高齢者になると体力が要らないコンピューターを使って、いろいろな人々と交流することが楽しくなって来ます。
私は10年前にブログを書き始めました。そして数年前から3種類の社会ネットワーク・システムの会員になってします。
国際的な Face Book と日本の趣味人倶楽部とBYOOL・SNSという3種の会員になっています。そして毎日、同文の記事をブログとそれぞれに掲載しています。記事の内容は、旅の話や趣味の話、そして社会時評や国際関係まで幅広い話題です。自分が美しいと思った風景や花の写真も載せます。
するといろいろな方々からコメントを頂きます。そこでコメントを下さった方のブログやホームページを見ます。こうして知らない世界にいる多くの人と交流が出来るのです。
さらに印象深い良質なコメントを毎回下さる方には原稿を依頼し、頂いた原稿を私のブログや Face Book のページに掲載して広くご紹介します。
過去10年間で10人以上の方からご寄稿を頂きました。
今年になってからはEsu Keiさんという女性の方が『パリの寸描、その哀歓』と題する連載記事を15回も書いてくださいました。
それからフランスに在住の女性の ともえさとこ様は『フランスあれこれ』という連載記事を4回ほど書いて下さいました。
さらにブラジル在住の平峰盛敏様は『ブラジル生活あれこれ』と題する連載記事を3回書いて下さいました。
この3人の方々には今年になってから大変お世話になったのです。
さて前回の記事では「陽なた」というリハビリ施設のことをご紹介しました。
上記のように『パリの寸描、その哀歓』という連載を15回も書いてくださったEsu Keiさんとはこのリハビリ施設で知り合った方です。
この施設で知り合ったもう一人の男性の方にも去年、記事を書いて頂きました。
この方は大正生まれの方で、終戦前に陸軍士官学校を卒業された90歳くらいの立石 恒さんという方です。
私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。その方にも原稿を依頼したのです。
このようにインターネットを利用していろいろな方々と交流し友人になるためにはその人を尊敬してメールの交換をします。お会いしなくても礼儀正しくメッセージの交換をすると親しい友人関係になれるのです。
少し変わった趣味の方とも昨年親しくなりました。でいしゅうさんという方で銃猟が趣味です。昨年、その銃猟に関する興味深い連載記事を書いて下さいました。その上、北海道で仕留めたエゾシカのロースの塊も送って下さったのです。その後三重県で仕留めたイノシシの肉も送って下さいました。
話は飛びますが、ロンドンに住んでいる石山 望さんとは趣味人倶楽部で昨年8月に知り合いましたが、それ以来毎週お電話を下さいます。そして昨年10月と今年の5月には日本周遊の旅に来ましたが、その折に家内ともどもお会いしました。
このようにネットを利用した交流で絶対的に重要なのは感謝と尊敬にもとずいた礼儀正しさです。それが良質の社交性になると信じています。
今日の話はここまでですが、戦前にあった陸軍士官学校の教育に関してはあまり知られていないので以下に2016年10月26日 に掲載した記事をもう一度掲載いたします。
『昭和時代の陸軍士官学校を卒業した方の生涯』
1)何故、立石 恒さんは陸軍士官学校に入学したのですか?
私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続かず、官費の学校を選びました。
どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。
2)陸軍士官学校でどんな教育を受けましたか?
それはとてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。
戦術の他に物理や化学など普通もあり、ある程度の教養を得ました。
課目に国際法、特に戦時国際法や、ハーグ協定などに関するものが無かったのが残念です。
3)終戦時の心境は如何でしたか?
内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。
しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。
私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。
その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。
4)終戦後の大学入学と就職はどうなさいましたか?
終戦後、一時農業に従事しましたが、向学心黙しがたく、翌年大学を受験し無事入学出来ました。
当時、軍の学校を出た者入学者の1割以内という制限がありました。
昭和24年に大学を卒業し就職試験を受けました。就職試験は3社以内という規則があり、先に合格した会社に行くという決まりがありました。
私は、メーカー、商社、金融機関の1社ずつを受けて、一番先に決まった銀行に入りました。その銀行は国内よりも海外に店舗を持つ国策銀行でした。
父が外務省の官吏で海外勤務をしていたことも選択の一つでした。働きました。戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
しかし肺結核になり、1年半以上の休職療養をしました。それ以来、人生を達観し、出世主義を放棄しました。
5)海外勤務みついて教えて下さい。
ブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思いましたが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日でした。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く、苦労しました。
革命も経験しました。郷に入っては郷に従えの仕事のやり方、処世の法を学びました。
6)日本の将来と日米安保体制についてのお考えは?
アメリカ大統領候補のトランプ氏の演説を聞いていると、しきりに日本の防衛から手を引くと言っています。従って有事の際、果たして日本を護ってくれるのか心配です。
近隣諸国と仲良く出来ないものでしょうか。遠くの親戚よりも近くの他人という諺があります。中途半端な防衛で強大な中国に勝てるでしょうか。蟷螂の斧で向かうような気がしてなりません。スイスに学ぶべきだと思います。(終り)
あとがき、
以上の文章に付記したいことがあります。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の文章を書いて下さった立石 恒さんは非常に優秀な若者だったのです。
そして彼の楽観主義が幸いしました。何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、銀行に就職したのでず。そして1年半の闘病生活が人生観を変えたのです。
よく人は「激動の昭和時代」という言葉を用います。しかし激動の内容は人それぞれなのです。
上記の文章を読みしみじみと昭和という時代を思い返しています。
今日の挿し絵がわりの写真は6月3日に撮った青梅市の吹上しょうぶ公園で撮った花菖蒲の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
私は10年前にブログを書き始めました。そして数年前から3種類の社会ネットワーク・システムの会員になってします。
国際的な Face Book と日本の趣味人倶楽部とBYOOL・SNSという3種の会員になっています。そして毎日、同文の記事をブログとそれぞれに掲載しています。記事の内容は、旅の話や趣味の話、そして社会時評や国際関係まで幅広い話題です。自分が美しいと思った風景や花の写真も載せます。
するといろいろな方々からコメントを頂きます。そこでコメントを下さった方のブログやホームページを見ます。こうして知らない世界にいる多くの人と交流が出来るのです。
さらに印象深い良質なコメントを毎回下さる方には原稿を依頼し、頂いた原稿を私のブログや Face Book のページに掲載して広くご紹介します。
過去10年間で10人以上の方からご寄稿を頂きました。
今年になってからはEsu Keiさんという女性の方が『パリの寸描、その哀歓』と題する連載記事を15回も書いてくださいました。
それからフランスに在住の女性の ともえさとこ様は『フランスあれこれ』という連載記事を4回ほど書いて下さいました。
さらにブラジル在住の平峰盛敏様は『ブラジル生活あれこれ』と題する連載記事を3回書いて下さいました。
この3人の方々には今年になってから大変お世話になったのです。
さて前回の記事では「陽なた」というリハビリ施設のことをご紹介しました。
上記のように『パリの寸描、その哀歓』という連載を15回も書いてくださったEsu Keiさんとはこのリハビリ施設で知り合った方です。
この施設で知り合ったもう一人の男性の方にも去年、記事を書いて頂きました。
この方は大正生まれの方で、終戦前に陸軍士官学校を卒業された90歳くらいの立石 恒さんという方です。
私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。その方にも原稿を依頼したのです。
このようにインターネットを利用していろいろな方々と交流し友人になるためにはその人を尊敬してメールの交換をします。お会いしなくても礼儀正しくメッセージの交換をすると親しい友人関係になれるのです。
少し変わった趣味の方とも昨年親しくなりました。でいしゅうさんという方で銃猟が趣味です。昨年、その銃猟に関する興味深い連載記事を書いて下さいました。その上、北海道で仕留めたエゾシカのロースの塊も送って下さったのです。その後三重県で仕留めたイノシシの肉も送って下さいました。
話は飛びますが、ロンドンに住んでいる石山 望さんとは趣味人倶楽部で昨年8月に知り合いましたが、それ以来毎週お電話を下さいます。そして昨年10月と今年の5月には日本周遊の旅に来ましたが、その折に家内ともどもお会いしました。
このようにネットを利用した交流で絶対的に重要なのは感謝と尊敬にもとずいた礼儀正しさです。それが良質の社交性になると信じています。
今日の話はここまでですが、戦前にあった陸軍士官学校の教育に関してはあまり知られていないので以下に2016年10月26日 に掲載した記事をもう一度掲載いたします。
『昭和時代の陸軍士官学校を卒業した方の生涯』
1)何故、立石 恒さんは陸軍士官学校に入学したのですか?
私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続かず、官費の学校を選びました。
どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。
2)陸軍士官学校でどんな教育を受けましたか?
それはとてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。
戦術の他に物理や化学など普通もあり、ある程度の教養を得ました。
課目に国際法、特に戦時国際法や、ハーグ協定などに関するものが無かったのが残念です。
3)終戦時の心境は如何でしたか?
内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。
しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。
私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。
その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。
4)終戦後の大学入学と就職はどうなさいましたか?
終戦後、一時農業に従事しましたが、向学心黙しがたく、翌年大学を受験し無事入学出来ました。
当時、軍の学校を出た者入学者の1割以内という制限がありました。
昭和24年に大学を卒業し就職試験を受けました。就職試験は3社以内という規則があり、先に合格した会社に行くという決まりがありました。
私は、メーカー、商社、金融機関の1社ずつを受けて、一番先に決まった銀行に入りました。その銀行は国内よりも海外に店舗を持つ国策銀行でした。
父が外務省の官吏で海外勤務をしていたことも選択の一つでした。働きました。戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
しかし肺結核になり、1年半以上の休職療養をしました。それ以来、人生を達観し、出世主義を放棄しました。
5)海外勤務みついて教えて下さい。
ブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思いましたが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日でした。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く、苦労しました。
革命も経験しました。郷に入っては郷に従えの仕事のやり方、処世の法を学びました。
6)日本の将来と日米安保体制についてのお考えは?
アメリカ大統領候補のトランプ氏の演説を聞いていると、しきりに日本の防衛から手を引くと言っています。従って有事の際、果たして日本を護ってくれるのか心配です。
近隣諸国と仲良く出来ないものでしょうか。遠くの親戚よりも近くの他人という諺があります。中途半端な防衛で強大な中国に勝てるでしょうか。蟷螂の斧で向かうような気がしてなりません。スイスに学ぶべきだと思います。(終り)
あとがき、
以上の文章に付記したいことがあります。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の文章を書いて下さった立石 恒さんは非常に優秀な若者だったのです。
そして彼の楽観主義が幸いしました。何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、銀行に就職したのでず。そして1年半の闘病生活が人生観を変えたのです。
よく人は「激動の昭和時代」という言葉を用います。しかし激動の内容は人それぞれなのです。
上記の文章を読みしみじみと昭和という時代を思い返しています。
今日の挿し絵がわりの写真は6月3日に撮った青梅市の吹上しょうぶ公園で撮った花菖蒲の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)