小金井桜は江戸時代の1737年(元文2年)に川崎平右衛門が幕命によって植えられたものが始まりです。
植えられた場所は小金井村の小金井橋を中心に玉川上水の両岸6㌔だったのです。山桜約2000本を植えたそうです。
その玉川上水に沿って現在は五日市街道という自動車道路があり、そこを車で走ると玉川上水の両岸に咲いている桜を車窓から楽しむことが出来ます。
しかしその場所は自動車の排気ガスでとてもゆっくり花見の宴など出来る場所ではありません。そこで上水の小金井橋の北側の都立小金井公園に桜を沢山植えて現在はそこを小金井桜の名所と言っています。
その写真を下の1番目と2番目に示します。この2枚は昨日撮ったものです。
さて幕命によって植えられたものなので、当然、江戸幕府は江戸の武士や町人が桜見物に行くように奨励します。
当時の江戸の人は新宿から甲州街道や五日街道を一日歩いて小金井村の桜を見物しました。そして帰りは小金井街道を南に歩き府中に出て甲州街道の府中宿に泊まった人も多かったようです。府中に泊まると、翌日は多摩川を舟で下って江戸への入り口の六郷橋で下船します。そこから品川を通って江戸に帰ったのです。勿論、船に乗らずに府中から甲州街道を歩いて新宿に帰る人もいました。
このように小金井桜は江戸の人々の遊覧の名所になっていたので、現在の観光案内書のようなものも売られていました。
当然、浮世絵師も小金井桜の絵を描き、版元が盛んに売っていたそうです。
3番目の写真は広重の小金井橋夕照という浮世です。
4番目の写真も同じく広重の玉川上水と桜を描いた浮世絵です。
何故、江戸から20Kmも離れた小金井村に桜を植えたのでしょうか?
それはその頃、幕府は川崎平右衛門に命じて小金井村から北西の武蔵野を広範に切り開き新田開発に大きな成果を上げていたのです。
その新田開発を宣伝し、幕府の善政を知ってもらおうとしたのです。
こうして小金井の桜は江戸時代から関東随一の桜の名所として知られるようになったのです。
嘉永年間には田無村名主・下田半兵衛によって大規模な補植が行われ、明治16年(1883) には明治天皇が訪れ、その記念樹である 「行幸松」が玉川上水沿いの海岸寺の山門前にあります。
そして桜の研究者として知られる三好学博士は小金井桜を調べ、36品種と亜種3品種による山桜大集植地として報告したのです。その結果「天然品種の植物群落」と評価され、大正13年(1924)に国の名勝に指定されたのです。
このように小金井桜の生みの親は川崎平右衛門です。
そこで彼の物語をご紹介したいと思います。
川崎平右衛門は現在の東京都府中市にあった押立村の名主の家の長男として、元禄7年(1694年)生まれ明和4年(1767年)に亡くなりました。川崎 定孝とも言います。
江戸時代の農村開発で活躍し、抜擢され江戸幕府の旗本となった人物です。
全国の各地で農村開発に大きな功績を残した二宮尊徳は全国的に有名で、小学校に銅像もあるので皆様もよくご存知のことと思います。
川崎平右衛門はそれほど有名ではありませんが、武蔵野地方で新田を広く開発し農村の繫栄をもたらした人物として地方的には知られた人です。
5番目の写真は府中市郷土の森博物館公園にある平右衛門の銅像です。
彼が現在でも尊敬されている理由は、私財を投じて武蔵野新田の窮民の救済を行ったことです。
そして押立村を含む多摩川の40キロに渡る治水工事を幕命で担当し、凶作時の農民を救済します。さらに生活を安定させる井戸掘り公共事業を普及させたのです。
私財を投じて六所宮(大國魂神社)の随神門修理などを行い、幕府内でもその人格が尊敬されていたのです。
その結果、平右衛門は宝暦4年(1754年)に美濃国の代官となります。そこでも新田開発や治水に貢献しました。更に明和4年(1767年)に勘定吟味役に昇進し、石見国の銀山の奉行を兼役します。そして同年6月6日に逝去します。享年74。故郷の押立村にある龍光寺(竜光寺)に葬られました。
農村の実情を熟知した平右衛門の打ち出した政策は、農民たちに深く感謝されています。
文化年中に武蔵野新田82ヵ村の農民が榎戸新田(国分寺市北町)に謝恩塔を建立し、美濃国にも彼の遺業を称える石碑(岐阜県本巣郡穂積町牛牧の興福寺)や神社(野田新田、川崎神社)が残されているのがその証です。
現在、花見客で賑わっている小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」では『川崎平右衛門展』が2017年2月7日から 2017年5月7日まで開催されています。この展示会を見ると、江戸時代の彼の農政や活動を詳細に記録した文書が実に多数展示してありました。
日本の歴史を振り返ると天皇や幕府の権力者のことが詳しく書いた本が多いのですが、川崎平右衛門のような農村振興に尽力した人の記録が無いのが残念です。地味な仕事に情熱を注ぎ一生を捧げた人のことを学校でもっと熱心に教えるべきではないでしょうか?
二宮尊徳の銅像を飾るだけでなく、「彼は何をした人物なのか?」を丁寧に教えるべきではないでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
植えられた場所は小金井村の小金井橋を中心に玉川上水の両岸6㌔だったのです。山桜約2000本を植えたそうです。
その玉川上水に沿って現在は五日市街道という自動車道路があり、そこを車で走ると玉川上水の両岸に咲いている桜を車窓から楽しむことが出来ます。
しかしその場所は自動車の排気ガスでとてもゆっくり花見の宴など出来る場所ではありません。そこで上水の小金井橋の北側の都立小金井公園に桜を沢山植えて現在はそこを小金井桜の名所と言っています。
その写真を下の1番目と2番目に示します。この2枚は昨日撮ったものです。
さて幕命によって植えられたものなので、当然、江戸幕府は江戸の武士や町人が桜見物に行くように奨励します。
当時の江戸の人は新宿から甲州街道や五日街道を一日歩いて小金井村の桜を見物しました。そして帰りは小金井街道を南に歩き府中に出て甲州街道の府中宿に泊まった人も多かったようです。府中に泊まると、翌日は多摩川を舟で下って江戸への入り口の六郷橋で下船します。そこから品川を通って江戸に帰ったのです。勿論、船に乗らずに府中から甲州街道を歩いて新宿に帰る人もいました。
このように小金井桜は江戸の人々の遊覧の名所になっていたので、現在の観光案内書のようなものも売られていました。
当然、浮世絵師も小金井桜の絵を描き、版元が盛んに売っていたそうです。
3番目の写真は広重の小金井橋夕照という浮世です。
4番目の写真も同じく広重の玉川上水と桜を描いた浮世絵です。
何故、江戸から20Kmも離れた小金井村に桜を植えたのでしょうか?
それはその頃、幕府は川崎平右衛門に命じて小金井村から北西の武蔵野を広範に切り開き新田開発に大きな成果を上げていたのです。
その新田開発を宣伝し、幕府の善政を知ってもらおうとしたのです。
こうして小金井の桜は江戸時代から関東随一の桜の名所として知られるようになったのです。
嘉永年間には田無村名主・下田半兵衛によって大規模な補植が行われ、明治16年(1883) には明治天皇が訪れ、その記念樹である 「行幸松」が玉川上水沿いの海岸寺の山門前にあります。
そして桜の研究者として知られる三好学博士は小金井桜を調べ、36品種と亜種3品種による山桜大集植地として報告したのです。その結果「天然品種の植物群落」と評価され、大正13年(1924)に国の名勝に指定されたのです。
このように小金井桜の生みの親は川崎平右衛門です。
そこで彼の物語をご紹介したいと思います。
川崎平右衛門は現在の東京都府中市にあった押立村の名主の家の長男として、元禄7年(1694年)生まれ明和4年(1767年)に亡くなりました。川崎 定孝とも言います。
江戸時代の農村開発で活躍し、抜擢され江戸幕府の旗本となった人物です。
全国の各地で農村開発に大きな功績を残した二宮尊徳は全国的に有名で、小学校に銅像もあるので皆様もよくご存知のことと思います。
川崎平右衛門はそれほど有名ではありませんが、武蔵野地方で新田を広く開発し農村の繫栄をもたらした人物として地方的には知られた人です。
5番目の写真は府中市郷土の森博物館公園にある平右衛門の銅像です。
彼が現在でも尊敬されている理由は、私財を投じて武蔵野新田の窮民の救済を行ったことです。
そして押立村を含む多摩川の40キロに渡る治水工事を幕命で担当し、凶作時の農民を救済します。さらに生活を安定させる井戸掘り公共事業を普及させたのです。
私財を投じて六所宮(大國魂神社)の随神門修理などを行い、幕府内でもその人格が尊敬されていたのです。
その結果、平右衛門は宝暦4年(1754年)に美濃国の代官となります。そこでも新田開発や治水に貢献しました。更に明和4年(1767年)に勘定吟味役に昇進し、石見国の銀山の奉行を兼役します。そして同年6月6日に逝去します。享年74。故郷の押立村にある龍光寺(竜光寺)に葬られました。
農村の実情を熟知した平右衛門の打ち出した政策は、農民たちに深く感謝されています。
文化年中に武蔵野新田82ヵ村の農民が榎戸新田(国分寺市北町)に謝恩塔を建立し、美濃国にも彼の遺業を称える石碑(岐阜県本巣郡穂積町牛牧の興福寺)や神社(野田新田、川崎神社)が残されているのがその証です。
現在、花見客で賑わっている小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」では『川崎平右衛門展』が2017年2月7日から 2017年5月7日まで開催されています。この展示会を見ると、江戸時代の彼の農政や活動を詳細に記録した文書が実に多数展示してありました。
日本の歴史を振り返ると天皇や幕府の権力者のことが詳しく書いた本が多いのですが、川崎平右衛門のような農村振興に尽力した人の記録が無いのが残念です。地味な仕事に情熱を注ぎ一生を捧げた人のことを学校でもっと熱心に教えるべきではないでしょうか?
二宮尊徳の銅像を飾るだけでなく、「彼は何をした人物なのか?」を丁寧に教えるべきではないでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)