この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回もフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
この連載の前回の13回目の記事は2月27日に掲載しましたので随分と間があいています。お忘れになった方々も多いと思い、末尾の「参考資料」として前回の記事を再録いたしました。
この前回の記事では問題児だった息子を飛び級させたフランスの温かい個人尊重の学校教育の話でした。
ところが帰国し、息子を日本の学校に転校させたら悲劇が起きてしまったのです。
日本の学校では個性無視の協調性強要の集団教育が行われていたのです。息子は挫折します。そしてその挫折を一生背負って歩くことになります。
しかしその長い暗いトンネルを母子ともに抜けて明るい世界に出たのです。達観の世界を静かに生きています。
こんな経験をした母親のEsu Keiさんは誰をも非難していません。日本の学校教育が間違っているとも言っていません。完全な教育などどこの国にも存在しないと言っています。自分と息子は全てを運命と思い静かな幸せをあじわっているのです。
今日の表題の「やはり日本の学校教育には問題がある」は私が勝手につけた題です。Esu Keiさんがつけた表題ではありません。
この14回目の文章をもって「パリの寸描、その哀歓」という連載を完結します。
今日の挿し絵代わりの写真は琳派の尾形光琳の燕子花図です。いかにも日本的な整然とした画と思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===「パリの寸描、その哀歓(14)外国人クラスの問題児のその後」Esu Kei著====
「外国人クラスの問題児」という拙文について、いろいろな方が読んでくださって感想をくださった。私は当時日本の教育と比較して考えるということをしなかったし、息子達が初等教育を日本で始めなかったということがどう影響するかについても特に考えたことがなかった。私達は鈍感だったのかもしれない。日本とヨーロッパの文化の違いを感じていたのにもかかわらず… 約35年たった今、日本の教育についても書いておくことにした
私達家族は長男がフランスの小学校の最終学年の5年生、次男が幼稚園の最後の年の秋にドイツのハンブルクに引っ越すことになった。子どもたちが一貫した言葉の文化を持つようにと考えて、ドイツの現地校に入れずに、2年前にできたばかりだという日本人学校に入れることにした。フランスにいるときには日本人学校が遠いということ、外国語がまだ一つだけだったということで、近くの学校を選んだのだが、ドイツに移っていくつもの言葉があやふやに入ることは、将来何か影響がありそうだと判断したのだ。次の大きな転機は日本への帰国であった。長男は中学の入学時期になり、多感な年頃での転校の難しさも考えて、急遽帰国することになった。小学校3年になる次男と私と3人は夫をドイツに置いて日本に帰ることにしたのだ。
長男は集団には馴染みにくい質で、日本人学校に入ってから、苛められているようだったので、少しでも馴染むための配慮をしたつもりだった。けれども日本の学校に入るということは大きな逆カルチャーショックであった。私達には日本が外国以上に外国に思えた。当時、画一教育という言葉をよく聞いたものだが、協調性をもっとも重要視する教育だった。
日本ではまず、協調が先にある。日本でいう“協調性”は私には同調性のように思えた。日本とフランスの違いははっきりしていた。それはお国柄と言えるものだと思う。日本ではまず、協調が先にある。フランスではまず“個”が先なのだと言える。だからと言ってフランスで協調性が軽んじられているわけでもない。「Fais comme les autres!」(他の人と同じようにしなさい)は大抵のお母さんの口癖だ。フランスで日本人の子どもの印象を聞くと、よくdiscipline(統制のとれた、規律正しい)という言葉が返ってきた。よく言いつけを守る良い子というほどの意味で日常的に使われる。日本の子ども達の平均的な教育水準も高い方だと思う。それは良いことなのだが、皆がそろって同じ方向を向いているという日本流の教育環境は少なくとも長男には合っていないようだった。中学の3年間、全体からどうしてもはみ出してしまう長男はいじめられ続け(当時は苛める子には問題はなく、苛められる側に問題があるというのが学校の見解だった)、自由な校風を自ら選んで入った高校でも、人間関係を築くことはできないようだった。ずっと後になってそれは障害と呼ばれる長男の資質のためだと分かったが、高校を卒業するまでに、長男はすっかり意欲を失い、自分の進路について考えることさえ止めてしまった。長男がこの暗い時期の問題から抜け出るには長い長い時間が必要だったが、ある日「自分が苛められ続けたことも、ずっとくよくよめげていたことも自分にとってすべて必要な経験であった」と言った。私も長い間自責にも苦しみ、親として責められ続けもし、自滅しそうだった。悩む息子を助けるために何一つできなかったが、ある時それを詫びた私に、彼は「大丈夫、完全な親なんてどこにもいないよ」と笑った。私達は長いトンネルから出たようであった。私達には魂の救い手ともいえる人達がついていてくれたのだ。黙って見守ってくれる人達だった。
今になってみると、何もかも、誰にとっても、すべては運命なのだという気がしてならない。少年期に学校で過ごす時間の長さと、学校の力を考えると、その影響の大きさは怖いほどのものだ。教職にある人達はそれを考えてほしいと思う。ただ、学校でうまく行かなかったからと言って絶望することはないと思う。どこでどんな道が開くかは分からないのだから。私の経験と、見聞きした範囲では、息子の言い方の受け売りになるが、完全な学校や教育制度など、どの世界にもないだろう。どの学校にも良いところも悪いところもあり、良い先生に出会うかどうかも含めてやはり運命という言葉が浮かんでくる。世の中の子どもたちが運命を良く生きる力を持っていることが一番大事な気がする。その力を人生のごく初めに植えつけえるのは親なのではないか。私のような未熟なものが親であったことは今思い返しても怖くなる。そしてこんなに未熟な者でも母親という役目を与えられたことは何よりの幸せだ。(完結)
===参考資料;前回の文章======================
「パリの寸描、その哀歓(13)外国人クラスの問題児」Esu Kei著
外国人クラスには13人の新入生が入ると聞いた。国籍は様々で、ベトナム、マルチニック、マリ、中国、ポルトガル、ドイツや他の国からきて、初めて学校に入る子ども達である。驚いたことに6歳から12歳という年齢だという。12歳と言うと普通に行けば中等学校に行っている年齢なのに、小学校で学ぶのだという。担任のアリワット先生は30代の後半くらいに見える。美しく、理知的で、優しそうな、信頼できる先生だ。それにしてもそれぞれの年齢に合わせて13人もの子供を一年で普通クラスにはいれるように指導するのはさぞ大変なことだろう。クリスマス休みの前にはいろいろなことが分かってきた。びっくりしたことに、このクラスで一番の問題児はどうやら我が息子のようだ。
ある朝、息子を学校に送って行く途中で先生に出会ったときに、呼び止められてこう言われた。「サトルはちょっと難しいところがあります。彼がとても理解の良いことは分かっているのですが…文化の違いなのか、彼の性格なのか?今日、帰りにちょっとお母さんとお話しできますか?」これは困った。幼稚園の時は楽しそうに見えたのに...どういうことなのだろう。何か対策を立てなければいけないだろうか?昼食に帰ってきた夫に話すと、「時間がたてば慣れるよ」と簡単に言う。
夕方迎えに行くと、コンシエルジュが「マダム・エスは教室に上がってください。」というので、2階に上がっていった。アリワット先生が待っていてすぐに話し始めた。「ちょっと適応の問題があるのです。サトルはどうやら一人でいるのが好きなようなのです。(私たちが話している間彼は中庭で一人で遊んでいる。)昼休みの後教室に入るのを渋ったり、教室でも、分かっていても指名されると答えないのです。このクラスは国籍も年齢もちがう子ども達が13人ですから、時間がいくらあっても足りません。正直に言えばサトル一人にあまり時間を取られると、ほかの生徒に教える時間が足りなくなるのです。」私は自分の躾の至らなさを思い知らされた。「それで、私は彼が中庭で遊んでいたい時は無理に教室に入れないことにしました。暫くすると彼は教室に帰ってきます。教室でも他の生徒の邪魔をすることはなく、消しゴムや、筆箱で遊んでいます。不思議なことに勉強が遅れているようには見えません。」「私も今日お話を聞いて困惑しています。彼にどう話せばいいのか...」「彼は自由を愛しているのかもしれません。それで、私から2つの提案をします。明日から、彼に絵を描く紙と、色鉛筆かなにかを持たせてください。それから、算数は2年生のワークブックをお母さんに渡しておきます。宿題ではないので無理強いはしないで、彼の気が向けばお家で勉強するのもいいと思います。慣れるのに時間がかかっているだけかもしれないので、しばらく様子を見ましょう。子どもを幼稚園に迎えに行かなければならないので、これで...」と私に算数のワークブックを渡して、先生はあっさりと帰って行かれた。
我が子が問題児らしいことは分かった。ちょっとしたショックである。家では4歳違いの次男の方に注意が向いていて、あまり深く考えることがなかった。それに数年すれば日本に帰るので、学校の勉強のことに重きを置いたことがなかった。日本語を大切にということに気を使っている。毎晩本を読んでやるということが我が家での勉強だった。長男は確かにひとりで遊んでいるのが好きで、誰にも邪魔されなければそれが一番いいように見えた。学校でもそうしたいのだろうか。幼稚園の先生からは何も問題がないように聞いていたが、遊びが主な活動だったからなのだろうか。
翌日から彼はスケッチブックとクレヨンをもって登校するようになった。驚いたことに一日で一冊のスケッチブックを使い切ってしまう。ヨーロッパでは文房具や、紙類は大変値段が高い。こんなことが続くのだろうかと思っていたら、間もなく先生から「スケッチブックはもったいないので、何でもいいのです。ご両親が使う紙の裏とか、なにかあるでしょう?」と言われ、夫の使う紙の裏を使わせることにした。彼は絵を描いていていいと言われると一日中でも描いているらしい。ノートには一応フランス語が書いてあるから多少の勉強はしてはいるのだろう。一度だけ、しっかりノートに字を書いてきたことがあった。それは学校で先生がケーキを焼いてくださったときに、その作り方を日本語で書いたのだった。彼は日本語の読み書きは、5歳を過ぎた頃からできていたから、そのくらいのことはできるようだった。フランス語で書き取ることは難しかったのだろう。先生は、外国人クラスの子ども達が、語学の遅れから学校生活を楽しめなくなることがあってはならないと、時々給食室の隣のキッチンでお菓子を作って楽しませてくださっているようだった。素晴らしい先生だ。
長男は学校は好きなのだと思う。家の近くの公園でよく出会うクラスの子どもたちもいつも親しげに話しかけてくる。屈託なく、無邪気な仲間と言う感じだ。それでも彼はクラスに馴染めないのだろうか。
算数のワークブックはどうなったか? 彼には2年生用ので良いと先生は言われる。無理強いすることはありませんとも。1学年が終われば2年生になるのだから、その時にやってもいいわけである、と私は解釈した。色刷りのきれいな数十頁のワークブックである。計算、文章問題、n進法の基礎、などである。フランスでは算数だけは国で進度が厳密に決められているそうで、他は先生の自由裁量に任される部分が多いと聞いている。家で見ていると、やはり文章で書かれた応用問題は単語の知識がないために時々分からないようだ。n進法は十進法と同じように息子にとっては苦にならないらしい。一週間もすると飽きたらしく算数はもういいという。応用問題のためばかりでなく、フランス語の単語を覚えるコツとして、想像力を使うと派生語の意味が分かるようになる(単語の親戚を探すという言葉を使って教えた) と教えた。どうなることやらと思っていたところ、 3学期の後半になって、先生に言われて週に何回か算数の時間だけ2年生の教室に行くようになったという。
こうして1学年が終わり、進級審査のテストがあり、外国人クラスの生徒たちは新学期にどの学年に入るのがふさわしいかを決める。この審査は担任教師がするのではなく、市の視学官が担当する。アリワット先生は彼が飛び級することも考えて2年生のワークブックをくださったのだとこの時知った。結局数ページ勉強しただけで終わってしまったが…ところが進級審査の結果は先生の予想を超えて、4年生相当というものだった。アリワット先生は、4年生でなく3年生にと担任としての意見を視学官に伝えたと話してくださった。フランス語が母国語でない場合は、年齢が進むにしたがって言語能力は差が出てくるので2年の飛び級はしない方がよいと判断されたとのことだった。「あなたやご主人のお考えはどうでしょうか? 4年生に飛ぶことをご希望でしたら話を戻して、視学官に異議申し立てをできます。」もちろん私達に異論はない。日本に帰れば年齢相当のクラスに戻るのだからフランスでの飛び級は意味があるとは思えない。フランスにいる間の学校生活が息子にとって楽しいものであることが大事なのだ。それにしてもアリワット先生は考えの深い方だった。外国人クラスで一番の問題児に手を焼いていると言っておられたのに、教室では絵を描いているだけのお客様だった息子の力をきちんと見ていてくださったのだ。感謝あるのみ。(続く)
今回もフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
この連載の前回の13回目の記事は2月27日に掲載しましたので随分と間があいています。お忘れになった方々も多いと思い、末尾の「参考資料」として前回の記事を再録いたしました。
この前回の記事では問題児だった息子を飛び級させたフランスの温かい個人尊重の学校教育の話でした。
ところが帰国し、息子を日本の学校に転校させたら悲劇が起きてしまったのです。
日本の学校では個性無視の協調性強要の集団教育が行われていたのです。息子は挫折します。そしてその挫折を一生背負って歩くことになります。
しかしその長い暗いトンネルを母子ともに抜けて明るい世界に出たのです。達観の世界を静かに生きています。
こんな経験をした母親のEsu Keiさんは誰をも非難していません。日本の学校教育が間違っているとも言っていません。完全な教育などどこの国にも存在しないと言っています。自分と息子は全てを運命と思い静かな幸せをあじわっているのです。
今日の表題の「やはり日本の学校教育には問題がある」は私が勝手につけた題です。Esu Keiさんがつけた表題ではありません。
この14回目の文章をもって「パリの寸描、その哀歓」という連載を完結します。
今日の挿し絵代わりの写真は琳派の尾形光琳の燕子花図です。いかにも日本的な整然とした画と思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===「パリの寸描、その哀歓(14)外国人クラスの問題児のその後」Esu Kei著====
「外国人クラスの問題児」という拙文について、いろいろな方が読んでくださって感想をくださった。私は当時日本の教育と比較して考えるということをしなかったし、息子達が初等教育を日本で始めなかったということがどう影響するかについても特に考えたことがなかった。私達は鈍感だったのかもしれない。日本とヨーロッパの文化の違いを感じていたのにもかかわらず… 約35年たった今、日本の教育についても書いておくことにした
私達家族は長男がフランスの小学校の最終学年の5年生、次男が幼稚園の最後の年の秋にドイツのハンブルクに引っ越すことになった。子どもたちが一貫した言葉の文化を持つようにと考えて、ドイツの現地校に入れずに、2年前にできたばかりだという日本人学校に入れることにした。フランスにいるときには日本人学校が遠いということ、外国語がまだ一つだけだったということで、近くの学校を選んだのだが、ドイツに移っていくつもの言葉があやふやに入ることは、将来何か影響がありそうだと判断したのだ。次の大きな転機は日本への帰国であった。長男は中学の入学時期になり、多感な年頃での転校の難しさも考えて、急遽帰国することになった。小学校3年になる次男と私と3人は夫をドイツに置いて日本に帰ることにしたのだ。
長男は集団には馴染みにくい質で、日本人学校に入ってから、苛められているようだったので、少しでも馴染むための配慮をしたつもりだった。けれども日本の学校に入るということは大きな逆カルチャーショックであった。私達には日本が外国以上に外国に思えた。当時、画一教育という言葉をよく聞いたものだが、協調性をもっとも重要視する教育だった。
日本ではまず、協調が先にある。日本でいう“協調性”は私には同調性のように思えた。日本とフランスの違いははっきりしていた。それはお国柄と言えるものだと思う。日本ではまず、協調が先にある。フランスではまず“個”が先なのだと言える。だからと言ってフランスで協調性が軽んじられているわけでもない。「Fais comme les autres!」(他の人と同じようにしなさい)は大抵のお母さんの口癖だ。フランスで日本人の子どもの印象を聞くと、よくdiscipline(統制のとれた、規律正しい)という言葉が返ってきた。よく言いつけを守る良い子というほどの意味で日常的に使われる。日本の子ども達の平均的な教育水準も高い方だと思う。それは良いことなのだが、皆がそろって同じ方向を向いているという日本流の教育環境は少なくとも長男には合っていないようだった。中学の3年間、全体からどうしてもはみ出してしまう長男はいじめられ続け(当時は苛める子には問題はなく、苛められる側に問題があるというのが学校の見解だった)、自由な校風を自ら選んで入った高校でも、人間関係を築くことはできないようだった。ずっと後になってそれは障害と呼ばれる長男の資質のためだと分かったが、高校を卒業するまでに、長男はすっかり意欲を失い、自分の進路について考えることさえ止めてしまった。長男がこの暗い時期の問題から抜け出るには長い長い時間が必要だったが、ある日「自分が苛められ続けたことも、ずっとくよくよめげていたことも自分にとってすべて必要な経験であった」と言った。私も長い間自責にも苦しみ、親として責められ続けもし、自滅しそうだった。悩む息子を助けるために何一つできなかったが、ある時それを詫びた私に、彼は「大丈夫、完全な親なんてどこにもいないよ」と笑った。私達は長いトンネルから出たようであった。私達には魂の救い手ともいえる人達がついていてくれたのだ。黙って見守ってくれる人達だった。
今になってみると、何もかも、誰にとっても、すべては運命なのだという気がしてならない。少年期に学校で過ごす時間の長さと、学校の力を考えると、その影響の大きさは怖いほどのものだ。教職にある人達はそれを考えてほしいと思う。ただ、学校でうまく行かなかったからと言って絶望することはないと思う。どこでどんな道が開くかは分からないのだから。私の経験と、見聞きした範囲では、息子の言い方の受け売りになるが、完全な学校や教育制度など、どの世界にもないだろう。どの学校にも良いところも悪いところもあり、良い先生に出会うかどうかも含めてやはり運命という言葉が浮かんでくる。世の中の子どもたちが運命を良く生きる力を持っていることが一番大事な気がする。その力を人生のごく初めに植えつけえるのは親なのではないか。私のような未熟なものが親であったことは今思い返しても怖くなる。そしてこんなに未熟な者でも母親という役目を与えられたことは何よりの幸せだ。(完結)
===参考資料;前回の文章======================
「パリの寸描、その哀歓(13)外国人クラスの問題児」Esu Kei著
外国人クラスには13人の新入生が入ると聞いた。国籍は様々で、ベトナム、マルチニック、マリ、中国、ポルトガル、ドイツや他の国からきて、初めて学校に入る子ども達である。驚いたことに6歳から12歳という年齢だという。12歳と言うと普通に行けば中等学校に行っている年齢なのに、小学校で学ぶのだという。担任のアリワット先生は30代の後半くらいに見える。美しく、理知的で、優しそうな、信頼できる先生だ。それにしてもそれぞれの年齢に合わせて13人もの子供を一年で普通クラスにはいれるように指導するのはさぞ大変なことだろう。クリスマス休みの前にはいろいろなことが分かってきた。びっくりしたことに、このクラスで一番の問題児はどうやら我が息子のようだ。
ある朝、息子を学校に送って行く途中で先生に出会ったときに、呼び止められてこう言われた。「サトルはちょっと難しいところがあります。彼がとても理解の良いことは分かっているのですが…文化の違いなのか、彼の性格なのか?今日、帰りにちょっとお母さんとお話しできますか?」これは困った。幼稚園の時は楽しそうに見えたのに...どういうことなのだろう。何か対策を立てなければいけないだろうか?昼食に帰ってきた夫に話すと、「時間がたてば慣れるよ」と簡単に言う。
夕方迎えに行くと、コンシエルジュが「マダム・エスは教室に上がってください。」というので、2階に上がっていった。アリワット先生が待っていてすぐに話し始めた。「ちょっと適応の問題があるのです。サトルはどうやら一人でいるのが好きなようなのです。(私たちが話している間彼は中庭で一人で遊んでいる。)昼休みの後教室に入るのを渋ったり、教室でも、分かっていても指名されると答えないのです。このクラスは国籍も年齢もちがう子ども達が13人ですから、時間がいくらあっても足りません。正直に言えばサトル一人にあまり時間を取られると、ほかの生徒に教える時間が足りなくなるのです。」私は自分の躾の至らなさを思い知らされた。「それで、私は彼が中庭で遊んでいたい時は無理に教室に入れないことにしました。暫くすると彼は教室に帰ってきます。教室でも他の生徒の邪魔をすることはなく、消しゴムや、筆箱で遊んでいます。不思議なことに勉強が遅れているようには見えません。」「私も今日お話を聞いて困惑しています。彼にどう話せばいいのか...」「彼は自由を愛しているのかもしれません。それで、私から2つの提案をします。明日から、彼に絵を描く紙と、色鉛筆かなにかを持たせてください。それから、算数は2年生のワークブックをお母さんに渡しておきます。宿題ではないので無理強いはしないで、彼の気が向けばお家で勉強するのもいいと思います。慣れるのに時間がかかっているだけかもしれないので、しばらく様子を見ましょう。子どもを幼稚園に迎えに行かなければならないので、これで...」と私に算数のワークブックを渡して、先生はあっさりと帰って行かれた。
我が子が問題児らしいことは分かった。ちょっとしたショックである。家では4歳違いの次男の方に注意が向いていて、あまり深く考えることがなかった。それに数年すれば日本に帰るので、学校の勉強のことに重きを置いたことがなかった。日本語を大切にということに気を使っている。毎晩本を読んでやるということが我が家での勉強だった。長男は確かにひとりで遊んでいるのが好きで、誰にも邪魔されなければそれが一番いいように見えた。学校でもそうしたいのだろうか。幼稚園の先生からは何も問題がないように聞いていたが、遊びが主な活動だったからなのだろうか。
翌日から彼はスケッチブックとクレヨンをもって登校するようになった。驚いたことに一日で一冊のスケッチブックを使い切ってしまう。ヨーロッパでは文房具や、紙類は大変値段が高い。こんなことが続くのだろうかと思っていたら、間もなく先生から「スケッチブックはもったいないので、何でもいいのです。ご両親が使う紙の裏とか、なにかあるでしょう?」と言われ、夫の使う紙の裏を使わせることにした。彼は絵を描いていていいと言われると一日中でも描いているらしい。ノートには一応フランス語が書いてあるから多少の勉強はしてはいるのだろう。一度だけ、しっかりノートに字を書いてきたことがあった。それは学校で先生がケーキを焼いてくださったときに、その作り方を日本語で書いたのだった。彼は日本語の読み書きは、5歳を過ぎた頃からできていたから、そのくらいのことはできるようだった。フランス語で書き取ることは難しかったのだろう。先生は、外国人クラスの子ども達が、語学の遅れから学校生活を楽しめなくなることがあってはならないと、時々給食室の隣のキッチンでお菓子を作って楽しませてくださっているようだった。素晴らしい先生だ。
長男は学校は好きなのだと思う。家の近くの公園でよく出会うクラスの子どもたちもいつも親しげに話しかけてくる。屈託なく、無邪気な仲間と言う感じだ。それでも彼はクラスに馴染めないのだろうか。
算数のワークブックはどうなったか? 彼には2年生用ので良いと先生は言われる。無理強いすることはありませんとも。1学年が終われば2年生になるのだから、その時にやってもいいわけである、と私は解釈した。色刷りのきれいな数十頁のワークブックである。計算、文章問題、n進法の基礎、などである。フランスでは算数だけは国で進度が厳密に決められているそうで、他は先生の自由裁量に任される部分が多いと聞いている。家で見ていると、やはり文章で書かれた応用問題は単語の知識がないために時々分からないようだ。n進法は十進法と同じように息子にとっては苦にならないらしい。一週間もすると飽きたらしく算数はもういいという。応用問題のためばかりでなく、フランス語の単語を覚えるコツとして、想像力を使うと派生語の意味が分かるようになる(単語の親戚を探すという言葉を使って教えた) と教えた。どうなることやらと思っていたところ、 3学期の後半になって、先生に言われて週に何回か算数の時間だけ2年生の教室に行くようになったという。
こうして1学年が終わり、進級審査のテストがあり、外国人クラスの生徒たちは新学期にどの学年に入るのがふさわしいかを決める。この審査は担任教師がするのではなく、市の視学官が担当する。アリワット先生は彼が飛び級することも考えて2年生のワークブックをくださったのだとこの時知った。結局数ページ勉強しただけで終わってしまったが…ところが進級審査の結果は先生の予想を超えて、4年生相当というものだった。アリワット先生は、4年生でなく3年生にと担任としての意見を視学官に伝えたと話してくださった。フランス語が母国語でない場合は、年齢が進むにしたがって言語能力は差が出てくるので2年の飛び級はしない方がよいと判断されたとのことだった。「あなたやご主人のお考えはどうでしょうか? 4年生に飛ぶことをご希望でしたら話を戻して、視学官に異議申し立てをできます。」もちろん私達に異論はない。日本に帰れば年齢相当のクラスに戻るのだからフランスでの飛び級は意味があるとは思えない。フランスにいる間の学校生活が息子にとって楽しいものであることが大事なのだ。それにしてもアリワット先生は考えの深い方だった。外国人クラスで一番の問題児に手を焼いていると言っておられたのに、教室では絵を描いているだけのお客様だった息子の力をきちんと見ていてくださったのだ。感謝あるのみ。(続く)