(榎本医院)
榎本医院
我が国草創期の女医といえば、シーボルトの娘楠本イネとか、荻野吟子らが有名であるが、彼女らより少し早い時期に活躍していた女医がいる。榎本住(すみ)である。現在も榎本家は病院を経営している。病院前に榎本住を顕彰する石碑が建てられているが、これは住が存命中の明治二十六年(1893)に建立されたものである。
女醫榎本住紀念碑
榎本住は、その医術「妙訣、神の如し」ともいわれ、診察を請う者は後を絶たなかった、背が高く早口で、男勝りの性格であったが、診察は非常に丁寧親切であった。最後は肺炎で寝ていたところ、往診を請われ、人に背負われて診察に行き、帰って息を引き取ったという。
榎本住は、重傷を負った吉村寅太郎の措置を施したといわれる。高取藩との初戦に敗れた天誅組は、高取城に夜襲をかけることを決し、吉村寅太郎はその場で人数を集めて決死隊を結成し、高取城下に向かった。重阪(へいさか)村の庄屋西村清右衛門宅で夜になるのを待ち、夜七時頃同家を出た。十時頃、薩摩村木の辻にて警戒に当たっていた高取藩軍監役浦野七兵衛と出会い、吉村寅太郎は浦野と槍で渡りあった。そのとき後方から十津川郷士が放った猟銃が狙いを外れ、寅太郎の股の付け根辺りに命中してしまった。浦野はこの隙に逃走したが、天誅組一行も進軍を諦め戸毛村まで引き返すことになった。そこで女医榎本住の門を叩いて、銃創の応急措置を受けた。

榎本医院
我が国草創期の女医といえば、シーボルトの娘楠本イネとか、荻野吟子らが有名であるが、彼女らより少し早い時期に活躍していた女医がいる。榎本住(すみ)である。現在も榎本家は病院を経営している。病院前に榎本住を顕彰する石碑が建てられているが、これは住が存命中の明治二十六年(1893)に建立されたものである。

女醫榎本住紀念碑
榎本住は、その医術「妙訣、神の如し」ともいわれ、診察を請う者は後を絶たなかった、背が高く早口で、男勝りの性格であったが、診察は非常に丁寧親切であった。最後は肺炎で寝ていたところ、往診を請われ、人に背負われて診察に行き、帰って息を引き取ったという。
榎本住は、重傷を負った吉村寅太郎の措置を施したといわれる。高取藩との初戦に敗れた天誅組は、高取城に夜襲をかけることを決し、吉村寅太郎はその場で人数を集めて決死隊を結成し、高取城下に向かった。重阪(へいさか)村の庄屋西村清右衛門宅で夜になるのを待ち、夜七時頃同家を出た。十時頃、薩摩村木の辻にて警戒に当たっていた高取藩軍監役浦野七兵衛と出会い、吉村寅太郎は浦野と槍で渡りあった。そのとき後方から十津川郷士が放った猟銃が狙いを外れ、寅太郎の股の付け根辺りに命中してしまった。浦野はこの隙に逃走したが、天誅組一行も進軍を諦め戸毛村まで引き返すことになった。そこで女医榎本住の門を叩いて、銃創の応急措置を受けた。