史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

市川三郷 Ⅲ

2021年12月11日 | 山梨県

(花園院)

 

花園院

 

医学士村松學佑 夫人信子墓

 

 宝寿院に隣接する花園院も広い墓地を持つ寺院である。しかも、村山姓の墓石もたくさんあり、ここから岳佑の墓を探し当てるのはかなりの困難が予想されたが、幸いにして比較的短時間で発見することができた。

 村松岳佑は、文政五年(1822)の生まれ。通称を岳佑といったが、墓石には學佑と刻まれている。どちらでも可ということかもしれない。妻の先夫岳仲の医業を継ぎ、嘉永初年に京都と長崎に学び、蘭医モーニッケの門に入った。嘉永三年(1850)の冬、長崎から巨摩郡の内藤泰順、大久保黄斎に送った牛痘苗が、甲州における牛痘種法の嚆矢といわれる。嘉永五年(1852)春、長崎からの帰途緒方洪庵門に入って学び、帰郷後、市川代官荒井清兵衛より支配内施行の允許を得て、自家製造の痘苗を各地の医師に分与するとともに、安政年間多くの種痘医を養成して、甲斐から痘瘡を駆逐することに努めた。明治元年(1868)年四十七にて没。

 

村松学佑君碑

 

 同じ墓所に立つ村松学佑顕彰碑は、三島中洲の撰文、渡辺青洲の書。明治二十九年(1896)の建碑。

 

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南アルプス Ⅱ

2021年12月11日 | 山梨県

(明行寺)

 広瀬平五郎の墓を求めて南アルプス市藤田(とうだ)の明行寺を訪ねた。本堂の近くに広瀬中庵の墓があり、同じ墓域に平五郎の墓もある。

 

明行寺

 

廣保院中庵日周(広瀬中庵の墓)

 

 広瀬中庵は、江戸後期の儒医。名は周平、中庵と号した。市川大門の広瀬保益の四子で、藤田村五味季政の娘と婚し、広瀬家を称した。早くから俊敏の名を高め、藤田の儒学者五味釜川、京都の儒医香川南洋などから漢学、医学などを学んだ。天然痘研究書の「痘科鍵抜粋」「中庵集」他の著書がある。明治初年、京都の病院長となった名医広瀬元恭は孫にあたる。文化七年(1810)、七十八歳にて没。

 

雨鳴院廣瀬和達居士(広瀬平五郎の墓)

 

 広瀬平五郎は、文政元年(1818)の生まれ。諱は和達、雅号は雨鳴と称した。父は医師広瀬恭平。少年時代家業である医術とともに、西花輪村の時習館で儒学その他諸学を学び、天保五年(1834)、十七歳で村役人見習、同村の長百姓となった。京都にいる弟元恭から種痘法を学び、村民に普及したのが甲斐における種痘の始まりとなった。現存する嘉永年間の種痘日記、さらに安政五年(1858)から慶應三年(1867)にいたる種痘人名録は、詳細に種痘の普及分布を物語っている。明治初年、同村名主・戸長に専念して医師は廃業、地主化した。明治四十一年(1908)、年九十一にて没。

 

広瀬家

 

 明行寺の近くに立派な門構えの屋敷がある。広瀬の標札を掲げているので、広瀬中庵、平五郎の実家かもしれない。

 

 

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北杜 Ⅳ

2021年12月11日 | 山梨県

(下教来石)

 

明治天皇御小休所址

 

 前回見落とした下教来石の明治天皇小休所址碑である。

 

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下諏訪 Ⅲ

2021年12月11日 | 長野県

(木の下)

 

明治天皇駐輦址

 

 諏訪湖の北東部をJR中央線が走っているが、その鉄路と並行して旧甲州街道が通じている。自動車がすれ違うのも難しいような道幅であるが、その甲州街道沿い下諏訪町立下諏訪博物館の真北に明治天皇駐輦碑が建てられている。近くに自動車を停める場所はないので、どこかで自動車を置いて歩いて向かうしかない。

 

 長野県は北陸や東海地方への通り道に当たることから、明治天皇の足跡が数多く残されることになった。戦前、明治天皇聖蹟碑は、「史蹟名勝天然紀念物保存法」により史跡に指定されていたが、戦後占領下において指定を一斉に解除された。史跡の指定を受けていれば、もう少し維持・保護の手が加わっていたかもしれないが、今では雑草に被われ、ほとんど忘れ去られているような聖蹟碑も多い。長野県の明治天皇聖蹟碑は、いずれも旧街道沿いに建てられたものが多く、比較的保存状態は良好だといえる。今回の調査で(まだ一部残っているものの)県下の聖蹟は一とおり踏破することができた。

 

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塩尻 Ⅲ

2021年12月11日 | 長野県

(塩尻)

 塩尻宿は、天保年間の記録によれば本陣一、脇本陣一、旅籠七十五軒と、中山道六十九次の宿場中二番目に大きな宿場町であった。初期には松本藩の玄関口として栄え、享保年間以降は天領となった。明治十五年(1882)および明治十六年(1883)の二度にわたって大火に襲われ、ほとんど往時の建物は残っていないが、本陣跡、脇本陣跡、高札場跡などに跡地を示す石碑が建てられている。

 

塩尻宿

 

塩尻宿脇本陣跡

 

 明和八年(1771)以降明治に至るまで、塩尻宿本陣は川上家が務めていた。本陣は間口二十四間を誇り、中山道で最大規模のものであった。残された見取図によれば、邸内を用水が流れ、溜池があり、酒造場や醤油蔵を備えた巨大な住宅であったことが伺える。皇女和宮下向の折にも、昼食の席を提供した記録が残っている。残念ながら、明治十五年(1882)の大火で全焼してしまった。本陣跡の空間の一画に明治天皇御膳水碑が建てられている。

 なお脇本陣は、本家川上家の第一分家である川上喜重郎家が務めた。

 

中山道塩尻宿 本陣跡

 

明治天皇塩尻御膳水

 

明治天皇鹽尻行在所

 

 塩尻交差点のすぐ脇、上問屋場跡に明治天皇塩尻行在所跡碑が建てられている。明治天皇が塩尻に行幸したのは、明治十三年(1880)六月のことであった。

 

(塩嶺御野立公園)

 旧中山道を塩尻から岡谷方面に向かうと、塩尻峠に御野立公園がある。明治十三年(1880)六月二十四日、明治天皇が甲州・信州を巡幸した際に当地で野立を行ったことを記念して整備された公園である。明治天皇に関する石碑が建てられているほか、三階建ての展望台からは南に諏訪湖、北には乗鞍岳や北アルプスを臨むことができる。

 

聖駕駐輦記

 

 聖駕駐輦記碑は、有栖川威仁親王による篆額。股野琢による撰文ならびに書。明治三十九年(1906)の建碑。

 

展望台からの眺望

諏訪湖方面

 

明治天皇御野立所

 

明治天皇塩尻峠御野立所

 

(上条茶屋本陣跡)

 

上条茶屋本陣跡

 

 塩嶺御野立公園から旧中山道を塩尻側に二百メートルほど下ると、上条茶屋本陣がある。茶屋本陣は、大名や旅人が休息をとるための施設で、今も上条家が当地に住んでおられる。茶屋の向かい側には明治天皇塩尻嶺御膳水の石碑と、その後ろには古い井戸が残されている。

 

明治天皇塩尻嶺御膳水

 

井戸

 

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塩尻 Ⅱ

2021年12月11日 | 長野県

(桜沢茶屋本陣)

 桜沢はいわゆる立場である。立場というのは、宿場と宿場の間にあって人足や駕籠掻きが休息をとる場所のことである。桜沢は、本山宿まで一里六町、贄川宿まで三十町の場所に位置している。桜沢の茶屋本陣は代々百瀬家が務めていた。

 

桜沢立場跡

 

桜沢茶屋本陣

 

明治天皇櫻澤御小休所

 

明治天皇御駐輦趾

 

 明治十三年(1880)六月二十六日、明治天皇は百瀬家で休息をとった。そのことを記念して三本の石碑が建てられている。

 

明治天皇櫻澤御膳水

 

(郷原)

 郷原宿は、善光寺街道が中山道の洗馬宿で分かれて最初の宿場である。宿場の北側には、明治十三年(1880)六月二十五日の明治天皇巡幸の際、小休所となった郷福寺がある。

 

郷原宿

 

郷福寺

 

明治天皇駐輦記念

 

 明治天皇が当地に巡幸した日、生憎の雨で道はぬかるんだ。先発官は山岡鉄舟ら。供奉人員は太政大臣三条実美、参議伊藤博文ら四百名を越えたという。当時、玉座として使用された郷福寺本堂は御小休御座所として当時のまま保存されている。

 

明治天皇郷原御膳水

 

明治天皇御膳水

 

 当時、御膳水として使われた井戸も保存されている(ただし、平成六年(1994)に改築されている)。

 

(広丘)

 

明治天皇広丘御小休所

 

 明治十三年(1880)六月二十四日、明治天皇は平林繁樹宅で休憩をとった。そのことを記念して旧家の前に石碑が建てられている。

 

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小田原 Ⅶ

2021年12月04日 | 神奈川県

(新光明寺)

 

猛進院志願光乗居士(浅田門次郎の墓)

 

 「最後の幕府公許の仇討」の主役浅田兄弟の墓を訪ねて、新光明寺と高長寺の墓地を歩いた。

 浅田兄弟の父只助が殺害されたのは、文政元年(1818)七月十二日のことであった。下手人は、同僚成滝万助である。万助は捕らえられたが、脱牢して出奔した。鉄蔵、門次郎兄弟は、父の仇を報いんと決心して願い出たところ、老中職にあった藩主大久保忠真がその志に感じ、幕府に諮ってこれを許可した。

 兄鉄蔵は二十一歳、弟門次郎は十二歳のとき、文政三年(1820)八月、兄弟は仇討に出発した。初めは江戸、大阪をはじめ、中国、四国、九州まで訪ね歩いたが徒労に終わり、空しく江戸に帰った。生活に困窮して武家に奉公しながら仇を探すうち、水戸に万助がいるとの情報を得て、勇躍して常陸に向かい、同国鹿島郡磯浜村祝町で煙草商を営んでいた万屋九兵衛が万助の変名であることを突き止め、遂に本懐を達した。特に文政七年(1824)四月のことで、兄二十五歳、弟は十六歳になっていた。藩主忠真は篤く孝子を賞し、二人を足軽から士分に取り立て、各々五十石を給与し、嫡子賢次郎の傅役に任じた。当時、この仇討は「文政曾我」と称され、多くの書物に記録された。

 兄鉄蔵は元治元年(1864)、六十五歳で没した。弟門次郎は明治十二年(1879)、七十一歳で没。

 

(高長寺)

 

高長寺

 

 高長寺には、詩人北村透谷の墓があることで知られる。北村透谷は明治元年(1868)、小田原の生まれで、近代浪漫主義文学の先駆者として大きな功績を残したが、明治二十七年(1894)、自ら命を絶った。

 

透谷北村門太郎墓

 

潜龍院大道義孝居士(浅田鉄蔵の墓)

 

(大長院)

 

大長院

 

 大長院に、二宮尊徳門下の福山滝助の墓を訪ねた。大長院の墓地はさほど広くなく、二周してみたが、福山家の墓さえ発見できなかった。ちょうど寺の御婦人が出てきたので確認したところ、「福山家の菩提寺ではなくなった」ということであった。

 

(瓜生坂)

 

瓜生坂

 

 ノグチ様より瓜生坂の写真が違うというご指摘をいただいた。本物の瓜生坂は、天神社からもう一つ西側の坂だという。

 この日は三島まで行かなくてはならなかったが、小田原で下車して戻るまで四十分。限られた時間で瓜生坂まで往復してきた。冬の寒い日だったが、速足で往復すると体が温まった。

 今も瓜生坂には、瓜生外吉の屋敷があった石垣が残っている。

 

 

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箱根 Ⅴ

2021年12月04日 | 神奈川県

(早雲寺つづき)

 

福住正兄翁墓

 

 早雲寺の北条氏五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の墓の傍らに福住家の墓所があり、そこに福住正兄(まさえ)の墓がある。

 福住正兄は文政七年(1824)、大名主の末子として生まれた。少年の頃、近郷の俳人森百亀、歌人原久胤に学び、また巡歴の儒学者千賀桐蔭にも経書の手引きを受けるなど、早くから学問文学の道に入る素養をつくった。父兄の勧めに従って弘化元年(1844)、二宮尊徳の塾に入り、嘉永三年(1850)十月まで七年間、報徳の教訓と鍛錬を受けて帰った。衰運に向かっている親戚の復興こそ報徳の道の実践であるとして、自ら選んで箱根湯本の温泉旅館福住家の養子となり、家名九蔵(十代目)を襲名して、以後大いに努めて一家の復興を完遂した。家業の傍ら、報徳の教えの紹介と指導家の実践のために多数の報徳の書を著述したが、「二宮翁夜話」「富国捷径」は世に聞こえ、富田高慶、斎藤高行、岡田良一郎と並んで尊徳門下の四大人と称された。また嘉永四年(1851)、小田原藩の国学者吉岡信之に入門し、その翌年より鎌倉円覚寺の東海和尚に師事して参禅し、元治元年(1864)には平田篤胤の没後門人となり、鈴木重胤、権田直助にも師事して国学と神道を修めた。この間に、湯本の名主となって村の再興に励んで、慶応元年(1865)、小田原藩から苗字帯刀を許され、小田原藩校集成館の教職にも挙げられ、藩士に列して国学一等助教となった。明治以降は同好とともに歌道の発展に努めて自らも多くの詠草を残した。道路の改修、史跡の保存、観光書の著述などによって、箱根観光の高揚に努めると同時に、各地の報徳社の結成と実践を指導し、尊徳を祀る二宮神社の創建を企図するなど、多彩な生涯を送った。明治二十五年(1892)、年六十九で没。正兄が再興した旅館萬翠楼福住は、今も箱根湯本で営業を続けている。

 

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木更津 Ⅴ

2021年12月04日 | 千葉県

(八劔八幡神社)

 木更津駅から徒歩数分という場所に鎮座する八劔八幡(やつるぎやわた)神社は、源頼朝鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営したと伝えられる。

 境内には嶺田楓江(ふうこう)の長寿と業績を讃えた嶺田楓江寿碑が建てられている。

 

八劔八幡神社

 

嶺田楓江寿碑

 

 嶺田楓江は、文化十四年(1817)に江戸に生まれ、儒学や蘭学を学び、各地を視察した。天保十四年(1843)には蝦夷地を回り、幕府に屯田制や北方警備の必要性を訴えた。嘉永二年(1849)にはアヘン戦争の実情を詳しく調べ上げ、木版絵画を挿入した「海外新話」を刊行したが、治安を乱したとされ投獄された。江戸から追放され。請西村に移り住んだ。安政元年(1854)のペリー来航時には、江戸に上って幕閣に進言した。その後は木更津に戻って子弟の教育に専念し、維新後の木更津地方の教育史上重要な存在となった。明治十四年(1881)、楓江の長寿と業績を讃えて、この石碑が建てられた。英国領事官コラウブスが題字、地元の重城保が撰文、清国の劉世安が書を担当したという、珍しい三国合作の碑である。

 

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久留里 Ⅲ

2021年12月04日 | 千葉県

(正源寺)

 

正源寺

 

 久留里へ行くには、もちろん木更津から久留里線を利用するのが一般的かもしれないが、高速道路が混雑していなければ、東京駅から高速バス(アクティー号)に乗るのが時間的に効率的である。朝七時三十五分に東京駅を出て、九時十分過ぎに久留里に着く。

 急いで駅前の観光交流センターに駆け込む。まずここでレンタサイクルを調達しなければならない。ところが、観光交流センターは、新型コロナ感染対策のため休館中で、自転車を借りることはできなかった。仕方なく正源寺、妙長寺、真勝寺、円覚寺を歩いて回った。結果、この日の歩数は軽く二万歩を越えることになった。

 正源寺は、観光交流センターにほぼ隣接しており、久留里駅から歩いて数分という場所にある。

 「明治維新人名辞典」によれば、広沢俊憲の墓が正源寺にあるというので、実は二度正源寺の墓地を歩いてみたが、広沢家の墓所すら見つけることはできなかった。完全な空振りでした。

 広沢俊憲は、久留里藩士。通称は吉郎、あるいは定五郎といった。慶應三年(1867)十二月、藩主の江戸市中警備には巡羅隊長となり、薩摩藩邸襲撃や徳川氏歩兵騒擾等に活躍した。慶應四年(1868)六月、徳川脱走兵が横田村で起こした騒動には兵を率いて指揮した。のち権大参事、少参事を経て、明治六年(1873)十二月には千葉県授産掛に就いた。明治十八年(1885)、年五十九で没。

 

(妙長寺)

 

妙長寺

 

 本堂前に建てられた説明板には、「本寺には、久留里藩主黒田家二代直純の姫於栄、於多勢や側室五代直方の姫多喜子が眠るほか、黒田家に仕えた最後の家老森光新の墓や久留里藩士の墓が多数あります。」と記載されている。墓地もさほど広いわけでもなく(三ヶ所に分かれている)、発見は時間の問題と思われたが、結局、「これが森光新の墓」と特定することはできなかった。

 

森光新の墓?

 

 森光新(こうしん)は、文政七年(1824)の生まれ。弘化四年(1847)、藩老森光福の養子となり森家を継いだ。文久元年(1861)、家老に進み、以後江戸と藩地を往復して藩務をとった。慶應三年(1867)暮、藩地にあって薩摩藩邸襲撃を聞き、三百名を率いて下谷藩邸に急行した。慶應四年(1868)二月、北白川宮の小田原行に随従、同年六月の脱走士の横田村騒動では藩兵を指揮した。のち藩大参事、権大参事に任じられ、明治五年(1872)久留里組貫族取締となった。明治九年(1876)、年五十三で没。

 

(上総小学校)

 

史跡 新井白石居住之地

 

新井白石居宅跡

 

 徳川家六代将軍家宣、七代小′家継の相談役として活躍した儒学者新井白石は、久留里藩主土屋利直に仕え、青年期の数年間、久留里に居住していた。白石は、利直の江戸詰めの家臣の子で、幼少期より優秀で、十三歳にして藩主の代筆を勤めたといわれる。二十一歳のとき、土屋家の内紛により久留里藩を追われ、その後、江戸へ出て木下順庵の門下生となった。

 久留里における白石の住まいは、安住の侍屋敷にあったといわれ、現在の上総小学校周辺とされている。

 

(円覚寺)

 

円覚寺

 

 この日は正源寺、妙長寺、真勝寺と回って、ほとんど収穫がない一日となってしまった。円覚寺にてようやく荒木栄懐の墓と出会うことができた。

 

松山院泰雲武標居士(荒木栄懐の墓)

 

 荒木栄懐(えいかい)は、文化六年(1809)の生まれ。種田流槍法を修め、天保二年(1831)正月、小姓広間番士となり、弘化三年(1846)五月、家中槍術師範となった。嘉永六年(1853)、ペリー来航の時、出水平学の下に派遣され、安政四年(1857)には藩主黒田直和の両総東海岸検分に従った。文久二年(1862)二月、用人となり、元治元年(1864)十一月、藩預りの水戸脱藩士肥田金蔵ら三十五人を下総銚子にて受け取った。慶應四年(1868)二月、家老となり、藩主に代わって上洛し四月に帰藩。旧幕府撒兵隊福田八郎右衛門道直の協力要請に対し、形勢を説いて勤王を主張し、藩論を動かした。明治二十三年(1890)、年八十二にて没。

 

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