(郡山城)
大和郡山城は、天正六~七年(1578~1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同八年の一国一城令に基づき拡張、同十一年には天守閣も完成をみた。同十三年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄五年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、城下町の完成を見るに至った。
関ヶ原後、長盛が改易され、大阪夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保九年(1724)以降幕末まで柳澤十五万石の居城として栄えた。
現在のこる縄張りは主に秀長時代のもので、追手東隅櫓、追手門、追手門櫓などが再建されているほか、城内には柳澤神社、柳澤文庫、城址会館などがある。
大和郡山城 追手門櫓と追手門
幕末において大和郡山藩が主体的に活動した気配はほとんど見られない。幕末の郡山藩が最初に遭遇した大事件は天誅組挙兵である。京都守護職松平容保から和歌山藩、彦根藩、津藩などとともに出兵命令を受け、総勢二千人を動員した。しかし、軍事行動としては緩慢で、菊の紋を奉じた天誅組と戦うことに消極的であった。彦根藩から「おくれ山勢」と揶揄された。この頃、家老薮田沢左衛門が会津浪士により自宅玄関で闇討ちにあうという事件も起きた。最後まで藩論は定まらず、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いが起きても、明確な態度を決めかねていた。譜代であるという意識に加えて、日和見的であった。慶喜追討令が出て、諸藩が次々に官軍下に属するに及んで、漸く藩論を決し、五條代官所にあった侍従鷲尾隆聚のもとへ藤田岩五郎を使者に送った。だが、態度決定が遅れたことにより他藩からその去就を疑いの目で見られ、藩領であり軍事上の重要拠点である闇峠の警備も他藩に奪われることになった。結局、官軍に九十余名を拠出し、彼らが各地を転戦することにより、ようやく藩主、家臣は藩の保全を確保できた。
現在、城址会館として使われている建物は、明治四十一年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内に建てられた、奈良県最初の県立図書館である。昭和四十三年(1968)、郡山城に移築され、以後市民会館、教育施設として利用されている。
城址会館
柳澤神社
同じく郡山城内に柳澤神社がある。この神社は、明治十三年(1880)、柳澤吉保を祭神として創建されたものである。
柳澤文庫は、柳澤家から寄贈された歴代藩主の書画や和歌などの作品、藩の公用記録や藩政資料などを所蔵している。柳澤文庫では、これら資料を研究のために広く公開するほか、定期的に展覧会を開いて、所蔵資料等を展示している。
柳澤文庫
(額安寺)
東吉野鷲家口を脱出した伴林光平、平岡鳩平、西田仁兵衛は、文久三年(1863)九月二十二日、額田部村の額安寺にたどりついた。伴林光平は下痢や脚気に悩まされ、平岡や人夫の肩をかりてやっと歩行できるような状態であった。額安寺の住僧は、光平の弟子であり、その縁を頼って一夜の宿を乞うたのだが、住僧は後難を恐れてこれを拒んだ。夕食のみ与えられ、夜更けに額安寺を出発した光平は、東福寺村駒塚の自宅にやっとの思いで帰り着いた。そのとき妻は子供二人を置き去りにして家を出奔していた上、奈良奉行所の警戒が厳しいこともあり、平岡と連絡が取れなくなった。これが両者の生死を分けることになった。
額安寺
(常光寺)
常光寺の新選組橋本皆助の墓を訪ねたが、見当たらない。辛うじて橋本家の墓を一基発見したが、見るからに新しくて皆助のものとは思えない。
その日、一旦実家に帰って調べて分かったのであるが、橋本皆助は変名水野八郎という名前で葬られているらしい。この墓碑であれば本堂の前に発見したが、別人だと思ってスルーしてしまった。
翌日、再び近鉄で大和郡山まで往復するはめになった(片道五十分)。自分でいうのも何だが、ご苦労様なことである。
常光寺
橋本皆助は、天保六年(1835)の生まれ。慶応二年(1866)に仮同志として新選組に入隊した。同年九月の三条制札事件には物見として出動した。十五両の恩賞金を受け、正隊士となった。慶応三年(1867)三月の伊東一派の分離に同調し、御陵衛士となったが、八月に離隊。その後、土佐陸援隊に加盟し、十二月には鷲尾隆聚の高野山挙兵に加わった。鳥羽伏見の戦いを経て朝廷の親兵となったが、明治二年(1869)に罷免される。郡山藩に復籍したが、明治四年(1871)四月、急死した。常光寺の墓を詣でると腹痛が治るという言い伝えがある。
水野八郎之墓(橋本皆助の墓)
大和郡山城は、天正六~七年(1578~1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同八年の一国一城令に基づき拡張、同十一年には天守閣も完成をみた。同十三年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄五年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、城下町の完成を見るに至った。
関ヶ原後、長盛が改易され、大阪夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保九年(1724)以降幕末まで柳澤十五万石の居城として栄えた。
現在のこる縄張りは主に秀長時代のもので、追手東隅櫓、追手門、追手門櫓などが再建されているほか、城内には柳澤神社、柳澤文庫、城址会館などがある。
大和郡山城 追手門櫓と追手門
幕末において大和郡山藩が主体的に活動した気配はほとんど見られない。幕末の郡山藩が最初に遭遇した大事件は天誅組挙兵である。京都守護職松平容保から和歌山藩、彦根藩、津藩などとともに出兵命令を受け、総勢二千人を動員した。しかし、軍事行動としては緩慢で、菊の紋を奉じた天誅組と戦うことに消極的であった。彦根藩から「おくれ山勢」と揶揄された。この頃、家老薮田沢左衛門が会津浪士により自宅玄関で闇討ちにあうという事件も起きた。最後まで藩論は定まらず、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いが起きても、明確な態度を決めかねていた。譜代であるという意識に加えて、日和見的であった。慶喜追討令が出て、諸藩が次々に官軍下に属するに及んで、漸く藩論を決し、五條代官所にあった侍従鷲尾隆聚のもとへ藤田岩五郎を使者に送った。だが、態度決定が遅れたことにより他藩からその去就を疑いの目で見られ、藩領であり軍事上の重要拠点である闇峠の警備も他藩に奪われることになった。結局、官軍に九十余名を拠出し、彼らが各地を転戦することにより、ようやく藩主、家臣は藩の保全を確保できた。
現在、城址会館として使われている建物は、明治四十一年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内に建てられた、奈良県最初の県立図書館である。昭和四十三年(1968)、郡山城に移築され、以後市民会館、教育施設として利用されている。
城址会館
柳澤神社
同じく郡山城内に柳澤神社がある。この神社は、明治十三年(1880)、柳澤吉保を祭神として創建されたものである。
柳澤文庫は、柳澤家から寄贈された歴代藩主の書画や和歌などの作品、藩の公用記録や藩政資料などを所蔵している。柳澤文庫では、これら資料を研究のために広く公開するほか、定期的に展覧会を開いて、所蔵資料等を展示している。
柳澤文庫
(額安寺)
東吉野鷲家口を脱出した伴林光平、平岡鳩平、西田仁兵衛は、文久三年(1863)九月二十二日、額田部村の額安寺にたどりついた。伴林光平は下痢や脚気に悩まされ、平岡や人夫の肩をかりてやっと歩行できるような状態であった。額安寺の住僧は、光平の弟子であり、その縁を頼って一夜の宿を乞うたのだが、住僧は後難を恐れてこれを拒んだ。夕食のみ与えられ、夜更けに額安寺を出発した光平は、東福寺村駒塚の自宅にやっとの思いで帰り着いた。そのとき妻は子供二人を置き去りにして家を出奔していた上、奈良奉行所の警戒が厳しいこともあり、平岡と連絡が取れなくなった。これが両者の生死を分けることになった。
額安寺
(常光寺)
常光寺の新選組橋本皆助の墓を訪ねたが、見当たらない。辛うじて橋本家の墓を一基発見したが、見るからに新しくて皆助のものとは思えない。
その日、一旦実家に帰って調べて分かったのであるが、橋本皆助は変名水野八郎という名前で葬られているらしい。この墓碑であれば本堂の前に発見したが、別人だと思ってスルーしてしまった。
翌日、再び近鉄で大和郡山まで往復するはめになった(片道五十分)。自分でいうのも何だが、ご苦労様なことである。
常光寺
橋本皆助は、天保六年(1835)の生まれ。慶応二年(1866)に仮同志として新選組に入隊した。同年九月の三条制札事件には物見として出動した。十五両の恩賞金を受け、正隊士となった。慶応三年(1867)三月の伊東一派の分離に同調し、御陵衛士となったが、八月に離隊。その後、土佐陸援隊に加盟し、十二月には鷲尾隆聚の高野山挙兵に加わった。鳥羽伏見の戦いを経て朝廷の親兵となったが、明治二年(1869)に罷免される。郡山藩に復籍したが、明治四年(1871)四月、急死した。常光寺の墓を詣でると腹痛が治るという言い伝えがある。
水野八郎之墓(橋本皆助の墓)