キリスト教が理解されない理由は幾つかあります。その中で一番判らないのがイエスの復活です。
ローマ総督のピラトによって死刑判決を受けたイエスは十字架の上で絶命します。墓に葬られますが、3日目に生き返って墓を出て来るのです。
そうして弟子たちの前に現れたのです。
その時、その場所に居なかった弟子の一人のトマスはイエスの蘇りを信じませんでした。もう一度、自分の目の前に現れて、自分の目で見ない限り、トマスは絶対に信じないと言ったのです。
イエスはもう一度弟子たちの前に現れてトマスに話しかけます。
イエスは十字架の上でローマ兵の槍で刺された脇腹の傷跡がそのままある姿でトマスの前に立ったのです。
その傷跡に手を差し込んだトマスはこの人物は、一度死んだイエスが生き返ってここに居るのだと、はじめて信じます。
そしてイエスの教えを全て信じ、神を信じますという信仰告白をしたのです。
ここは聖書の中でも重要な部分です。
見ないで信じる者は幸せなのです。全ての宗教では「見ないで信ずる」ことが一番重要なのです。
宗教を理解するためには人間によって再現出来ないことを信じることが必要なのです。信じれば理解されるのです。
この理解しにくい場面をどなたか明快に説明していないかと調べてみました。
そうしたら北海道の砂川市のある教会の牧師の銘形秀則さんが「牧師の書斎」という実に明快なホームページを発表されていたのです。
そのURLは、http://meigata-bokushin.secret.jp/ です。
読めば誰でも判るように書いていらっしゃいます。
そこでそのホームページからトマスの分部を抜粋して以下に転載いたします。
【聖書箇所】ヨハネ20:24~29
復活されたイエスが40日間、地上にとどまられたその第一の目的は、復活の事実を弟子たちに確信させるためでした。しかし、彼らは容易には悟れませんでした。
(1) よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかった使徒たち
弟子の一人、トマスは他の弟子たちからイエスがよみがえられたことを聞かされても信じようとしませんでした。このことはトマスだけが責められることではありません。マルコ16:14では「イエスは、その11人が食卓についているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らか、よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかったからである。」と記されています。イエスはマグダラのマリヤに最初に現われ、彼女を通して使徒たちに話したのですが、彼らは女(たち)を信用しなかったのです。そのことがここでイエスから責められています。
それほどに復活の事実は信じがたいことなのです。しかし、使徒たちはイエスの復活の証人とならなければなりませんでしたから、イエスはすべての使徒たちにご自身を現わす必要がありました。
(2) トマスに対するイエスの顕現とトマスの信仰告白
トマスも他の使徒と同様、よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかったひとりです。しかも彼の場合は自分と立場を同じくする10人の使徒たち全員が、イエスを見て復活されたことを証言しているにもかかわらずです。相当、疑い深いと言われても致し方ありません。なぜなら、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」 (ヨハネ20:25)。「絶対に信じたりしない」(岩波訳)と言ったのですから。
そんなトマスのもとにもイエスは現われて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわき(腹)に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者となりなさい。」とイエスは言われました。このことから最高の信仰告白である「私の主。私の神」という言葉が彼の口から出たのでした。
「私の主、私の神」とは、イエスこそ全き従順をもって服従すべき絶対主権者としての主であり、神であることを認める告白です。
(3) 信仰の本質は、見ずに信じること
イエスはトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。信仰の本質は「見ずして信じること」です。トマスへのイエスの顕現の目的はここにあると信じます。
今日に生きる私たちはイエス・キリストを信じる人たちを通してイエスを信じています。つまり、見ずして信じているわけです。よみがえりのイエスの証人である使徒たちが記した聖書を信じています。イエスが復活されてから昇天されるまでの40日間にイエスと出会った者たち以外のキリスト者はみなイエスを目にしてはいません。しかしイエスがよみがえられたことを聞いて信じているのです。
・・・以下省略します。是非、「牧師の書斎」をご覧下さい。
今日の話はこれだけです。
今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た奥多摩湖の写真です。湖の向こう側の山々に点々と白いソメイヨシノが咲いていることにご注目下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
ローマ総督のピラトによって死刑判決を受けたイエスは十字架の上で絶命します。墓に葬られますが、3日目に生き返って墓を出て来るのです。
そうして弟子たちの前に現れたのです。
その時、その場所に居なかった弟子の一人のトマスはイエスの蘇りを信じませんでした。もう一度、自分の目の前に現れて、自分の目で見ない限り、トマスは絶対に信じないと言ったのです。
イエスはもう一度弟子たちの前に現れてトマスに話しかけます。
イエスは十字架の上でローマ兵の槍で刺された脇腹の傷跡がそのままある姿でトマスの前に立ったのです。
その傷跡に手を差し込んだトマスはこの人物は、一度死んだイエスが生き返ってここに居るのだと、はじめて信じます。
そしてイエスの教えを全て信じ、神を信じますという信仰告白をしたのです。
ここは聖書の中でも重要な部分です。
見ないで信じる者は幸せなのです。全ての宗教では「見ないで信ずる」ことが一番重要なのです。
宗教を理解するためには人間によって再現出来ないことを信じることが必要なのです。信じれば理解されるのです。
この理解しにくい場面をどなたか明快に説明していないかと調べてみました。
そうしたら北海道の砂川市のある教会の牧師の銘形秀則さんが「牧師の書斎」という実に明快なホームページを発表されていたのです。
そのURLは、http://meigata-bokushin.secret.jp/ です。
読めば誰でも判るように書いていらっしゃいます。
そこでそのホームページからトマスの分部を抜粋して以下に転載いたします。
【聖書箇所】ヨハネ20:24~29
復活されたイエスが40日間、地上にとどまられたその第一の目的は、復活の事実を弟子たちに確信させるためでした。しかし、彼らは容易には悟れませんでした。
(1) よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかった使徒たち
弟子の一人、トマスは他の弟子たちからイエスがよみがえられたことを聞かされても信じようとしませんでした。このことはトマスだけが責められることではありません。マルコ16:14では「イエスは、その11人が食卓についているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らか、よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかったからである。」と記されています。イエスはマグダラのマリヤに最初に現われ、彼女を通して使徒たちに話したのですが、彼らは女(たち)を信用しなかったのです。そのことがここでイエスから責められています。
それほどに復活の事実は信じがたいことなのです。しかし、使徒たちはイエスの復活の証人とならなければなりませんでしたから、イエスはすべての使徒たちにご自身を現わす必要がありました。
(2) トマスに対するイエスの顕現とトマスの信仰告白
トマスも他の使徒と同様、よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかったひとりです。しかも彼の場合は自分と立場を同じくする10人の使徒たち全員が、イエスを見て復活されたことを証言しているにもかかわらずです。相当、疑い深いと言われても致し方ありません。なぜなら、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」 (ヨハネ20:25)。「絶対に信じたりしない」(岩波訳)と言ったのですから。
そんなトマスのもとにもイエスは現われて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわき(腹)に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者となりなさい。」とイエスは言われました。このことから最高の信仰告白である「私の主。私の神」という言葉が彼の口から出たのでした。
「私の主、私の神」とは、イエスこそ全き従順をもって服従すべき絶対主権者としての主であり、神であることを認める告白です。
(3) 信仰の本質は、見ずに信じること
イエスはトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。信仰の本質は「見ずして信じること」です。トマスへのイエスの顕現の目的はここにあると信じます。
今日に生きる私たちはイエス・キリストを信じる人たちを通してイエスを信じています。つまり、見ずして信じているわけです。よみがえりのイエスの証人である使徒たちが記した聖書を信じています。イエスが復活されてから昇天されるまでの40日間にイエスと出会った者たち以外のキリスト者はみなイエスを目にしてはいません。しかしイエスがよみがえられたことを聞いて信じているのです。
・・・以下省略します。是非、「牧師の書斎」をご覧下さい。
今日の話はこれだけです。
今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た奥多摩湖の写真です。湖の向こう側の山々に点々と白いソメイヨシノが咲いていることにご注目下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)