映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

久々の関西へ4(天王寺)

2012-12-31 11:26:11 | 家族
さすがに30日には関東に戻っていなくては
妻の親族が眠る四天王寺にお参り行った。
天王寺駅を降りて高層ビルの高さに圧倒される。横浜のランドマークタワーよりも高い建物だという。
2014年完成まであと一年、凄いことになったなあ


四天王寺は初めて
妻が四十九日の準備をする。雨が降っているので娘と2人控室で静かにしている。

ここは宗派を問わず、入れるという。知らなかった。
いかにも大衆的な大阪らしいやりかただ。

食事をしようとして、駅ビルに戻る。
ずいぶんと変わっているようなので、単独行動させてもらってどのように変わったかを見る。
近鉄百貨店はまだ営業中、隣のごちそうビルは自分が阿倍野に住んでいるころにできた。
横は都ホテルだ。

駅から近鉄百貨店の裏側に行ってビックリした。
以前自分が住んだ天王寺は18年ぶりだ。元々区画整理の話は自分がいたころからあったが、急激に進んだようだ。あの猥雑な阿倍野のテイストが一気に変わっている。
それでも走る阪堺線は大したものだ。

阪堺線の線路の反対側にすばらしいショッピングモールができた。
これも驚いた。このあたりは大阪らしいディープそのもののエリアであった。
こうも変わるものなのか?区画整理のスピードに驚く。(大宮東口の遅さはいったい何!!)



裏に行ってもこんなエリアがある。この近くに「あべのスキャンダル」なんてディープスポットあったな。
梅田、難波、天王寺いずれもが凄い進化を遂げた。
これで大阪経済が沈滞しているとは思えないんだけどなあ。。。。


実に不謹慎だが、一生にあまりないきっかけで関西に行くことになった。
昔の姿がそのまま残っている尼崎と新しい姿を見せつめる梅田、難波、天王寺のまるっきり反対の姿に関西の奥行きの深さを感じた。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々の関西へ3(尼崎~なんば)

2012-12-31 11:24:15 | 家族
阪神尼崎駅には下車したことがない。

妻は小さい頃まで尼崎に育った。元々親は尼崎にいて、異動で和歌山に移って永住した。
駅を降りて、生家に向かった。途中大きな寺があった。歴史が古いようだ。

用事がすんで近くの寺の中から移動しようとしたら、たこ焼き屋があった。
何気なく通り過ぎようとして価格表が目に入った。
7個100円14個200円と書いてある。うそだろ?!!ともう一回見直す。
間違いない。ただし、7個は小学生のみと書いてある。200円で14個分を買った。

写真を撮りたかったが、いかにも関西のおばちゃんという風貌の人がタバコを吸いながら店の前にでんと座っているのでとれなかった。たこ焼きを食べたら妻の喜んだこと!!!。ムチャクチャおいしいというわけではないが、こんな値段で今どき食べられるということに感動した。妻は関東はだからダメなんだと言いはじめた。黙って聞いていた。

妻は小さい頃の思い出を語るとよく賑やかな尼崎の商店街の話をしだす。自分が育った近所に品川の戸越銀座商店街と武蔵小山商店街があった。いずれも全国有数の商店街と言われている。それを知っているのでそうでもないだろうと思っていた。ところが行ってみて本当に驚いた。まさに凄い商店街だと思う。

戸越銀座にしても武蔵小山にしても、昔からそのままある店は少ない。銀行のキャッシュコーナーや居酒屋や外食チェーン店にみんな変わっていて、これが商店街だと元気よく言えるものではない。ところが、尼崎は違う。まさに昭和40年代にタイムスリップしてしまうのである。

商店街に入ってみるとパチンコ屋が多い。バクチ好きの関西人向きの場所と思っていたら、急に昭和40年代の商店街に代わって行くのだ。

今では少ない業態も多い。小さい頃五反田で見たようなミニ市場だ。
商店街の中にこういうのがいくつかある。

こういう古典的米屋というのも見なくなったなあ。
お菓子屋、八百屋、果物屋などから始まって肉屋も多い。

今どき肉屋って本当に見なくなった。古臭い店に色がきれいなおいしそうな肉が陳列してある。ホルモン専門の肉屋もあった。尼崎は労働者の街だけあって作業着屋もある。

模型屋や文房具屋も自分が知っている昭和40年代の匂いだ。

飲み屋のお姉さんが着るようないかがわしいドレスも陳列してある。

凄い衝撃を受けた。尼崎商店街は関西ではメジャーなんだろうか?
背筋がぞくっとする衝撃だった。戎神社が近くにあった。
関西人は戎さんが大好きである。そういえば鳥居はまだくぐれないんだ。

尼崎から難波に向かう阪神電車に乗る。
此花や九条なんていかにも大阪のディープなエリアを通る電車だ。

まずは定番で戎橋に向かう。少し変わったかな?






戎橋から心斎橋筋の商店街を歩いた。尼崎で感動していたので、普通に見えた。
お腹がすいてきたので、道頓堀脇でフグを食べた。




カフェ同様タイミング良く店に入れた。運がいい。
出るときには店前は大行列になっていた。

席は道頓堀沿いだ。窓からドンキホーテを写す。
目立つこと!凄いなあ

てっさ 娘が思わずおいしいという。

ふぐ唐揚げ

てっちり
妻も娘も満足だ。ラストは雑炊で

最近では東京付近でもふぐの安い専門店ができたけど、基本的にふぐは高い。大阪に行くまではそんなに食べたことなかったのに、大阪に異動したらフグが安く食べられるので驚いた。

不謹慎だが、家人も気を紛らわせられただろう。

高島屋のライトアップが最高にきれいに見えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々の関西へ2(梅田)

2012-12-31 11:18:56 | 家族
3日目は大阪へ向かった。
妻の親が昔所帯を構えた尼崎に行くためである。大きく変わった梅田を見てみたい気持ちもある。
和歌山市駅から南海電車の特急サザンに乗った。
和歌山の人は「ザジズゼゾ」が言えない。「全然」なんて言葉は「デンデン」になってしまう。しかるに特急サザンはサダンになってしまうのだ。笑うしかないが、向こうは真面目だから面と向かって笑えない。

大阪までずっと車窓を眺めていた。みさき公園をこえて、海が見える。遠くに関西空港も見える。泉佐野につく。車窓から見える海側はずいぶんと変わった。ちょうど自分が大阪に行った時、堺から以南が担当エリアだった。泉佐野なんて地名聞いたことがなかった。でもその時とんでもないバブルが起こっていた。関西空港開港に伴う土地の収用で泉佐野市民は巨万の金をもらっていたはずだ。
城が見える。岸和田だ。ここではお世話になった人たちがずいぶんといた。だんじりにかけた人たちの心意気にうたれた。徐々にサザンもフルスピードになる。泉大津をこえる時、海側にマンション群が見える。この風景は初めてみる。高石、浜寺なんて場所も異動するまでまったく知らないところだった。いずれも海側の風景が違っている気がする。堺をこえると天下茶屋に止まる。昔はとまらななかった。そして新今宮をこえ難波だ。駅に近づくと雰囲気が違う。大阪スタジアムもない。高層ビルが増えてきた。

大阪に異動した時の着任地は難波だった。ミナミの繁華街のパワーには圧倒された。
南海の駅の雰囲気も華やかになった。もうちょっと泥臭かった。着任してすぐ当時の上司が焼肉屋につれていってくれた。大阪というとやっぱり焼肉だ。汚い店に行きながら上司が「これが大阪だ!」と言いはった。でも駅前にでっかいマルイもできて、歌舞伎座以外はまったく雰囲気が違う。


御堂筋線に乗って梅田に行く。地下鉄の乗り入れ口から地上に上がる。確かに風景は変わった。阪神電車に乗る前に日経MJのヒット商品今年の番付で小結にはいった「阪急百貨店うめだ本店」にいく。東京駅よりも番付は上だ。

これはずいぶんと大きくなったものだ。

中で食事した。食堂街に行ったら長蛇の行列だ。これはまずいと思ったら、妻が階下の9階の広場横のカフェは空いていたよと移動する。でもこれが大正解だった。

まずは広場にビックリだ。空間をぜいたくに使う設計だ。
カフェに入る。入る時間のタイミングが良かった。



カフェでは本日の魚料理でスズキの料理が出てきた。先日家族でフレンチ行った時もスズキがでた。
当たりだなこの店




JR大阪駅と大丸。大丸もずいぶんと大きい。
ここにも入ったけど、阪急からは高級感を感じたが、大丸は普通のデパートという印象だ。

阪急メンズ館だ。新宿の伊勢丹メンズ館もいいけど、それぞれのフロアがそんなに広くない。このフロアはそれなりの広さで高級品中心のディスプレイ。なかなかだ。

感心しつつ阪神電車に18年ぶりに乗って尼崎に向かう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々の関西へ1(和歌山)

2012-12-31 11:08:33 | 家族
26日ブログ更新して、すぐ寝たら11時半過ぎに電話を受け家人があわてている。誰か亡くなったのかな?
話を聞いて「え!」という感じだ。妻の親がなくなった。翌日27日通夜で28日告別式
東京だと28日友引は火葬場は休みのはずだが、向こうは関係ないのか?
義理の親だから立場的には通夜から行かねばなるまい。
27日は仕事納めで納会はあるけど、行く準備をし始めた。
仕事はほとんど片付いていた。あいさつ回りも大体終えていた。強い約束もないので大丈夫だろう。
朝の朝礼で挨拶して11時過ぎに事務所を出ることにした。
東京駅で新幹線のホームにつく。家人と娘を見かける。ビックリだ。
それぞれに切符を取って現地で会う前提で出たのに、ばったり会う。おいおいこんなことってあるの!

名古屋を新幹線が出たあたりから初めて関西へ着任した時のこと頭に思い浮かべた。
東京の生まれ育ちで大学も東京、就職先は関西系の企業を意識して避け、東京本社の会社へ。
東京支店に配属になって頑張っていたのに突如大阪支店の異動辞令がきた。ショックだった。
直後に上司から「リーダー」で行けるかもしれないよと言われ、気を取り直す。でも本当になれるかなあ?最小単位のリーダーにはなりたかった。それでも大阪に行くくらいなら実家の家業を継いでもいいのかなと思い、3月初旬の内示から1カ月落ちつかなかった。結局2回往復して大阪天王寺の近くに住居を決めた。恐る恐る異動先に行くと、自分のための座席が用意されていた。リーダー席だった。うれしかった。

最初はすぐにでも東京に帰れるようにと、新大阪付近で家を捜そうとした。ところが、街を歩くと至る所に「部○解放」の文字がある。「何じゃいこれは?」と思いやめた。今回久々に新大阪の駅を降りたけど、近くにその文字はなくなっていた。時代の推移だろう。

新大阪の駅で和歌山行き特急「くろしお」に乗った。

そうしたら何と隣の座席に妻と娘がすわった。またまたびっくりした!
車窓を眺める。梅田周辺の雰囲気が変わったようだ。高層ビルが増えて、ずいぶんとダイナミックになった。福島をすぎしばらくすると、妙なドームの建物に気が付いた。「京セラドーム」のようだ。大阪環状線のラインを大人になって初めて通った時、ずいぶんと汚い風景だと思った。瓦の汚さが目立ったが、今回は割と屋根が葺き替えられていた印象をもった。天王寺だ。高層ビルをたてている最中だ。
天王寺から駅1ついった所に住んでいた。車窓から天王寺高校が見える。住んでいたところは高校に近いところだ。でも見えない。わりと雰囲気が変わっていた気がした。大和川をこえるのも久しぶりだ。電車は堺の鳳あたりまでは比較的ゆっくり走る。その先はぐんぐんスピードをあげていく。

阪南エリアをこえるともうすぐ和歌山だ。妙に緊張する。
山を越えると和歌山の平野が見えてくる。空の旅では上空から和歌山市内の上をよく通る。でも陸路で向かうのは久しぶりだ。別に緊張する必要はないのに落ち着かない。
今から18年前、和歌山から異動するとき、駅で当時の部下たちにバンザイされながら離れた。涙が止まらなかった。その思いと異動辞令が出て、初めて和歌山に特急「くろしお」に乗って行くときのこと両方が脳裏にへばりついてきた。車内放送で『まりと殿様』「テンテン・テンマリ」と流れるのが印象的だったが、割と普通の放送に変わっていたのが残念だった。大阪に行くときは大淀の橋を渡ると大阪に来たという実感がある。和歌山の場合は「紀ノ川」だ。水量の多い美しい川だ。渡って本当に和歌山に来たなと実感する。海側には住金の大きな工場が見える。


和歌山市駅に行き、そこからもう一度電車に乗って葬祭場に行く。

紀ノ川をこえるときは、ちょうど夕日が沈みつつあるときだった。これがまた美しい。
通夜に向かう。
家族葬で簡単に済ませる方針だ。それの方がいい。自分の両親の場合、近所や外野がうるさいので、普通にやった。参列者はそれぞれ450人くらいだった。1年の内に2回も葬式をやり気苦労も多かった。
でもこうやって家族葬というものを初めて経験すると、気楽な方がいいと思えてくる。

ホテルに戻ろうとしたら、その昔飲みに行った場所が気になった。捜しに行くことにした。
でも見つからない。住宅地の一角にあるところで、繁華街の中ではない。記憶をたどってこの辺りかと懸命に捜したがない。あたりには人は歩いていなかった。そう言えばあの頃より飲酒規制が厳しい。客が減ったかな?なんて思いながらきっと無くなったのかと確信した。

昔いた事務所に向かった。まだある。全国最小の事務所だった。暗くなったときに見て胸がジーンとした。
思い出に浸った。

翌朝早くおきて和歌山の街を歩いた。
基本そんなに変わっていない。南海和歌山市駅周辺は悲しいくらいに廃れた。昔食べた店もなくなった。メインの百貨店「丸正百貨店」はなくなった。商店街があるブラクリ丁も寂れていっていると聞く。

お城だけは変りようにないだろうなあ。

街の雰囲気は少し変わったくらいか
お堀の傍は遊歩道になっていた。



番丁のメイン道路
和歌山県民は所得は少ないが貯蓄高は多い。大手証券会社だけでなく、大手都銀もある。
合併して三井住友銀行になって、元の三井銀行の建物が居抜きで和民になっていたのには笑えた。

大きなホテルができた。でもこのくらいしか高い建物はない。

思い出はたくさんある。和歌山の現地採用の人たちと一緒に仕事した。部下が年上ばかりだったので、最初は本当に大丈夫かと思った。異動で行くときは気が重かった。でも一緒に働いてくれた人たちは本当に気のいい人たちだった。助けてくれた。ここに行かなかったら今の自分はなかったかもしれない。

火葬場の和歌山斎場は立派な建物だった。両親の葬儀は品川の桐ヶ谷斎場でやった。桐ヶ谷の陳腐さと比較するとあまりの凄さに驚いた。プロの設計士による仕事だと感じる建物だ。控室が3mくらいある高天井の部屋で、そこで精進料理を食事したがおいしかった。先日近所の人の葬式があり、桐ヶ谷に出入りしている仕出し料理のまずさは自分と妹が体験してわかった。親の葬儀の時あんなマズイものを参列していただいた人に出していたのかと思うと気恥ずかしくなった。これが東京の城南地区のメインの葬儀場でいいのかと思う。
妙なことを感じながら葬儀は無事終わった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする