史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「武士の娘」 杉本鉞子著 大岩美代訳 ちくま文庫

2016年03月27日 | 書評
著者杉本鉞子は長岡藩家老稲垣平助の娘に生まれ、のちにアメリカに渡ってコロンビア大学で日本文化史の教鞭をとった。「未開の封建国から来た女性が、アメリカ社会でキリスト教と西洋文化に接して覚醒した」というストーリーがアメリカ人に受け、本書は往年のベストセラーとなった。さらにドイツ、フランス、デンマーク、スウェーデンなど七か国語に翻訳され、絶賛を博した。
前半は、著者の幼少期の記憶が語られる。今となっては想像もつかないが、明治の生活は現代人の目にはやや退屈に見える。そんな中でも、正月や盂蘭盆、ひな祭りなど、季節ごとにイベントがあり、家族が集まって昔語りをする。その都度、幼い著者は、「ときめき」を覚えたという。そうやって著者は、鋭敏な感受性を養っていったのであろう。「栴檀は双葉より芳し」というが、その譬えがピタリと当てはまる女性であったように思う。
著者は結婚を機に米国に渡るが、武士の娘として育てられ、身に着けたものを失ったわけではない。「女は一度嫁すと、夫にはもちろん、家族全体の幸福に責任をもつ」よう教育を受けた彼女としては、米国の婦人らが、夫の目を盗んで靴下の内にお金を貯える(つまり「へそくり」)だとか、友達から金を借りたりする行為には、合点がいかなかったようである。
著者は「日本人というものは感情を出さない国民」と語る。「おかしい時には、袂のかげで笑い、子供が怪我をしても、涙をのんで「泣いちゃいけないよ」といいながら、すすり泣くのです。母がその死を告げるにも、失望のかげさえ見せず、微笑んでおり(中略)内心困りはてていながらも、なお、それと反対の面持ちでいるものです」。武士の娘の目には、人前で接吻をするような欧米式の愛の表現はどうにも理解ができなかったようである。
感情を表に出さないという国民性は、今でも日本人社会に根付いている。事故や犯罪で肉親を失ったときの遺族の対応を見ると、明らかに欧米や或はお隣の中国、韓国とも様相が異なる。日本人にとって、人前で泣き喚いたり、大声で怒鳴ることは、ハシタナイことなのである。
「思うこと」の最後に年老いた庭職人が紹介されている。この職人は、庭石をほんの二三寸動かしてはやり直しをしていた。お金にならないことなど気にも留めず、芸術的満足を得られるまで時間を費やした。この逸話も、日本人の精神性を表す典型例である。
本書は期せずして、日米の比較文化論となっている。つまり風俗や風習、ものの考え方などの違いが著者の体験を通じて浮き彫りにされているのである。著者が生きた時代から二代三代と世代を重ねるにつれて、彼我の風俗風習の差は小さくなってきた。本書は、この時代でこそ、そして武士の娘としての躾をたたきこまれた著者でこそ書き残すことができた名作といえる。
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「明治を作った密航者たち」 熊田忠雄著 祥伝社新書

2016年03月27日 | 書評
予防接種を受けていたというのにインフルエンザに罹患してしまい、三日間寝室で軟禁状態となった。その間、ヒマに任せてこの本を読破した。高熱を忘れるくらい面白い本であった。
海外渡航は国禁とされていた幕末、それでも危険を冒して密航を企てる者が続出した。吉田松陰のように、失敗して無念の涙を流した者も少なくない。本書では密航者を「グループ密航者」と「単独密航者」に大別し、それぞれのドラマを紹介している。
グループ密航者で取り分け有名なのは、薩摩と長州の密航者であろう。中でも長州藩の五人は「長州ファイブ」と呼ばれ、いずれも「我が国○○の父」と称される存在となった。
長州ファイブと時期も重なり、雄藩による集団密航という意味では共通する薩摩藩の密航者については、五代友厚が提案して実現したものである。長州藩との大きな違いは経済的なバックアップの手厚さであった。この時期、欧米への密航には、渡航費と初年度の学費、生活費を合わせて一人千両が必要とされた。一両は現在価値に直すと概ね一万円とされ、だとするとざっと一千万円である。長州藩の五人は、五人分五千両を捻出するのに四苦八苦したらしい。一方、薩摩藩では、十年分の留学費用として二十万両(つまり二十億円)を支給されたという。薩摩藩は二年続けて二十五人もの留学生を海外に送り込んだ。これだけの財政的基盤があったからこそ、遠く離れた京都に軍隊を長期間駐留させ、戊辰戦争では東北から蝦夷地にまで兵を送り続けることが可能であった。薩摩藩が幕末をリードできた背景には、圧倒的な財政力があったことを改めて思い知らされる。
長州藩の一人山尾庸三は、「金欠」に悩んだ末、恥を忍んでロンドン在住の薩摩藩留学生に借金を申し込んでいる。同じ年、日本国内では薩長同盟が結ばれ、外地でも両者の間に信頼関係が生まれていた。薩摩留学生は、一人一磅(ポンド)をカンパすることになり、合計十六磅(日本円にして約十両)が集まった。山尾は大感激して、造船業を学ぶためグラスゴーへ旅立った。
グループ密航と比べると、単独密航はよりスリリングである。本書では橘耕斎や新島襄などを紹介しているが、やはり脱国当日の場面は最大の山場である。橘耕斎の脱国手段については諸説あるようだが、大きな櫃に入れられて船まで運ばれたとか、いや樽だったといわれる。ロシア人が樽のフタを開けたとき、耕斎は両脚を上にしていた。搬出からずっとその姿勢だったらしい。
新島襄の出国の際も、船底の貨物室の中でじっと息を潜め、役人による積み荷の点検が通り過ぎるのを待った。脱国が成功するかどうか、というより生きるか死ぬかの瀬戸際であった。
欧米への密航となると日数もそれにかかる費用も莫大になるが、行先が上海となると、かなり身近なものだったようである。今でも上海出張の際に飛行機の窓から景色を眺めていると、九州の島々が見えなくなったと思ったら、もう上海への着陸は近い。長崎の人たちにしてみれば、江戸に行くより上海はずっと手近な存在だったに違いない。
土佐藩の谷干城は後年西南戦争において、薩軍の猛攻に耐えた熊本城の守将として有名になった人だが、慶応二年(1866)、藩庁から長崎および上海への出張を命じられた。谷に課された任務は、長崎に滞在している後藤象二郎の身上調査であり、もう一つは上海での海外事情探索であった。当時、後藤は会合や遊興のため藩の公金を散財しているとの噂が高知城下まで聞こえており、その事実確認を谷に命じたのである。長崎に着いた谷は、早速後藤と面談して公金乱費の疑惑について詰問したが、後藤は直ちに否定して谷はそれを了とした。要するに言いくるめられたのである。その後、上海密航の先輩である後藤から経験談や密航手段などを伝授され、両者はすっかり意気投合して連日酒宴に興じた。
上海に着いた谷は、後藤に教えられたとおり、赤い袴を着用して街に出たが、そのような格好をした人間は一人もいない。このとき初めて後藤にはめられたことを知り、苦笑いしたという。
この頃には上海には多くの日本人が居住していた。谷の上海滞在はわずか四日に過ぎないが、その間に阿波の人(姓名不明)や八戸順叙、名倉予阿人(浜松)のほか、西洋人の妾となった長崎の元遊女なども見かけた。当時の上海には、すでに合法非合法を問わず、さまざまな日本人が頻繁に訪れ、街の中で出会っても何の違和感もないような状態になっていたのである。
海外密航前夜の気分を井上馨はこのように書き残している。
「空しく隔靴掻痒の嘆を抱く秋(とき)にあらず、寧ろ一躍外国に渡り、其物情を視察し、其技術を実習し、以て速やかに国家の急に応ず可き」
個人の海外留学が最終的には国家を利するという思考は、幕末や明治にして通用する気分であり、なかなか現代の若者に同じように考えろといっても無理があるかもしれない。今や日本と欧米の格差は、大騒ぎするほど大きくない。わざわざ海外に行かなくても日本で十分学べるというのも一理あるかもしれない。国内にいながら海外の情報が手に入る現代で、何も危険を冒して海外に渡航する動機を見出せないのも分からないわけではないが、やはり実際に行ってみないと分からないことも多い。内向き志向が強いといわれる若者に是非読んでもらいたい一冊である。

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