学校の歴史教育では応神天皇や仁徳天皇の巨大な前方後円墳だけを強調して教えます。天皇制を賛美しようという偏った視点で古墳時代(AD300年からAD700年まで)を教えるので大和地方の古墳だけを丁寧に教えます。
その結果、多くの日本人は古墳は大和地方だけにあると誤解しています。実は私もそうでした。
しかしよく調べてみると古墳は北海道の江別古墳群から沖縄の古墳群を含めて全国に普及し、盛んに建造されていたのです。
全国の数百の古墳の一覧は、https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の古墳一覧 にあります。
この中には珍しく石造の巨大な古墳もあります。
例えば群馬県の保渡田古墳群は石造の古墳群です。この古墳群は、榛名山の南麓の保渡田の地に分布しており、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っているのです。
古墳の表面を全て川石で覆っているのです。利根川の上流と支流が近くにあります。
保渡田古墳の 八幡塚古墳などの3枚の写真を示します。
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これらの古墳の築造年代は、5世紀代の後半も終わりに近い頃から6世紀前半代にかけてであり、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと推定されています。
二子山古墳は墳丘長108メートル、後円部径74メートル、高さ10メートルです。
八幡塚古墳は墳丘長102メートル、後円部径56メートル、高さ現存約6メートル、前方部幅53メートルです。
薬師塚古墳は墳丘部が西光寺の堂宇や墓地のため、南側から東側にかけてかなり削り取られています。墳丘長は100メートルを超え、二重に周壕を巡らしていたと推定されています。葺石が葺かれ、埴輪類が配置されていました。
このように古墳の表面を川原の石で覆った古墳は私の家の近くにも一つあるのです。早速、昨日の午後に写真を撮って来ました。この古墳は府中市の熊野神社古墳と言います。昨日撮って来た写真を2枚示します。
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この古墳は三段築成の上円下方墳でです。一段目は一辺約32メートル、高さ約0.5メートル、二段目は一辺約23メートル、高さ約2.2メートルでそれぞれ方形をしており、三段目は直径約16メートル、高さ約2.1メートルで円形になっています。丸い石は近くを流れる多摩川の川原から運んで来たのです。
この石造りの古墳については驚くべき事実が3つあります。
(1)これがAD650年前後に作られた古墳であると学問的に発見されたのがごく最近の2004年であったのです。
(2)上が丸く、下が四角形は中国の思想を受けた構造であり、副葬品に中国の七曜文様が見つかっているのです。こんな時代に関東地方まで中国文化が浸透していたことに驚きます。もちろん直接では無く朝鮮の慶州の古墳文化が伝わったのでしょう。埋葬された有力者の名は不明ですが、あるいは朝鮮から渡来した傑出した武将だったのかも知れません。
(3)この古墳について珍しいことは、江戸時代にここに引っ越して来た熊野神社のご神体として利用されてきたのです。神仏混淆とは珍しくありませんが神と古墳が混淆しているのは驚きです。そして古墳の玄室が神社の奥の宮として利用されていた様子も伺えるのです。
熊野神社古墳造営当時の古墳近隣の情勢を考えると、650年頃に造営されたことが大きな意味を持っています。すなわち、古墳造営と前後して古墳東方約1キロメートルのところに東山道武蔵路が開かれたのです。
ですから7世紀末から8世紀初頭にかけて、現在の府中市中心部に武蔵国府が設置されたと推定出来ます。
そのため在地の有力者が被葬者で、武蔵国府が現府中市に設置されるにあたって重要な役割を果たしたと考えられます。
その辺の興味深い調査結果は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3 にあります。
今日は珍しい石で作った近所の古墳と群馬県の古墳群をご紹介しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘