後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「曾遊の地の雪景色(1)北国の思い出、小樽と『蟹工船』」 

2020年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム
曾遊の地とはかつて遊んだ土地という意味です。意味は単純ですがこの言い方は何故か文学の香りがします。
例えば岩手県の大船渡市には「石川啄木曾遊之地碑」というものがあり有名な観光名所になっています。
石川啄木は明治45年(1912年)に26歳の若さで死にました。啄木の妻節子、父一禎、友人の若山牧水に看取られました。肺結核でした。
石川啄木の死後、数々の作品が刊行され彼の文学作品の評価が非常に高まったのです。
次の詩は有名です。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣ぬれて
蟹とたはむる


この詩はとても長いのです。そしてこんなところもあります。

ダイナモの
重き唸りのここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし


ダイナモは「直流発電機」のことです。この詩の全文は、https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/816_15786.html にあります。

さて話はそれましたが今日から「曾遊の地の雪景色」と題する連載を始めたいと思います。
私があちこち旅をした土地の雪景色の写真をお送りしようという企画です。
方々へ旅行をしましたが寒がりやの私は雪の無い季節だけを選んで旅をしたのです。
そこでその曾遊の地の雪景色の写真を調べ、見つけて編集したのです。
第一回目は何度か訪れた小樽にしました。小樽は運河の町です。小林多喜二が「蟹工船」を書いた町です。暗く美しい町でした。
その雪景色の写真をお送りします。全ての写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。











小樽では小林多喜二が行っていた寿司屋に行きました。多喜二の本が沢山積まれていました。そこで
「蟹工船」を思い出していました。
「蟹工船」の冒頭です。
「おい地獄さ行えぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱かかえ込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。
巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。

 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫むしのように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。
風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。

 この蟹工船、博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥はげた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。

続きは、https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html にあります。

小林多喜二は30歳の若さで死にました。秋田県の農家に 1903年に生まれ、北海道小樽で育ちました。「蟹工船」などの作品により、日本のプロレタリア文学運動を代表する作家となったのです。1933年、地下活動中に逮捕され、東京・築地署で拷問により殺されました。

今日は「曾遊の地の雪景色」という連載の第一回として「北国の思い出、小樽と『蟹工船』」をお送りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)