フィリピンは1614年に高山右近を歓迎した時から終始、親日国でした。
慶長19年(1614年)12月に、右近は内藤如安らと共にマニラに到着しました。
これが日本とフィリピンの交流の始まりと考えることが出来ます。
そこでフィリピンの15世紀以後の歴史を次のように4つの時期に分けて見てみましょう。
(1)1529年から1898年までのスペインの植民地時代
(2)1898年から1945年のアメリカの植民地時代
(3)1941年から1945年の日本軍の占領期
(4)1945以後の独立国の時代
上の各時代で最も長かったのは約400年にわたるスペインの統治時代でした。アジア諸国でスペインの統治を受けたのは唯一フィリピンだけだったのです。
その結果、フィリピンは南米諸国と同じカトリック国になったのです。社会も文化も南米の一つの国のようになったのです。アジアにはいろいろな国がありますがカトリック国はフィリピンだけなのです。
そして1941年から1945年の日本軍の占領期には日本はミャンマーとこのフィリピンだけの独立を認めたのです。
いろいろな事がありましたがフィリピンは終始一貫日本の友好国でした。
それではその歴史をもう少し詳しく見てみましょう。
(1)1529年から1898年までのスペインの植民地時代
(https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピン )
スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから来ました。
1521年、セブ島にマゼランが率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達します。
マゼランはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死しました。
1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有になったのです。
スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とし、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分がスペインの領土となったのです。
これ以降、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐ貿易が続きフィリピンが繁栄したのです。
そいして立派な教会が作られたのです。
スペイン人はローマ・カトリックの布教を進めたのです。
その結果、現在のフィリピンの社会や文化は南米諸国と同じようになっているのです。
(2)1998年から1945年のアメリカの植民地時代
フィリピンは米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡されたのです。
フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗した。
しかしその戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧されます。
その後、アメリカ合衆国議会は1916年にジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立します。
1934年アメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾しました。
(3)1941年から1945年の日本軍の占領期
第二次世界大戦中の1941年12月に日本軍がマニラ市に上陸します。
アメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退し、大日本帝国陸軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領したのです。
アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、大日本帝国も1943年5月に御前会議でフィリピンとビルマを独立させます。
その結果、1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立しました。
その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営します。
その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン独立派が再び権力を握ったのです。
第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊されました。
(4)1945以後の独立国の時代
今日はあまり長くなるので戦後の歴史は続編で書くことにします。
フィリピンの都市の風景や教会の写真をお送りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘
1番目の写真はマカティ市の風景です。マカティ市は首都メトロ・マニラの1市で、マニラ市の南東に隣接していいます。高層ビル群が立ち並び、フィリピンのビジネス首都と位置付けられているそうです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピン )
2番目の写真はサント・ニーニョ像を記念したサント・ニーニョ教会です。
出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/megurokeibujp/60274710.html です。
サントニーニョとは幼少のキリストという意味です。マゼランが持ち込み、セブのフアナ女王に贈ったというサント・ニーニョ像です。
3番目の写真はサント・ニーニョ教会の外部です。フィリピン最古の歴史を持つ教会です。
4番目の写真はサント・ニーニョ教会で祈るフィリピン人の姿です。
5番目の写真はイロイロ のモロ教会の風景です。
写真の出典は、https://tabisuke.arukikata.co.jp/album/18489?page=1 です。
尚セブ島に建てられたサント・ニーニョ教会では、1521年、マゼランの航海に同行していたスペイン人のドミニコ会修道士によってフィリピン人へ洗礼を授けました。
当時のセブ島領主であったフマボン王とその妻ファナ女王、そして王の家臣800人がフィリピン初のキリスト教徒として洗礼を受けました。これがフィリピン キリスト教の始まりです。
慶長19年(1614年)12月に、右近は内藤如安らと共にマニラに到着しました。
これが日本とフィリピンの交流の始まりと考えることが出来ます。
そこでフィリピンの15世紀以後の歴史を次のように4つの時期に分けて見てみましょう。
(1)1529年から1898年までのスペインの植民地時代
(2)1898年から1945年のアメリカの植民地時代
(3)1941年から1945年の日本軍の占領期
(4)1945以後の独立国の時代
上の各時代で最も長かったのは約400年にわたるスペインの統治時代でした。アジア諸国でスペインの統治を受けたのは唯一フィリピンだけだったのです。
その結果、フィリピンは南米諸国と同じカトリック国になったのです。社会も文化も南米の一つの国のようになったのです。アジアにはいろいろな国がありますがカトリック国はフィリピンだけなのです。
そして1941年から1945年の日本軍の占領期には日本はミャンマーとこのフィリピンだけの独立を認めたのです。
いろいろな事がありましたがフィリピンは終始一貫日本の友好国でした。
それではその歴史をもう少し詳しく見てみましょう。
(1)1529年から1898年までのスペインの植民地時代
(https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピン )
スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから来ました。
1521年、セブ島にマゼランが率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達します。
マゼランはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死しました。
1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有になったのです。
スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とし、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分がスペインの領土となったのです。
これ以降、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐ貿易が続きフィリピンが繁栄したのです。
そいして立派な教会が作られたのです。
スペイン人はローマ・カトリックの布教を進めたのです。
その結果、現在のフィリピンの社会や文化は南米諸国と同じようになっているのです。
(2)1998年から1945年のアメリカの植民地時代
フィリピンは米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡されたのです。
フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗した。
しかしその戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧されます。
その後、アメリカ合衆国議会は1916年にジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立します。
1934年アメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾しました。
(3)1941年から1945年の日本軍の占領期
第二次世界大戦中の1941年12月に日本軍がマニラ市に上陸します。
アメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退し、大日本帝国陸軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領したのです。
アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、大日本帝国も1943年5月に御前会議でフィリピンとビルマを独立させます。
その結果、1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立しました。
その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営します。
その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン独立派が再び権力を握ったのです。
第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊されました。
(4)1945以後の独立国の時代
今日はあまり長くなるので戦後の歴史は続編で書くことにします。
フィリピンの都市の風景や教会の写真をお送りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘
1番目の写真はマカティ市の風景です。マカティ市は首都メトロ・マニラの1市で、マニラ市の南東に隣接していいます。高層ビル群が立ち並び、フィリピンのビジネス首都と位置付けられているそうです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピン )
2番目の写真はサント・ニーニョ像を記念したサント・ニーニョ教会です。
出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/megurokeibujp/60274710.html です。
サントニーニョとは幼少のキリストという意味です。マゼランが持ち込み、セブのフアナ女王に贈ったというサント・ニーニョ像です。
3番目の写真はサント・ニーニョ教会の外部です。フィリピン最古の歴史を持つ教会です。
4番目の写真はサント・ニーニョ教会で祈るフィリピン人の姿です。
5番目の写真はイロイロ のモロ教会の風景です。
写真の出典は、https://tabisuke.arukikata.co.jp/album/18489?page=1 です。
尚セブ島に建てられたサント・ニーニョ教会では、1521年、マゼランの航海に同行していたスペイン人のドミニコ会修道士によってフィリピン人へ洗礼を授けました。
当時のセブ島領主であったフマボン王とその妻ファナ女王、そして王の家臣800人がフィリピン初のキリスト教徒として洗礼を受けました。これがフィリピン キリスト教の始まりです。