史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大和郡山 Ⅱ

2016年03月11日 | 奈良県
(郡山城)
 大和郡山城は、天正六~七年(1578~1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同八年の一国一城令に基づき拡張、同十一年には天守閣も完成をみた。同十三年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄五年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、城下町の完成を見るに至った。
 関ヶ原後、長盛が改易され、大阪夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保九年(1724)以降幕末まで柳澤十五万石の居城として栄えた。
 現在のこる縄張りは主に秀長時代のもので、追手東隅櫓、追手門、追手門櫓などが再建されているほか、城内には柳澤神社、柳澤文庫、城址会館などがある。


大和郡山城 追手門櫓と追手門

 幕末において大和郡山藩が主体的に活動した気配はほとんど見られない。幕末の郡山藩が最初に遭遇した大事件は天誅組挙兵である。京都守護職松平容保から和歌山藩、彦根藩、津藩などとともに出兵命令を受け、総勢二千人を動員した。しかし、軍事行動としては緩慢で、菊の紋を奉じた天誅組と戦うことに消極的であった。彦根藩から「おくれ山勢」と揶揄された。この頃、家老薮田沢左衛門が会津浪士により自宅玄関で闇討ちにあうという事件も起きた。最後まで藩論は定まらず、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いが起きても、明確な態度を決めかねていた。譜代であるという意識に加えて、日和見的であった。慶喜追討令が出て、諸藩が次々に官軍下に属するに及んで、漸く藩論を決し、五條代官所にあった侍従鷲尾隆聚のもとへ藤田岩五郎を使者に送った。だが、態度決定が遅れたことにより他藩からその去就を疑いの目で見られ、藩領であり軍事上の重要拠点である闇峠の警備も他藩に奪われることになった。結局、官軍に九十余名を拠出し、彼らが各地を転戦することにより、ようやく藩主、家臣は藩の保全を確保できた。

 現在、城址会館として使われている建物は、明治四十一年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内に建てられた、奈良県最初の県立図書館である。昭和四十三年(1968)、郡山城に移築され、以後市民会館、教育施設として利用されている。


城址会館


柳澤神社

 同じく郡山城内に柳澤神社がある。この神社は、明治十三年(1880)、柳澤吉保を祭神として創建されたものである。

 柳澤文庫は、柳澤家から寄贈された歴代藩主の書画や和歌などの作品、藩の公用記録や藩政資料などを所蔵している。柳澤文庫では、これら資料を研究のために広く公開するほか、定期的に展覧会を開いて、所蔵資料等を展示している。


柳澤文庫

(額安寺)
 東吉野鷲家口を脱出した伴林光平、平岡鳩平、西田仁兵衛は、文久三年(1863)九月二十二日、額田部村の額安寺にたどりついた。伴林光平は下痢や脚気に悩まされ、平岡や人夫の肩をかりてやっと歩行できるような状態であった。額安寺の住僧は、光平の弟子であり、その縁を頼って一夜の宿を乞うたのだが、住僧は後難を恐れてこれを拒んだ。夕食のみ与えられ、夜更けに額安寺を出発した光平は、東福寺村駒塚の自宅にやっとの思いで帰り着いた。そのとき妻は子供二人を置き去りにして家を出奔していた上、奈良奉行所の警戒が厳しいこともあり、平岡と連絡が取れなくなった。これが両者の生死を分けることになった。


額安寺

(常光寺)
 常光寺の新選組橋本皆助の墓を訪ねたが、見当たらない。辛うじて橋本家の墓を一基発見したが、見るからに新しくて皆助のものとは思えない。
 その日、一旦実家に帰って調べて分かったのであるが、橋本皆助は変名水野八郎という名前で葬られているらしい。この墓碑であれば本堂の前に発見したが、別人だと思ってスルーしてしまった。
 翌日、再び近鉄で大和郡山まで往復するはめになった(片道五十分)。自分でいうのも何だが、ご苦労様なことである。


常光寺

 橋本皆助は、天保六年(1835)の生まれ。慶応二年(1866)に仮同志として新選組に入隊した。同年九月の三条制札事件には物見として出動した。十五両の恩賞金を受け、正隊士となった。慶応三年(1867)三月の伊東一派の分離に同調し、御陵衛士となったが、八月に離隊。その後、土佐陸援隊に加盟し、十二月には鷲尾隆聚の高野山挙兵に加わった。鳥羽伏見の戦いを経て朝廷の親兵となったが、明治二年(1869)に罷免される。郡山藩に復籍したが、明治四年(1871)四月、急死した。常光寺の墓を詣でると腹痛が治るという言い伝えがある。


水野八郎之墓(橋本皆助の墓)


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安堵 Ⅱ

2016年03月11日 | 奈良県
(阿土墓地)
 今村文吾と毛利義之という二人の志士の墓を訪ねて、阿土墓地に足を運んだ。


今村家之墓


松斎先生之墓(今村文吾の墓)

 今村文吾は文化八年(1808)、安堵村に生まれた。父は医師の今村専治。代々医を業とし、中宮寺の侍医であった。十一歳のとき京に上り医を山脇東海に、儒を巌垣松苗に学ぶこと十五年、天保三年(1832)、帰郷して家業を助けた。同六年(1835)晩翠堂を起し、医学・儒学を教授したが、後年伴林光平を知り、皇学を講じさせた。天誅組を支援したが、天誅組の破陣、佐幕党の盛大を煩悶の末、元治元年(1864)、没した。五十七歳。
 今村家の墓の巨石の背後の自然石の墓が文吾のものである。墓石に刻まれた松斎とは文吾の雅号である。


毛利義之墓


地蔵尊

 毛利義之は、文政二年(1819)、斑鳩目安に生まれた。生家は穴闇村の庄屋で、田地三四町を有したので、二十余歳の時その地に移り、十二年間居住した。たまたま外戚たる吐田(川西村)の大庄屋毛利喜右衛門に嗣子無く、安政二年(1855)、妻子を率いて毛利家を継ぎ、義之と名乗った。性剛毅廉潔、よく義父に仕え、茶道、俳諧、書画を愛し、剣道を錬磨した。交友に北畠治房、今村文吾、伴林光平らがある。文久三年(1863)の天誅組挙兵には直ちに参加。軍資調達に尽力したが、大庄屋の故に藩の取締も厳しく、幕吏の追補急なるを察し、罪科の係累に及ぶことを恐れて、荷駕中にて服毒し、帰宅して死亡した。年四十五。

 毛利義之の墓は、墓地の少し高くなっている場所にある。墓石の傍らにある地蔵の台石には、菊の御紋が入っている。この石は、義之の功績により明治天皇より妻ケイに下賜されたもので、墓石の土台として使われていたものである。


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斑鳩 Ⅱ

2016年03月11日 | 奈良県
(中宮寺墓地)
 中宮寺墓地の北畠治房の墓を訪ねて、斑鳩を探し回った。名称は中宮寺墓地となっているが、中宮寺からはかなり離れた場所で、目印といえば中宮寺宮墓地を当てにするのが良い。中宮寺宮墓地は皇族の息女らの墓地で、場所としては法輪寺に近い。この北側に拡がるのが中宮寺墓地で、その少し高くなっている場所に北畠家の墓域がある。


天壽院布穀治房大居士
鳩居院殿明禮貞観大姉 霊位

 北畠治房は、天保四年(1833)生まれ。伴林光平らと交遊。文久三年(1863)の天誅組五條代官所襲撃に参加した。その頃、名を平岡鳩斎(鳩平)と改め、勘定方として各所を転戦した。追討軍の包囲網を辛うじて脱した平岡鳩平は、その後水戸天狗党の挙兵にも参加したが、早い時期に離脱した。北畠治房というのは、維新後の名である。天誅組の生き残りの中で最も栄達を果たしたが、自分を見捨てて一人京都に行ってしまったと記述した伴林光平の手記『南山踏雲録』が刊行されると北畠治房は世間から非難を集めることになった。このことにより北畠治房は終生苦悩する。大正四年(1915)、既に八十歳を過ぎた北畠は、『古蹟辨妄』と題する本を出版した。緒言で、世間で信じられている歴史、物語は憶測が多い、史実と違う部分を正しく改める必要があると述べ、主に南朝史蹟について細かく論じている。その中の一章に「伴林光平誤想辨」があり、そこで伴林光平の『南山踏雲録』を痛烈に批判し、光平がこの獄中記を書いたとき精神に異常を来していたとしている。自らを正当化するためにどうしても書き残しておきたかったのであろうが、五十年前に亡くなった同士のことを狂人扱いする行為は、あまり感心したものではない。

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奈良 柳生

2016年03月11日 | 奈良県
(柳生陣屋跡)


柳生陣屋跡

 この日は奈良県下の天誅組関連史跡を中心に回る予定でいたが、大いに目論見が外れてしまった。その最大の原因が、奈良市柳生の訪問と見学に予想以上に時間を要したことである。柳生は、奈良市に所在しているとはいうものの、市街からだと自動車でも片道四十分以上を要する。現地における見学を考えると、最低でも半日は見ておかなくてはならないだろう。柳生陣屋跡、芳徳寺、家老屋敷跡を見学して、次の目的に向かったときには、既にお昼が近かった。


柳生陣屋跡

 柳生藩の藩祖は柳生宗矩。その長男が有名な柳生十兵衛三巌である。石高は一万石程度の小藩であるが、代々将軍の剣術指南役を務める家柄であった。十三代にわたって柳生藩を支配した。
 この陣屋は寛永十九年(1642)、宗矩が二年の歳月をかけて建造したもので、その後、三代宗冬の時に増築整備されたが、延享四年(1747)の大火で全焼した。仮建築のまま明治維新を迎えた。

(芳徳寺)
 芳徳寺は、柳生家の菩提寺である。寛永十五年(1683)、柳生宗矩が父石舟斎の菩提を弔うために創建し、沢庵和尚が開山したものである。もともとこの地には柳生家の居城があり、石段、掘割などにその名残をとどめている。
 芳徳寺の北側五十メートル、裏山の松林の中に柳生家歴代の墓がある。


芳徳寺


大機院殿前備州刺史智峯紹転大居士(十代 柳生俊章の墓)
陽徳院殿前但州刺史剛巌宗健大居士(十二代 柳生俊順の墓)

 幕末の柳生藩主は十二代俊順(としむね)。旗本武田氏から養子に入ったが、文久二年(1862)二十五歳の若さで病死し、跡を養嗣子で弟の俊益(とします)が継いだ。柳生家は代々将軍家の剣術指南を務める家で、その関係で佐幕色の強い藩であったが、最終的には勤王に決した。

(柳生藩家老屋敷)
 柳生藩の家老小山田主鈴の屋敷である。小山田主鈴は、文政九年(1826)、国家老として江戸から奈良に移り、藩財政の立て直しに成功した。弘化三年(1846)、家督を譲って院隊士、さきに藩公柳生俊章から賜っていたこの新邸で余生を送った。この建物は弘化四年(1847)に着工し、嘉永元年(1848)六月に上棟したものである。
 主鈴は、安政三年(1856)、七十五歳で世を去ったが、その子孫は明治の廃藩後もここにとどまった。主屋はほぼ創建当時の姿をとどめている。


柳生藩家老屋敷

 なお、この屋敷は昭和三十九年(1964)、作家山岡荘八が買い取り、しばしばここに滞在した。柳生宗矩を扱った昭和四十六年(1971)の大河ドラマ「春の坂道」の原作も、この屋敷で想を練ったといわれる。


長屋門


柳生藩家老屋敷
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奈良 Ⅱ

2016年03月11日 | 奈良県
(春日大社)
 今年の年末年始は山形県の銀山温泉に家族旅行に行ったので、京都の実家には成人式の連休に帰ることにした。帰省初日は奈良県の史跡を訪ねた。奈良を歩くのは久しぶりである。まず、春日大社を目指した。


春日大社

 文久二年(1862)正月、春日大社で一つの異変があった。正月一日から行われていた「八ヶ日之神事」中、春日社領大柳生庄の御供を備進する際、第四殿の六面の御神鏡のうち一面が落下して破損したのである。これは古来、国家の不吉とされ、宮中にも上奏された。その報せが関白の下に入ったのは一月二十日のことであったが、その翌日に老中安藤信正が襲撃された坂下門外の変の報せが届き、まさに異変を裏付けることになった。春日大社の御神鏡落御事件は、深く孝明天皇の宸襟を悩ませたという(「天誅組の変」 舟久保藍著 淡交社)。


釣り燈籠

 春日大社で目につくのは軒下に無数に下げられた釣燈籠である。この釣燈籠は、古来国民から奉納されたもので、中には宇喜多秀家や藤堂高虎、徳川綱吉といった歴史上の著名人が寄進したものもある。

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米沢 Ⅲ

2016年03月07日 | 山形県
(中央四丁目)


銀山温泉(尾花沢市)

 この年末年始は、長女の発案で山形県尾花沢市の銀山温泉で過ごすことになった。山間の雪深い土地で、温泉に浸かることと食事以外あまりすることがない。家族は正月番組を見て過ごしているが、私はダラダラと時間を過ごすのが苦手で、元旦の朝から旅館の送迎バスに乗ってJR大石田駅まで出て、そこから米沢に移動した。同じ山形県内といえ、北端の新庄に近い大石田から南部の米沢への移動は、ほぼ山形県を縦断するに等しい。在来線と新幹線を乗り継いで二時間余りでようやく米沢に至る。これで米沢の街を探索するのも三回目になる。今回は駅前のレンタカー屋さんで自転車を借りて、北部小学校近くの吉田松陰旅宿の地が唯一の目的地である。粉雪の舞う中、自転車で三十分足らずで無事に行き着いた。石碑のすぐ脇の「中央四丁目」のバス停が目印である。
 信号待ちしていると、地元の方から声をかけられた。この時期に自転車に乗っているのが余程珍しかったのであろう。
「今年は雪が少ないけど、普通の正月は雪で自転車なんか乗れないからね。今年は特別だよ。」
という。銀山温泉でも、普段この時期であれば、人の背丈よりも高く積雪があるらしいが、さほどでもない。

 吉田松陰旅宿の地碑は、粡町(あらまち)通り沿いにある。粡町は最上街道の入口に位置し、江戸時代には町人街として大変賑わった場所である。松陰は、嘉永五年(1852)三月二十五日、東北旅行の途次、長崎以来の知友米沢藩士高橋玄益を訪ね、諸学士と談合をしようと、この地にあった旅籠遠藤権内方に宿をとった。しかし、たまたま藩主上杉斉憲が参勤交代で江戸に出る前日と重なって、果たせなかった。


吉田松陰旅宿の地

 米沢滞在時間はわずかに一時間であった。自転車を返却すると在来線で大石田経由で銀山温泉に戻った。宿に戻ったのは夕方であった。元旦から贅沢な旅であった。家族は、朝の風景と変わりなく、ふとんに横たわっていた。

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