東京都は実に広いのです。西の端は檜原村という山村で南の端は海上遥か1000Kmの太平洋に浮かぶ小笠原諸島です。小笠原諸島は小笠原村になっており30余の島々があります。
私の住んでいる小金井市から檜原村へは車で2時間弱なので度々遊びに行きます。
しかし小笠原村は遠う過ぎます。
今日は小笠原村の港の風景と春の花々の写真をお送りします。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/小笠原諸島と、http://www.ogasawara-syokubutusi.com/tukinohana2.htm です。
1番目の写真は父島二見港に停泊中の「おがさわら丸」です。東京の竹芝桟橋と父島の二見港を結ぶ貨客船で二見港までは24時間かかります。
2番目の写真はカエンボクです。1~6月頃に咲きます。
3番目の写真はヒカンザクラです。この緋寒桜は2~3月上旬頃に咲きます。沖縄、中国南部、台湾原産の桜です。
4番目の写真はアマリリスです。3月頃に咲きます。
5番目の写真はゲットウです。3~6月頃に咲きます。
小笠原諸島は生物地理区の区分では日本で唯一オセアニア区に属してます。また大陸から隔絶していたため島の生物は独自の進化を遂げております。「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど貴重な動植物が多いのです。
小笠原村の島々には先史時代(1世紀頃)に人間が住んでいたようです。北硫黄島には1世紀頃のものとみられる石野遺跡があります。また父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されています。
しかしその以後はまったくの無人島でした。
その島を発見し人が移住するようになったのは江戸時代からです。
出来事を年代順に示します。
1593年(天正20年) - 信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼が伊豆諸島南方で3つの無人島を発見する。
1675年(延宝3年) - 漂流民の報告を元に、江戸幕府が松浦党の島谷市左衛門を小笠原諸島に派遣する。調査船富国寿丸は36日間にわたって島々の調査を行い、「此島大日本之内也」という碑を設置した。これらの調査結果は将軍をはじめ幕府上層部に披露され、これ以降小笠原諸島は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた。
1727年(享保12年) - 貞頼の子孫と称する浪人の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出る。「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。また小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである。
1880年(明治13年)10月8日 - 東京府の管轄となる。
1945年(昭和20年)2月19日~3月26日 - 小笠原諸島の硫黄島で日米の戦いが行われ、日本兵18,375名と米兵6,821名が戦死する。
1967年(昭和42年)11月16日 - 日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)により、小笠原諸島の日本への返還が決まる。
言語は欧米系住民が話していた英語やハワイ語の語彙と日本語八丈方言(八丈語)と日本語共通語が混合された独特の言語です。
民謡は伊豆諸島の系統を引く大和民族的なものと、南洋諸島に移住した島民などから伝えられたミクロネシア系民族の影響を受けたものが共存します。
食物には固有の植物や海産物が多く、ボニンコーヒー、海亀肉、島魚を使った焼き物・煮物・島寿司・味噌汁・ピーマカ(魚の酢漬け、ビネガーの転訛)、パッションフルーツ・マンゴー・パパイヤ・グァバなどを用いたデザートやリキュール、ダンプレン(ダンプリング、欧米系住民の食文化)などがあるそうです。
とにかく東京都の村と思えない南洋文化圏なのです。私は八丈島までは行きましたが小笠原諸島は伊豆諸島とは非常に違う風土と独特の文化を持っているようです。
是非行ってみたい所です。今迄行ったことのある方々から珍しい情報を頂けたら感謝いたします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)