後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、暮れの深大寺の風景写真を撮りに行く」

2020年12月28日 | 日記
東京の西の郊外にある深大寺は733年に創建されました。天台宗別格本山のお寺です。
今日は快晴で暖かい日和でしたので午後から写真を撮りに行きました。
このお寺には三つの重要なお堂があります。「深沙大王堂」と「元三大師堂」と「阿弥陀如来が本尊の本堂」です。
5枚の写真をお送りします。順々に、1本堂、2おみくじ売り場、3元三大師堂、4深沙大王堂、そして5門前蕎麦屋の写真です。









門前蕎麦で有名な調布市の深大寺は東京都では浅草寺につぐ古いお寺です。733年に満功上人によって創建されました。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。
関東地方に比叡山の慈恵大師すなわち元三大師の信仰があるのは珍しいのです。深大寺はその意味で特別な古刹なのです。そこで深大寺の詳しい歴史を末尾に加えておきました。
ご興味のある方はお読み下さい。
今日の深大寺は暖かい陽が射し、人々が静かにお参りしていました。
門前の蕎麦屋では出来立ての饅頭に人が群がっていました。平和な暮れの風景です。
写真を家内が撮っている間私はぼんやり暮れのお寺の風景を眺めていました。
今日は師走の28日です。あと3日で2020年が終わるのです。感慨にふけりながら車をゆっくり運転して帰って来ました。

皆々様よい新年をお迎えください。

===参考資料==========================
「深大寺の創建とその後の歴史」
深大寺を創建した満功上人は玄奘三蔵法師の弟子がはじめた法相宗を学び、法師を深く尊敬していました。三蔵法師がインドへ旅した途中、西域の大河、流砂河を渡るときその河の砂の中に住む水神の深沙大王に助けられました。その経緯から満功上人はお寺の名前を深大寺として、650年には深沙大王の像を安置しました。現在は「深沙大王堂」に祀ってあります。
その後、750年頃、このお寺は天台宗に変わります。その関係で、991年には天台座主、元三慈恵大師の像を本尊にし、以後、江戸、明治、現在に至るまで元三大師堂は人々の信仰を集めています。
ですから元三大師堂は深大寺で非常に大切なお堂でした。

現在の深大寺の本堂は元三大師堂の右側にあります。それは江戸時代からあったものを大正時代に建てかえたものです。
深大寺の寺領は現在の神代植物公園も含めて広大であったといいます。多数の小作人を擁し、寺領の畑には蕎麦を栽培して来ました。江戸時代は代代の将軍へソバを献上し、元三大師堂への参拝客相手のソバ屋が多数あったと伝えられています。現在も参道にはソバ屋が並んでいます。

さてもう少し詳しい歴史を加えておきます。
深大寺の歴史の中で重要なことを、https://www.jindaiji.or.jp/about/ から示します。

(1)天台の法流を汲み、東国第一の台密道場へ
平安時代、清和天皇の貞観年中(八六〇年頃)、武蔵の国司蔵宗が反乱を起こし、この降伏を祈念するために、修験の達者である比叡山の恵亮和尚が勅命をうけ東国に下りました。特に恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により清和天皇は、近隣七ヶ村を深大寺に寄せられ、寺を恵亮和尚に賜りました。

(2)比叡山より「元三大師自刻像」を迎える
正暦二年(九九一年)第十八代天台座主、慈恵大師すなわち元三大師の自刻像が、大師の高弟である慈忍和尚、恵心僧都両師の意を受けた寛印により遥か叡岳より深大寺に遷座されました。

(3)「元三大師信仰」大いに振るう
徳川期、深大寺の元三大師出開帳が明和二年(一七六五)七月と文化十三年(一八一六)六月の二回、両国の回向院(えこういん)で執行されています。江戸時代まで元三大師堂へ参拝するのが重要だったのです。

(4)銅造釈迦如来像(白鳳仏)の鑑定と国宝指定
像高 83.9㎝のこの釈迦如来像は明治42年(1909)に飛鳥時代7世紀~8世紀初と鑑定されました。そして大正2年に国宝指定となったのです。寺院伝来の仏像としては都内寺院唯一で東日本最古の国宝仏なのです。