後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

東洋と西洋の融合(3)日本へ地質学を教えたナウマン博士へ感謝

2017年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
考えてみると明治維新以来、日本は西洋諸国から近代科学を学び、工業技術を発展させて来ました。西洋人は常に日本人に丁寧に教え、指導してきたのです。ですから私はその恩を忘れません。常に感謝しています。
しかし現在の多くの日本人はこの恩を忘れていませんか?。
そこでこの連載記事の第三回目の記事では明治8年から10年間も日本人を指導した地質学者のハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士の功績を書きたいと思います。
彼は全国の現地調査をして日本の地質地図を始めて作り、日本人へ地質学の重要性を教えてくれたのです。
そして地質調査の結果、日本には昔、象が棲んでいたことを発見しました。そして糸魚川から静岡にいたるフォッサマグマを発見し、その東西では地質が異なることを指摘したのです。
ナウマン博士が日本に象が棲んでいたことを発見したので、そのアジア象を日本ではナウマン象と呼んでいます。
それではナウマン象の話から始めます。
さて、縄文時代が始まる12000年前までは無土器の旧石器時代でした。
その旧石器時代は約40000年前から12000年前までの28000年間も続く長い期間でした。
その時代の日本には象が棲んでいて、約20000年前に絶滅しました。絶滅するまでの2万年間は人々が集団で象を狩り、食料にしていたのです。
象が日本に棲んでいたことを科学的に証明したのが前述通りナウマン博士です。
人間が象を狩りして食べていた証拠は、象の解体途中の骨の間から石器の刃物が多数見つかっていることです。
もう少し詳しくその後の調査についてご説明いたします。
長野県の野尻湖で長年、ナウマン象の化石の発掘調査が続行されてきました。その発掘を指導したのが数年前に88歳で亡くなった亀井節夫氏でした。
その発掘調査で発見された象の化石などは野尻湖の湖畔にある「野尻湖ナウマン象博物館」で展示してあります。私も野尻湖畔に一泊して丁寧に見て来ました。
野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。毎年、この化石の発掘が行われていたのです。
野尻湖ナウマンゾウ博物館の展示は良く出来てい明快です。検索するとこの博物館の詳細が出ています。
ナウマンゾウの解体現場に残った骨と共に、解体に使った石器が多数発掘され、それらもこの博物館に展示されています。
旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるのは珍しいことです。
写真にこの博物館を訪問した時に撮ったナウマンゾウの写真を示します。

1番目の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるナウマン象です。

2番目の写真は室内に展示してある実物大のナウマン象です。一緒に写っている見物客と比較すると象の巨大さが分かります。

さて、ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。そして2万年前以後の新し地層からは発見されません。ですから二万年前に絶滅したと言われています。
この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。
関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。
ナウマン博士の功績は古代象の発見だけではありません。最大の功績は日本人へ地質学を教え、その考古学や鉱山開発などでの重要性を説明してくれたことです。

3番目の写真がナウマン博士です。
彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナなどを発見し、日本の地質学を作り始めた人です。
茨城県つくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所が、その後発展した博物館なのです。
日本全土の土や岩石がどういう成分で出来あがっているか?どのような結晶で出来ているか?それらが何億年、何万年の間にどのように変化し動いてきたか?雨風に流されてどのように変化して来たか?
このような問題を体系的に研究する科学分野を地質学と言います。地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化し土壌に埋まれば化石になります。土質よっては化石にならない土壌もあります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

4番目の写真は数年前に、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。この展示物に感動して何度も訪問しました。
良くご覧下さい。黒っぽい岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。
長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細な割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。
岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が重要なのです。学問研究の醍醐味ですね。
ちょっと話題が本題からそれましたの止めます。
今日の記事では明治8年から10年間も日本に住み日本人へ地質学の重要性を教えてくれたナウマン博士をご紹介しました。教えを受けた日本人はその後日本の地質学を進歩、発展させ、つくば市に国立地質標本館を作ったのです。
これこそ「東洋と西洋の融合」の一例ではありませんか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==================
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854年9月11日 - 1927年2月1日)は、ドイツの地質学者。
(ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - Wikipedia、から抜粋)
いわゆるお雇い外国人の一人で、日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成。またフォッサマグナを発見したことや、ナウマンゾウに名を残すことで知られる。
ザクセン王国マイセンで生まれた。
1875年(明治8年) - 1885年(明治18年)、明治政府に招聘され、日本に滞在。東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授に就任。地質調査所(現:独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)の設立に関わり、調査責任者として日本列島の地質調査に従事。
調査は本州、四国、九州と広範囲にわたり、距離は10,000kmに及んだと伝えられている。また、当時存在した地形図には等高線が記されておらず、海岸線の輪郭が記される伊能図を基に、地形図の作成と並行して地質調査をするという膨大な作業を成し遂げた。
ナウマンは貝塚を2、3発見し、ハインリヒ・フォン・シーボルトの貝塚研究を助けた。
1884年12月にナウマンの雇用は終了したが半年延長され、1885年(明治18年)6月、天皇に謁見して勲4等を叙勲し、7月に離日した。
ドイツに帰ってから、ナウマンは1886年にミュンスター大学で私講師(正雇いではなく講義ごとに学生から受講料を取る教師)となり、地質学や地理学を講じた。後年、ドイツ東亜博物学民俗学協会で日本の貝塚について講演している。ベルリンでの地質学会議に参加して論文『日本列島の構造と起源について(Über den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)』を発表し、さらに同名の著書を出版してフォッサ・マグナ説を提案した[4]。
1886年3月にドレスデン東亜博物学・民俗学協会で講演した際には、日本人の無知、無能ぶりを嘲笑したため、森鴎外がそれに反駁して論戦し、新聞にも反論を投稿した。
1923年に関東大震災で東大図書館が焼け落ちたときには、自分の蔵書を寄贈した。

老境を格調高く生きるための心の持ち方

2017年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は大体70歳以上になると自分の人生の来し方をいろいろと反省することが多くなります。仕事で誇らしい業績をあげたことも思い出します。しかし年を経るに従って、それは自分の人生にとってあまり重要な意味が無いと思うようになります。
それよりも人生とは恥多いものだとしみじみ想います。功名心や金銭欲に負けて低俗な生活をしていたという反省が年と共に強くなってまいります。
せめて老境だけはこの世の欲から離れて格調高く過ごしたいと思うようになります。
そのためには心の持ち方が重要になります。
以下は私が努力している幾つかの目標です。まだ達成出来ていない目標です。
(1)自然を愛す
自然を愛すとは小さな草花を含めて自然界のすべてのものを好ましく思い、大切にすることです。特に老境になると美しい風景を長い時間眺め、その光景を日常の生活の間に何度も思い出すのです。
それは丁度恋人を美しいと思い、その顔や姿を何度も思い出すことと同じです。
例えば下の写真をご覧ください。

1番目と2番目の写真は先週訪れた安曇野にある有名な山葵園の脇にある美しい流れの光景です。

川底の藻がゆらゆら揺れていて、その左右に揺れる様子から流れる水流の早さがわかります。背後の北アルプスの高い山々の雪解け水が安曇野に湧き出しているのです。
このような自然の風景に人の手が加わると一層美しく見えることがあります。例えば下の写真のようにこの清流に人間が作った水車を置いて眺めてみましょう。

3,4,5番目の写真は安曇野の大王山葵園の傍にある黒沢監督の『夢』の撮影に使用された水車と、北アルプスの雪解け水の風景です。

水車の羽根が水流で押され水車がゆっくり回り、水車小屋の中の粉ひき用の杵がゴトン、ゴトンという低音がのどかに聞こえています。

このように自然の風景に人間の作ったものが添えられると一層美しく見えるものです。
例えば、遠方に残雪の山並みがあり近景には緑の水田が広がっている風景は本当に美しいものです。
このような風景を常日頃思い出していると、この世の欲から解放されて老境が格調高く過ごすことが出来ます。
(2)他人を恨まず、他国を憎まない心が重要
老境になると社会から離れるので仕事の上での他人との確執が無くなります。自分を酷い目に合わせた人のことも次第に忘れます。老境になると誰でも他人を憎まなくなります。
そして恩人たちへの感謝の気持ちが一層強くなってくるものです。すべてのことに感謝の気持ちが強く湧いてきます。自然に湧いてきます。仕事を止め引退すると誰でもそのような気持ちになるようです。
しかし毎日見る新聞やテレビでは他国を悪いと非難したり、憎しみをかき立てる扇動的な報道で溢れています。
例えば韓国の慰安婦像のことを何度も、何度も報道し日本人の憎しみをかき立てています。私はそんな報道にかかわりを持ちません。
それは日本の背負った負の遺産の一つに過ぎないのです。そう思えば韓国人を愛せます。
中国も南シナ海や尖閣諸島の近海で日本人を怒らせるような行動をとっています。多くの日本人は怒ります。
それも日本が満州を建国したり、中国の南部の桂林まで侵攻したお返しなのです。そう思うと中国人を愛せます。
他人を恨んでいたり、他国を非難している限り格調の高い老境を過ごすことは不可能です。
(3)レストランや泊まるホテルを選ぶ時は経営者の品格を考える
世の中の経営者には「品質を多少落としても安い方が客が増える」と信じている人が多いものです。
しかしクラシック・ホテルのように、サービスの質を重大視している旅館もあります。このようなホテルや旅館は高価なことが多いようです。
しかし品格の高い経営者は高価でなくても良質なサービスを提供するものです。
最近はインターネットの上でお客さんの評価が掲載されています。
それを注意深く見ると以下の3つの違いが分かるのです;1、安かろう悪かろう、2、間違いなく良いが高い、3、安いが品格のあるサービスを提供しているところ。
勿論、上記の3はなかなかありませんが、私はそれを探すようにしています。
(4)政治家を評価する場合はその品格も考慮に入れる
例えばオバマさんは品格があったがトランプさんは品格が無いと言えば納得する方が多いと思います。
トランプさんが大統領になりアメリカの経済が良くなり失業者も減少したと言います。アメリカ第一主義を貫きアメリカ人の面子を立てました。
ですからトランプ大統領はオバマさんより偉いと評価する人もいます。
しかしオバマさんはかつて戦争でひどい目にあったワルシャワで核兵器廃絶の格調高い演説をしてノーベル平和賞を受賞しました。広島にも来て原爆犠牲者の冥福を祈りました。
このような政治家の方を私は尊敬します。

まだまだ書きたいことが沢山ありますが、それを割愛するのも格調の高い姿勢なのかも分かりません。これで終わりにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)