「お寺の写真だけを撮っても面白くないわ」と家内が言います。そう言いながらも家内は北風が吹く寺の境内を走りまわり20枚くらい写真を撮って来ます。
観光客の来ない無名のお寺の写真を撮り、その歴史を調べると日本の宗教の実態が理解出来るのです。
私はカトリックの洗礼を受けてから50年近くなります。
その間、日本の宗教をいろいろ調べてきました。日本の宗教を理解すると、自ずとキリスト教の理解も深まるのです。
いずれ日本の宗教の実態をまとめてご報告しますが、今日は踊り念仏で有名な時宗の府中市の稱名寺の写真をお送りします。
1番目の写真は山門です。
2番目の写真は明治初年に建てられた本堂です。
3番目の写真は庫裏です。
4番目の写真は時宗の開祖の一遍上人です。
5番目の写真は地蔵堂です。地蔵堂は日限子育地蔵尊を祀り、近隣の信仰を集めています。
時宗寺院の称名寺の創建年代は不詳ながら、天慶3年(940年)に創建、清和源氏の六孫王源経基が平将門征伐した際に当地に寄宿したといいます。
道阿上人、一光大和尚が寛元3年(1245)に称名寺として開山、江戸時代には寺領13石8斗の御朱印状を拝領したといいます。
確かなことは寛元3(1245)年に一光大和尚が開山したということです。
さて一遍上人ですが、1239年生まれ、 1289年に亡くなりました。鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖です。
一遍は大衆を率いて遊行を続け、下人やも含む民衆を踊り念仏で極楽浄土へと導いたと言われています。
その教理は他力で、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時宗です。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と言ってます。
一遍の踊り念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近かったのです。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、尼僧が半分混じった男女の踊り手が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だったのです。その過激な狂乱状態は保守的な人々からは反発を受けました。
時宗は鎌倉仏教で生まれた非常に変わった宗派だったのです。それにしても日本にもいろいろな宗教があるのですね。
観光客の来ない無名のお寺の写真を撮り、その歴史を調べると日本の宗教の実態が理解出来るのです。
私はカトリックの洗礼を受けてから50年近くなります。
その間、日本の宗教をいろいろ調べてきました。日本の宗教を理解すると、自ずとキリスト教の理解も深まるのです。
いずれ日本の宗教の実態をまとめてご報告しますが、今日は踊り念仏で有名な時宗の府中市の稱名寺の写真をお送りします。
1番目の写真は山門です。
2番目の写真は明治初年に建てられた本堂です。
3番目の写真は庫裏です。
4番目の写真は時宗の開祖の一遍上人です。
5番目の写真は地蔵堂です。地蔵堂は日限子育地蔵尊を祀り、近隣の信仰を集めています。
時宗寺院の称名寺の創建年代は不詳ながら、天慶3年(940年)に創建、清和源氏の六孫王源経基が平将門征伐した際に当地に寄宿したといいます。
道阿上人、一光大和尚が寛元3年(1245)に称名寺として開山、江戸時代には寺領13石8斗の御朱印状を拝領したといいます。
確かなことは寛元3(1245)年に一光大和尚が開山したということです。
さて一遍上人ですが、1239年生まれ、 1289年に亡くなりました。鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖です。
一遍は大衆を率いて遊行を続け、下人やも含む民衆を踊り念仏で極楽浄土へと導いたと言われています。
その教理は他力で、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時宗です。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と言ってます。
一遍の踊り念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近かったのです。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、尼僧が半分混じった男女の踊り手が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だったのです。その過激な狂乱状態は保守的な人々からは反発を受けました。
時宗は鎌倉仏教で生まれた非常に変わった宗派だったのです。それにしても日本にもいろいろな宗教があるのですね。