昭和時代は1925年に始まり1989年、昭和64年に終わりました。昭和元年から昭和20年迄は暗い軍国主義の時代だったのです。
海軍将校による五・一五事件が起き、陸軍将校による二・二六事件が起き、やがて陸軍大将の東條 英機が総理大臣になり太平洋戦争を始めたのです。日本はアメリカ軍の徹底的な空襲により灰燼に帰しました。戦争犠牲者は310万人と言われています。
今日は連載の9番目として「昭和時代を考える(9)五・一五事件、二・二六事件、東條 英機」をお送り致します。
(1)五・一五事件
五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件でした。武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害しました。
大正時代に衆議院の第一党の党首が内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立したことで当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたのです。しかし1929年(昭和4年)の世界恐慌により企業倒産が相次いで社会不安が増していたいたのです。
海軍の戦艦数を制限する1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約に対し不満を持っていた海軍将校は若槻総理の襲撃を狙っていました。
立憲民政党(民政党)は選挙で大敗、若槻内閣は退陣し、総理大臣に犬養毅がなります。
この五・一五事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志でした。古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉西田税を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生も引き込んだのです。
昭和7年3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の料亭・山水閣で最終の計画が決定した。具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、そして総理大臣犬養毅を殺害しました。
1番目の写真は五・一五事件を伝える大阪朝日新聞です。
2番目の写真は総理大臣犬養毅のお葬式です。
首相官邸以外では次のような事件を起こしました。
内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などがを襲撃しましたが死亡者はありませんでした。
第一組の一部は首相官邸を襲撃した後、警視庁に乱入して窓ガラスを割るなどし、その後日本銀行に向かい車の中から日本銀行に手榴弾を投げ、敷石等に損傷を与ます。
第二組の古賀清志海軍中尉以下5人はタクシーに乗って内大臣官邸に向かい、午後5時27分頃に到着、これを襲撃し、門前の警察官1名を負傷させたが、牧野伸顕内大臣は無事でした。その後、第二組は警視庁に乱入、ピストルを乱射して逃走します。これにより居合わせた警視庁書記1人と新聞記者1人が負傷します。
第三組の中村義雄海軍中尉以下4人はタクシーに乗って立憲政友会本部に向かい、午後5時30分ごろに到着、玄関に向かって手榴弾を投げます。
第四組の奥田秀夫(明治大学予科生で血盟団の残党)は、午後7時20分頃に三菱銀行前に到着、ここに手榴弾を投げ込み爆発させ、外壁等に損傷を与えます。
別働隊の農民決死隊7名は、午後7時ごろに東京府下の変電所6ヶ所を襲ったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はありませんでした。
血盟団員の川崎長光は西田税方に向かい面会し、隙を見て拳銃を発射、西田に瀕死の重傷を負わせたのです。
その他、この五・一五事件の詳細は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご覧下さい。
(2)二・二六事件
二・二六事件は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件です。
陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校、旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)は、かねてから「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が終息すると考えていました。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起したのです。
決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介 内閣総理大臣、鈴木貫太郎 侍従長、斎藤實 内大臣、高橋是清 大蔵大臣、渡辺錠太郎 教育総監、牧野伸顕 前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処されます。
被害者は次の通りでした。
死亡
松尾伝蔵 (内閣嘱託、内閣総理大臣秘書官事務取扱・陸軍歩兵大佐)
高橋是清 (大蔵大臣)
斎藤 実 (内大臣)
渡辺錠太郎 (教育総監・陸軍大将)
警察官5名
重傷
鈴木貫太郎 (侍従長・海軍大将)
他警察官など負傷者数名
3番目の写真は叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官・兵です。
4番目の写真は叛乱軍将兵です。左手前は丹生誠忠陸軍歩兵中尉です。
5番目の写真は内務省庁舎前で歩哨線を張る叛乱軍兵士です。
この二・二六事件の詳細は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご覧下さい。
(3)東條 英機総理大臣の登場
東條 英機(1884年7月30日 - 1948年12月23日)は陸軍軍人、政治家、戦犯でした。階級は陸軍大将です。
軍人として陸軍次官、陸軍航空総監、陸軍大臣、参謀総長、政治家としては内閣総理大臣(第40代)、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣を歴任しました。第二次世界大戦後に極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑されました。
永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任しました。(東條内閣、在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。
在任中に太平洋戦争が開戦します。
権力強化を志向し複数の大臣を兼任し、1944年(昭和19年)2月からは慣例を破って陸軍大臣と参謀総長も兼任したのです。
日本降伏後に拳銃自殺を図りますが、連合国軍による治療により一命を取り留めたのです。
その後、連合国による東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴されます。1948年(昭和23年)に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)巣鴨拘置所で死刑執行されました。享年65(満64歳)でした。
1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとの間で太平洋戦争に突入し、間もなくアメリカとの間にも戦いを開始します。マレー作戦と真珠湾攻撃を成功させた日本軍はその後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内でその作戦区域を拡大します。なお、開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」としたのです。
6番目の写真は1941年(昭和16年)10月18日、東條内閣の閣僚らと撮った写真です。岸信介も右端にいます。
7番目の写真は大東亜会議に参加した各国首脳です。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボースです。
尚詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F をご覧下さい。
今日は五・一五事件、二・二六事件、東條 英機について説明しました。それにしても暗い時代でした。悪夢のような時代でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)