は忍者の街であり、松尾芭蕉の出身地でもある。駅前で芭蕉像が出迎えてくれる。


芭蕉像

(上野城)
 伊賀上野城は、別名を白鳳城という。天正十三年(1585)、伊賀の国を平定した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。豊臣秀吉の没後、徳川幕府が開かれると、慶長十三年(1608)、定次を失政を理由に改易。藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治から移り、筒井故城を拡張した。しかし、五層大天守は竣工直前暴風雨で倒壊し、直後に大阪夏の陣で豊臣方が敗亡したため、城普請は中止となり、その後城代家老が執政することになった。


上野城

 現在の上野城大天守・小天守は、昭和十年(1935)、当時の衆議院議員川崎克氏の尽力により再建されたもので、必ずしも創建当時の天守閣を参考にしたものではないが、それでも街から仰ぎ見る白亜の天守は美しい。シンボル・タワーとして存在感を放っている。


川崎克胸像

(上野高校)
 上野高校のシンボル的建物が、明治三十三年(1900)に建設された明治校舎である。今も現役で使用されているというのがとにかく素晴らしい。


上野高校 明治校舎

(旧崇廣堂)
 崇廣堂は、文政四年(1821)、伊勢津第十代藩主藤堂高兌の時代に伊賀、大和、山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため、津藩校有造館の支校として建てられたものである。


崇廣堂御成門


旧崇廣堂

 開設から約三十年を経た嘉永七年(1854)、伊賀地方を中心とした大地震(安政の伊賀大地震)により、講堂を除く多くの建物が倒壊した。翌年から復興され、今も創建当時の講堂、表門、御成門、玄関棟のほか、北控所、母屋等がよく保存されている。


講堂

(藤堂新七郎屋敷跡)


藤堂新七郎屋敷跡

 伊賀鉄道上野駅近くに藤堂新七郎屋敷跡と記された石碑がある。藤堂新七郎家は、藤堂高虎の祖父良隆の孫(つまり高虎とは従兄弟)に当たる藤堂良勝を祖とする家である。良勝は高虎の股肱の臣として仕え、たびたび戦功を挙げた。その後、藤堂新七郎家は、代々伊賀上野の城代家老などを務めた家である。松尾芭蕉もこの家に仕えていたことを知られている。
 文久三年(1863)の天誅組の変では、紀州藩や彦根藩とともに津藤堂藩も出兵を命じられているが、藤堂藩兵を率いていたのは、藤堂新七郎であった。
 同年九月朔日、吉村寅太郎は、紀州藩家老水野大炊頭忠幹宛てに書状を出した。「貴藩が大軍を出して我らに発砲しているのは、どういう間違いか」と糺している。さらに追ってきた津藩兵約千二百を率いる藤堂新七郎に対し、「貴藩はかねて勤王の志があると承知しているが」「然るにこの度五條に出兵したというのが、官軍に敵対するに等しい。一度お会いして存念をお伺いしたい」と皮肉たっぷりに問い詰めている。
 この時、使者にたったのが、下館藩士渋谷伊豫作であった。津藩では、渋谷を酒食でもてなし、眠ってしまったところを取り押さえたという。
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