史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伏見 Ⅶ

2016年03月18日 | 京都府
(月桂冠情報センター)


伏見土佐藩邸跡

 少し見ぬ間に伏見寺田屋周辺はみなと公園などが整備され、史跡を表わす石碑が建てられ、観光地として整備されたようである。酒蔵には大型バスが駐車できる広い駐車場も整備され、連日観光客が運ばれてくる。集客には一定の効果があったようである。
 せっかくなので、新しく建てられた(といっても平成二十一年(2009)のことなので随分時間が経っているが)石碑を訪ね歩いてみたい。

 月桂冠情報センターの敷地内には伏見土佐藩邸を示す石碑が建てられている(伏見区南浜町248‐4)。この辺りには、幕府の公用や船着き場に関連した人や物資の輸送を担った伏見伝馬所があった。また、木津屋与左衛門や大津屋小兵衛宅などが本陣として利用され、その周辺には旅籠が建ち並んでいた。土佐藩では家臣の生活や労働の場として伏見に藩邸を置いていた。
 慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、土佐藩兵は警備には就いていたが、山内容堂より「このたびの戦争は、薩長と会津・桑名の私闘であるから、沙汰をするまでは戦争に加わることは禁ずる」と告げられていた。しかし、藩大目付の乾退助は「京都でことが起これば、黙って薩摩と行動を共にせよ」と密命を出していたため、藩士の一部は、藩主の命令を無視して参戦した。結果的に土佐藩は「復古討賊に大功あり」として、朝廷から称賛を受けることになった。

(伏見土木事務所)


伏見長州藩邸跡

 伏見土木事務所辺りが、伏見長州藩邸跡となる(伏見区表町578)。
 元治元年(1864)七月十九日未明、長州藩家老福原越後は、伏見長州藩邸から武装した約五百の兵とともに京へ進発した。その途中、伏見街道の稲荷附近から竹田街道を守る大垣、会津、桑名、鯖江の藩兵と衝突し、禁門の変が勃発した。福原率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出たが、彦根藩ほかの連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃し、このため伏見長州藩邸は焼け落ちた。

(京橋)


京橋

 京橋辺りが往時の伏見港の中心である。京橋のたもとに「伏見口の戦い激戦地跡碑」が建てられている。慶応四年(1868)一月二日、鳥羽伏見戦争の前日夕刻、会津藩の先鋒隊約二百が大阪から船で伏見京橋に上陸し、伏見御堂(現・東本願寺伏見別院)を宿陣として戦った。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面に敗走したので、この辺りの多くの民家が焼かれ、甚大な被害を受けた。


伏見口の戦い激戦地跡

(伏見みなと公園)
 淀川の水運は、古くは京・大阪を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道、北陸とも連絡する交通の大動脈であった。慶長年間(1596~1615)、角倉了以が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する船着き場として大いに栄えた。当時この付近には数十軒の船宿が建ち並んでいたというが、明治に入って京・大阪間に鉄道が開通すると、次第にさびれて、今は有名な寺田屋がわずかに昔の名残をとどめているに過ぎない。


伏見みなと公園

 最近になって、この付近が伏見みなと公園(伏見区表町574)として整備され、少し昔の風情を取り戻している。



 この公園の一画に「龍馬とお龍、愛の旅路」像が置かれている。この銅像が設置されたのは平成二十三年(2011)のことで、その前年大河ドラマで放映された「龍馬伝」に便乗したものであろう。気のせいかこの坂本龍馬像は実物より男前で、本人より福山雅治に似ている。


「龍馬とお龍、愛の旅路」像

 帰宅して分かったことであるが、これ以外に「坂本龍馬が避難した材木小屋の跡」とか「会津藩駐屯地跡」(現・東本願寺伏見別院)といった石碑も新設されているらしい。日を改めて訪問することとしたい。

(宝塔寺)


宝塔寺

 文久三年(1863)八月の禁門の変の際、御所付近における戦闘が始まる数時間前、深草周辺で武力衝突があった。当時、伏見街道守備の任にあたっていた大垣藩は、伏見に駐屯していた長州藩兵が夜半に進軍するとの報に接し、宝塔寺に一隊を集めた。八月十九日の午前一時頃、伏見街道を北上する長州藩福原越後隊は、大垣藩兵と遭遇した。会津、桑名、彦根藩からも応援が駆け付け、隊長福原越後が被弾落馬したこともあり、長州藩兵は入洛を果たせず伏見藩邸に引き返した。


亡洋山本先生之墓

 宝塔寺墓地には、本草学者山本亡洋を産んだ山本家の墓地や、大丸創業者下村家の墓地、孝明天皇の侍医をつとめた伊良子家の墓などがある。

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鞍馬口 Ⅱ

2016年03月18日 | 京都府
(上善寺)


正二位勲二等伯爵鷲尾隆聚之墓

 連休二日目、朝一番で上善寺を訪ねた。住職に鷲尾家の墓を詣でたいと伝えると、こころよくご案内いただけた。上善寺は、鷲尾家のほか、菊亭家、四条家、冷泉家、西四辻家、室町家、高倉家、高丘家など、旧華族の墓が多数ある。鷲尾家の墓は、墓地南西隅の長州人首塚に近いところにある。
 鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)は、天保十三年(1842)、鷲尾隆賢(たかます)の第二子に生まれた。嘉永三年(1850)、元服して昇殿を許され、文久二年(1862)侍従に任じられたが、その後朝譴を蒙って差控を命じられた。つとに勤王の大義を唱えて討幕の志を抱き、文久年間には上京した諸藩勤王の志士たちを糾合、寺院に寄託して時機を待った。慶応三年(1867)十二月、差控を許されるや、直ちに内勅を奉じて高野山に登り、檄を四方に飛ばして政府軍の糾合に努めた。このとき集まったのは千余人に及び、隠然たる勢力を形成した。ついで京都の同志と相呼応して大阪城の攻略等を企図し、慶應四年(1868)一月七日、錦旗を授けられ、ついで高野山より入京、新政府参与に人事、軍務事務局親兵掛を兼ねた。閏四月免じられたが、同年六月奥羽追討総督を拝命し、さらに東征大総督府参謀に転じ、七月二派奥羽追討白河口総督を命じられた。官軍を率いて東北各所を転戦して功があったが、病を得て総督、参謀を辞した。明治二年(1869)、三等陸軍将に任じられ、戊辰の戦功により賞典禄二百石を永世下賜され、八月陸軍少将に転じた。以降、五條県知事、若松県知事(のち若松県令)、愛知県令等地方官を歴任した。明治十五年(1882)、元老院議官。大正元年(1812)、年七十一にて没。


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