後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「クリスマスの昼間のミサに出ました」

2020年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
クリスマスのミサは24日の夕方と夜半と真夜中と25日の昼間にあります。今年は「クリスマスの昼間のミサに出ました。
しかし一番感動的なミサは24日の夜半のミサです。
そこで東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会での「主の降誕・夜半ミサ」の動画配信のURLをお送りいたします。https://www.youtube.com/watch?v=MQm1Lx7RjZg です。ちょっとでもこの24日の夜半のミサをご覧下さい。

次にクリスマスの聖歌のYou Tubeもお送りします。
フランク・シナトラなどによる有名なクリスマスソング、https://www.udiscovermusic.jp/playlists/best-frank-sinatra-christmas-songs
クリスマスソングメドレー、https://www.youtube.com/watch?v=Kh-6_au3_TA
クリスマスソングメドレー(6曲8分)子供向け英語童謡、https://www.youtube.com/watch?v=NpMTtPsFE08

最後に今日のカトリック小金井教会での25日の昼間のミサの写真をお送りします。









さてイエスはどのように生まれたでしょうか?
イエスの降誕は『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』のみに書かれています。それによれば、イエスはユダヤの町ベツレヘムで、処女マリアのもとに生まれたのです。
『マタイ』では、ヨセフとマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は書いてありませんが、『ルカ』の場合は、住民登録のためにマリアとともに先祖の町ベツレヘムへ行き、そこでイエスが生まれたと書いてあります。ベツレヘムは古代イスラエルの王ダヴィデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言が『ミカ書』5:1に書いてあったのです。

『ルカ』では、ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、馬小屋に泊まり、イエスを飼い葉桶に寝かせますそのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れるのです。
また『マタイ』では、東方の三博士が星に導かれてイエスを礼拝しに来たことも書いてあるのです。

「曾遊の地の雪景色(7)雪の日の善光寺」

2020年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
善光さんが建立した善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の素朴な信仰だけで存続してきたお寺です。その素朴な信仰の雰囲気に魅了されて何度も長野市を訪れました。長野駅から真っ直ぐに伸びた大通りの先にあります。嗚呼、この町は善光寺のおかげで出来た町だと納得します。
善光寺に行ったのは何時も雪の無い季節でした。
そこで今日は曾遊の地の善光寺の雪の日の写真をお送りいたします。

1番目の写真は雪の夜の善光寺です。写真の出典は、https://mstdn.tokyocameraclub.com/@sigmist810/101190669478412063 です。

2番目の写真は朝早く御朝事から帰る大僧正様の姿です。写真の出典は、http://yamataikoku.naganoblog.jp/e673512.html です。

3番目の写真は善光寺の三重塔です。写真の出典は、http://www.imamiya.jp/haruhanakyoko/she/fuyutabi2019b/photograph13.htm です。

4番目の写真は雪の善光寺六地蔵です。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25184012610 です。

5番目の写真は雪の日の善光寺の参道です。写真の出典は、https://4travel.jp/travelogue/10972318 です。

さて善光さんが建てた善光寺は現在三つあります。長野県の飯田市と長野市と山梨県の甲府市にあるのです。私は何故か善光寺が好きなのでこれら三つの善光寺には全てお参りしました。
そして知った善光寺の歴史をかいつまんでご紹介します。
今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいたのです。
善光さんは国司に仕える有力者でした。ですから国司が大和に帰る時に送っていきます。そして現在の大阪の難波の堀の中から一光三尊の像を見つけて、それを拾い上げます。そして信州麻績の里に持ち帰ったのです。
自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝き出したのです。それで善光さんは座光寺(善光寺)を作ったと言い伝えられています。それが推古天皇の10年でした。
それから41年ほどして皇極天皇元年に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野市に善光寺を作りました。
移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させました。そのような経緯から、飯田市の座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになったのです。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると信じられています。

簡略に言えば、善光さんが偶然、難波の堀から拾ってきた仏像で座光寺を作った。人々はその寺を善光さんが作ったので善光寺と呼んだ。ところが41年後、勅命によって善光寺は現在の長野市へ引越ししてしまった。残った寺には以前と同じ形の木像を祀り、元善光寺と呼ぶようになった。(現在はその付近の地名を座光寺という)
さて甲府市にも立派な本堂を誇る善光寺があります。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約800年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものです。しかし、武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返されてしまったのです。
甲府の善光寺誕生の経緯はあまり自慢に出来ないようなことではありましたが、甲州の人々の仏様を信仰する篤い気持ちによって甲府の善光寺も立派に存続しています。三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。

三つの善光寺を廻り終わって、色々な感慨を持ちます。その一つは素朴な信仰心の美しさが三つの善光寺を支えてきたということです。善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。そういうお寺もあるのです。

今日は曾遊の地の善光寺の雪の日の写真をお送りいたしました。そして現在飯田市と長野市と甲府市にある3つの善光寺の関係を説明いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)