(正源寺)
正源寺
久留里へ行くには、もちろん木更津から久留里線を利用するのが一般的かもしれないが、高速道路が混雑していなければ、東京駅から高速バス(アクティー号)に乗るのが時間的に効率的である。朝七時三十五分に東京駅を出て、九時十分過ぎに久留里に着く。
急いで駅前の観光交流センターに駆け込む。まずここでレンタサイクルを調達しなければならない。ところが、観光交流センターは、新型コロナ感染対策のため休館中で、自転車を借りることはできなかった。仕方なく正源寺、妙長寺、真勝寺、円覚寺を歩いて回った。結果、この日の歩数は軽く二万歩を越えることになった。
正源寺は、観光交流センターにほぼ隣接しており、久留里駅から歩いて数分という場所にある。
「明治維新人名辞典」によれば、広沢俊憲の墓が正源寺にあるというので、実は二度正源寺の墓地を歩いてみたが、広沢家の墓所すら見つけることはできなかった。完全な空振りでした。
広沢俊憲は、久留里藩士。通称は吉郎、あるいは定五郎といった。慶應三年(1867)十二月、藩主の江戸市中警備には巡羅隊長となり、薩摩藩邸襲撃や徳川氏歩兵騒擾等に活躍した。慶應四年(1868)六月、徳川脱走兵が横田村で起こした騒動には兵を率いて指揮した。のち権大参事、少参事を経て、明治六年(1873)十二月には千葉県授産掛に就いた。明治十八年(1885)、年五十九で没。
(妙長寺)
妙長寺
本堂前に建てられた説明板には、「本寺には、久留里藩主黒田家二代直純の姫於栄、於多勢や側室五代直方の姫多喜子が眠るほか、黒田家に仕えた最後の家老森光新の墓や久留里藩士の墓が多数あります。」と記載されている。墓地もさほど広いわけでもなく(三ヶ所に分かれている)、発見は時間の問題と思われたが、結局、「これが森光新の墓」と特定することはできなかった。
森光新の墓?
森光新(こうしん)は、文政七年(1824)の生まれ。弘化四年(1847)、藩老森光福の養子となり森家を継いだ。文久元年(1861)、家老に進み、以後江戸と藩地を往復して藩務をとった。慶應三年(1867)暮、藩地にあって薩摩藩邸襲撃を聞き、三百名を率いて下谷藩邸に急行した。慶應四年(1868)二月、北白川宮の小田原行に随従、同年六月の脱走士の横田村騒動では藩兵を指揮した。のち藩大参事、権大参事に任じられ、明治五年(1872)久留里組貫族取締となった。明治九年(1876)、年五十三で没。
(上総小学校)
史跡 新井白石居住之地
新井白石居宅跡
徳川家六代将軍家宣、七代小′家継の相談役として活躍した儒学者新井白石は、久留里藩主土屋利直に仕え、青年期の数年間、久留里に居住していた。白石は、利直の江戸詰めの家臣の子で、幼少期より優秀で、十三歳にして藩主の代筆を勤めたといわれる。二十一歳のとき、土屋家の内紛により久留里藩を追われ、その後、江戸へ出て木下順庵の門下生となった。
久留里における白石の住まいは、安住の侍屋敷にあったといわれ、現在の上総小学校周辺とされている。
(円覚寺)
円覚寺
この日は正源寺、妙長寺、真勝寺と回って、ほとんど収穫がない一日となってしまった。円覚寺にてようやく荒木栄懐の墓と出会うことができた。
松山院泰雲武標居士(荒木栄懐の墓)
荒木栄懐(えいかい)は、文化六年(1809)の生まれ。種田流槍法を修め、天保二年(1831)正月、小姓広間番士となり、弘化三年(1846)五月、家中槍術師範となった。嘉永六年(1853)、ペリー来航の時、出水平学の下に派遣され、安政四年(1857)には藩主黒田直和の両総東海岸検分に従った。文久二年(1862)二月、用人となり、元治元年(1864)十一月、藩預りの水戸脱藩士肥田金蔵ら三十五人を下総銚子にて受け取った。慶應四年(1868)二月、家老となり、藩主に代わって上洛し四月に帰藩。旧幕府撒兵隊福田八郎右衛門道直の協力要請に対し、形勢を説いて勤王を主張し、藩論を動かした。明治二十三年(1890)、年八十二にて没。