後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、明日は昭和の日なので武蔵野御陵の新緑の写真」

2017年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
この季節は北野街道沿いの左右の山並みの新緑が綺麗です。
午後に高幡不動前から北野街道に入り青葉の雑木林の眺めを楽しみながら高尾山登山口の向こうまでドライブしました。

帰りは甲州街道に入り、明日は昭和の日なので武蔵野御陵に寄り、新緑の写真を撮ってきました。

緑豊かな昭和天皇の眠る武蔵野御陵の樹々の写真をお楽しみ下さい。









世界の戦争(2)1979年、中国とベトナム間の大戦争

2017年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、『世界の戦争(1)第二次大戦後も多数の戦争が!』という記事を掲載しました。
そして第二次世界大戦後にも実に多数の戦争があったことを示しました。
それらの数多くの戦争で、日本人のほとんど知らない戦争が幾つもあったことは大きな驚きです。
そこで、日本と利害関係の無い戦争を取り上げてみると、戦争の原因が客観的に見えてくるのではないでしょうか。日本へ利害関係が無いので、日本人が感情的にならないで公平に考えられるのです。
そのような戦争の一例が、1979年に起きた大規模な中越戦争です。
ベトナム戦争が終ってやっと平和になったと思ったベトナムへ中国の解放軍の60万人が戦った大戦争でした。しかし結果的に中国軍が敗退したのです。
この戦争は共産主義の国同士の戦いで日本には直接の利害関係が無いと考えられ、日本人の強い関心は惹かなかったのです。もう忘れている方も多いと思います。
そこでこの戦争を簡単に復習してみましょう。

1979年の中越戦(英語: Sino-Vietnamese War)は、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国の間で行われた戦争です。
その概略を、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89 から抜粋します。
この中越戦争の起きる前に、大量虐殺を行ったカンボジアのポル・ポト政権が圧倒的なベトナム軍の侵攻で崩壊したのです。これが中越戦争の原因になったのです。
カンボジアを支援してきた中華人民共和国が「ベトナムへの懲罰行為」と称し、軍事侵攻を開始したのです。
カンボジアに駐留するベトナム軍主力の留守を突く形で侵攻した中国人民解放軍は初戦は優勢でした。ベトナムの国境守備隊を圧倒しようとしたのです。
しかしベトナム戦争で実戦経験を積み、装備にも優れていたベトナム人民軍に、中国軍は多大な損害を出して、苦戦を強いられ、最終的には撤退してしまったのです。
中国は短期間でベトナムを制圧できると考えていました。しかし中国軍の指揮系統が内部崩壊することを全く想定していなかったのです。中国の軍隊は国民党との内戦の時代と同じ古いゲリラ戦と人海戦術のための指揮系統しか持っていませんでした。ベトナム軍が中国軍の幹部を戦死させると中国軍は指揮系統を失い烏合の衆になったそうです。
その上、ベトナム軍はアメリカの強力な武器や戦車を持っていたのです。
戦争に勝つのは当たり前でした。
この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍は2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告しています。
一方ベトナム国防省の軍事歴史院は60万人の中国軍の内2万人が戦死し、4万人が負傷し、合わせて1割の死傷者が出たと記している。
双方の損害は誇大に報告されているのでしょうが、この戦争は数か月の短期間にこれだけの損害が出たのです。熾烈な戦争でした。

さてこの中越戦争の原因は何だったのでしょうか?
上の説明では、中国の支援してきたカンボジアのポル・ポト政権がベトナム軍の侵攻で崩壊したので、それが中越戦争の原因になったと説明しています。これは戦争のキッカケでしたが真の原因ではないようです。
私には中国の共産党員の親友がいました。共産主義は間違っていますが、兎に角、彼は私が深くつきあった中国人の親友でした。天津市を国民党軍から解放した時に協力し、その後、天津市の行政に参加した古参の党員だったのです。中央政府にも人脈を持っていました。
ある時、一緒に北京の裏通りの北京ダックの店でビールを飲みながら、彼は1979年の中越戦争の原因を次のように説明したのです。
「原因は1966年に始まったベトナム戦争にあります。ソ連は武器、弾薬をベトナムに送りました、中国は食べるものも節約して食料をベトナムに送りました。特に揚子江の南の農村は自分たちが食べないで、多量の米を送り続けたのです。それでベトナムがアメリカ軍に勝ったのです。ところが勝った後でベトナムは中国の恩を忘れ、中国の嫌いなソ連へ海軍基地を与える交渉を始めたのです。
中国人は怒り心頭に発しました。そこでベトナムに懲罰を与えるためにその北部へ侵攻したのです」
こういう彼は怒りで顔を赤くしていました。いつも温厚な彼が感情的な表情をしながら説明したのです。

中国は清朝の末期から欧米の植民地主義で厦門や香港を失い、北京や上海や青島やハルビンなどに欧米の租界を持っていたのです。
中国人はこの屈辱を絶対に忘れません。
ベトナムがそのことを忘れていたのです。しかしその後、ベトナムは中国の屈辱を理解し、ソ連と距離を置き、中国と国交回復しました。
以上のように戦争の真の原因を理解することは難しいものです。
ですから表面的な戦争のキッカケを原因とすることが多いのです。例えば真珠湾攻撃が日米戦争の原因だと言うようなものです。しかし本当の原因は満州建国にあったと考える方が深い理解ではないでしょうか。

今日の挿し絵代わりの写真は中国の武漢の公園に咲いているソメイヨシノの花の写真です。
この公園は東湖桜花園です。武漢東湖磨山桜園とも呼ばれ、中国の湖北省武漢市武昌区の東湖地区にある桜の名所です。日本軍の武漢占領時代から武漢大学近辺には日本の桜が植えられていて、戦後もさらに日本の桜が植えられ、遼寧省大連市旅順口区の龍王塘桜花園と共に中国の2大桜の名所となっているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)