後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「分かったようで分からない密教の説明」

2020年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教の話を書きます。日本の密教とインドの密教の説明文を転写します。
私は自分で読んでみて分かったような気分になりましたが、さっぱり分からないのです。
皆様は如何でしょうか?これは当然で密教を言葉で説明することは不可能なのです。
それを理解するためには密教を信じ、その修行を何年も実践することが必要なのです。
ある宗教を理解するためにには2つのことが必要なのです。1、その宗教を信じる。2、その宗派の決める修行を何年か実践する。
それはそうですが、以下の密教の説明をご覧下さい。

(1)日本の密教、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99
密教とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。

「かつての日本では、密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した天台宗での台密を指したが、インドやチベットにおける同種の仏教思想の存在が認知・紹介されるに伴い、現代ではそれらも合わせて密教と総称するようになっている。今日の仏教学は一般に密教を「後期大乗」に含めるが、後期大乗と密教とを区別しようとする立場もある。江戸後期の日本で確立した分類である雑密・純密をそれぞれ大まかにインド密教の前期・中期に対応させることが多い。・・・」

日本の密教
「日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、唐から帰国した伝教大師最澄によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。」

よって、本格的に日本で紹介されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が806年に日本に帰国してからであるとされる。 あるいは、空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行、円仁(慈覚大師)、恵運、円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げられることがある。・・・」

密教の宗派
「日本の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗(即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗の継承する密教が日本密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。真言宗の密教は東密と呼ばれ、日本天台宗の密教は台密とも呼ばれる。東密とは「東寺(教王護国寺)の密教」、台密は「天台宗の密教」の意味である。この体系的に請来されて完成された東密、台密を純密(じゅんみつ)というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された奈良時代に見る密教を雑密(ぞうみつ)という。」

日本の密教は、空海、最澄以前から存在した霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなった。各地の寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。

1番目の写真は熊野で修行中の山伏です。日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなる。

(2)インドの密教、https://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/08.html
ブッダは呪術をはじめとするバラモンの宗教儀礼を否定し、初期の仏教教団も基本的に、その態度を引き継いだ。しかし、四世紀以降、グプタ王朝に保護されたバラモン教の勢力が、土着の習俗や儀礼を包摂しつつ伸張すると、その影響を受けて儀礼や祭式が大乗経典の中に流入するようになった。火を燃やして祈祷をする護摩(ホーマ)もそのうちの一つである。

2番目の写真はインド大乗仏教と密教の展開を示す図です。
 仏教の中に流入したバラモン教的要素、土着習俗的要素に仏教的な意味を付加し、大乗仏教の中に体系的に位置づけたのが、七世紀頃に登場した『大日経』『金剛頂経』などである。これらの経典は、宗教儀礼や呪法などを仏教教理と関連づけて説明し、その目的を現世利益から成仏へと転換し、バラモン教やヒンドゥー教の神々を、仏(大日如来、大毘盧遮那仏)を中心とする世界に組み入れていった。こうして形成された大乗仏教の一つの形態を、密教(秘密の教え)と呼ぶ。密教の実践は、神秘的な体験に基盤を置いており、正確に理解されるのは困難である。そのため、師匠は、念入りに弟子の状態を見極め、受け継ぐべき境地に達した弟子に、秘密裏に教えの心髄を伝授するのである。

曼荼羅を用いた修行
 初期の大乗仏教の出家者・在家信者は、ブッダの修行中の姿である菩薩に自らを重ね合わせ、輪廻を繰り返して六波羅蜜などを実践し、ブッダになることを目指していた。それに対して、密教では完成されたブッダに自らを重ね合わせることによって、修行の時間を短縮し、究極的には即身成仏、つまり現在世においてブッダになることを目指すようになった。

 具体的には手で印契(特定の手の型や動き)を結び、口に真言(真理を表す秘密の言葉)を唱え、精神集中を行うという三密の修行がなされた。これは、ブッダと同じ姿勢で、同じ言葉を発し、同じ心をもつことを意味する。

3番目の写真は古代インドのバラモン教の神々です。それが転じて仏教の守護神となった。ネパール、カトマンズ東方の世界遺産、バクタプールで。写真 田村 仁
 行者は精神集中の際に曼荼羅を観想する。曼荼羅とは、仏、菩薩、明王などの諸尊が集う仏の世界を表したもので、いくつかのタイプがあるが、『大日経』による胎蔵界曼荼羅と『金剛頂経』による金剛界曼荼羅が有名である。また、曼荼羅は実際に図像として描かれ、種々の儀礼に用いられる。インドでは、清浄な泥土で壇を築き、表層に白土を塗り、諸尊を描き、一連の修法が終わると破壊するのが通例であった。

 しかし、仏教がインド以外の地に伝播する中で、布や紙などに描く形式のものが一般的になった。

 八世紀後半以降、後期密教の段階に入ると、「タントラ」と呼ばれる経典が現れるようになった。それらは、密教の実践・教理の極端化をすすめ、しばしば性的要素を含む実践法をも説いた。女性が「般若(智慧)」、男性が「方便(慈悲に基づく救済手段)」を象徴し、男女が合一した状態が「悟り」を象徴すると考えたのである。

 こうした後期密教の教えは、東アジアには本格的に伝えられなかったが、チベット仏教の形成には大きな影響を与えている。(文・鈴木健太◎東京大学大学院博士課程)

以上では分かったようで分からない密教の説明をお送りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)