私の住んでいる小金井市は武蔵野にあります。そしてこの地域は多摩地域と呼ばれています。
武蔵野の範囲はあいまいです。
その範囲について明確な定義はありませんが広辞苑によれば「埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域」と書いてあります。川越市は埼玉県の南部にあります。ですから武蔵野は埼玉県の南部から東京の郊外を意味するようです。都心は含まれないようです。
しかし正確な範囲は何処にも書いてありません。武蔵野の範囲はあいまいなのです。
一方これに対して多摩地域の範囲は明確に決まっています。
多摩地域は、平安時代から幕末まで1,000年以上にわたって「武蔵国多摩郡」でした。
そして明治時代に現在の東京都の前身に当たる「東京府」に属する地域が「東多摩郡」、それ以外の地域が「西多摩郡」「南多摩郡」「北多摩郡」(いわゆる三多摩)となったのです。
ですから多摩地域とは一般的に、東京都の西側に位置するエリアのことを指します。
それはそれとして、としてこの多摩地域を主な営業範囲にしている金融機関に多摩信用金庫というものがあります。
この多摩信用金庫は多摩地域の絵画芸術の振興にも努力して来ました。そして「たましん美術館」を運営しています。この美術館は多摩地域在住の画家の作品を多数収蔵しています。
今回以下のような特別展覧会を開催することになりましたのでご案内いたします。
================================~=====
たましん美術館特別展覧会『足跡』のご案内
立川駅の南口にある、たましん美術館は特別展覧会『足跡』を1月9日から2月7日まで開催しますのでご案内申し上げます。
展示される絵画は飛永頼節の抽象画など20名の多摩地域の画家の作品です。
詳しくは、「開館記念展Ⅲ足跡1974‑2020—所蔵品と新作から見える多摩の美術—Act. 2」、https://www.tamashin.or.jp/post/sokuseki をご覧ください。
たましん美術館は〒190-8681 東京都立川市緑町3-4多摩信用金庫本店1階にあります。
参考資料として、「飛永頼節の抽象画の世界、その多様な構図と色彩の美しさ」を再録しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============================
「飛永頼節の抽象画の世界、その多様な構図と色彩の美しさ」
2020年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
飛永頼節さんは最近知り合った抽象画の画家です。お話を聞きどうしても絵が見たくなりました。そうしたらご自分の画集を一冊下さいました。1927年生まれですが、とてもお元気で現在も描いておいでです。
数十枚の抽象画を見て感動を覚えました。構図が面白く澄んだ色彩が美しいのです。
私は大胆に数十枚の抽象画を2つのグループに分類しました。若いころの情熱に溢れた華やかな絵画と老境に描いた鎮魂を主題にした一群の「レクエム」と題した絵画です。原爆で亡くなった人々の鎮魂を祈る絵画です。
そこで2つに分類した絵画を2つの記事としてご紹介したいと思います。今日は若いころの情熱に溢れた華やかな絵画です。
前置きはこれぐらいにして、さっそく5枚の絵画をお送りいたします。
1番目の写真は「聖母子(2)」です。1979年作のアクリル・キャンバスで91cmx72.5cmの大きさです。
飛永頼節さんは長崎県生まれでキリシタン文化を背負っているのでしょう。飛永頼節さんの父上は五島列島の警察署長でした。先祖は隠れキリシタンの島に住んでいたようです。
2番目の写真は「いのち(1)」です。1985年作のアクリル・キャンバスで116.5cmx91cmの大きさです。
3番目の写真は「或る晴れた日に(1)」です。1986年作のアクリル・キャンバスで162cmx130.5cmの大作です。
4番目の写真は「燃える大地」です。1989年作のアクリル・ペンキ・紙で62.2cmx46.4cmの大きさです。飛永頼節さんは長崎で原爆に被爆しました。生き延びましたが街の惨状が心に焼き付いているようです。
5番目の写真は「鳥」です。1997年作のアクリル・紙で26cmx26cmの大きさです。
ここに示した絵画は5番目の「鳥」以外大きな作品です。私は絵画の写真を見る時、原作の大きさを考え、原作の迫力と美しさを想像しまます。今回もそのように見ると飛永頼節さんが精魂込めて描いている様子が目に見えるようです。
それはさておき最後に飛永頼節の略歴を示しおきまずす。
1927 長崎生まれ、1945 長崎にて被爆、1953 行動美術研究所に学ぶ。
現在はTama Artist and Citizen Netに所属している。
主な個展 や展覧会は以下の通りです。
1961〜'63年、読売アンデパンダン展(東京都美術館)
1962 〜'64年、集団α展(東京・第一画廊、京都・青銅画廊 吉仲太造・末松正樹等と)
1965年、日本、今日の美術展(東京・村松画廊 アートクラブ・代表岡本太郎)
1970年、日本の肖像展、ミニモニュマン展(東京・サトウ画廊)
1971年、自然、人間拡張への反証展(東京・サトウ画廊)
1975年、第1回東京展(東京都美術館)
1976年、今日の<空間>展(横浜市民ギャラリー・横浜市主催)
1977〜'82年、コンフリュアント展(横浜市民ギャラリー・横浜市主催)
1979年、日本現代美術の20人展(立川・伊勢丹 - コミッショナー山本太郎・野村太郎)
1984〜'96年、ポイントナウ展(横浜市民ギャラリー)
1994〜'05年、TAC(多摩現代美術家会議)展
受賞は2005年、藝術出版社主催、第11回美奄大賞展にて大賞受賞
今日は飛永頼節さんの若いころの情熱に溢れた華やかな抽象画を5枚ご紹介いたしました。続編では鎮魂を主題にした一群の「レクエム」と題した絵画をご紹介する予定です。
その続きは次のとうりです。
「飛永頼節の抽象画の世界、原爆死者への鎮魂のための絵画群」
2020年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
武蔵野の範囲はあいまいです。
その範囲について明確な定義はありませんが広辞苑によれば「埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域」と書いてあります。川越市は埼玉県の南部にあります。ですから武蔵野は埼玉県の南部から東京の郊外を意味するようです。都心は含まれないようです。
しかし正確な範囲は何処にも書いてありません。武蔵野の範囲はあいまいなのです。
一方これに対して多摩地域の範囲は明確に決まっています。
多摩地域は、平安時代から幕末まで1,000年以上にわたって「武蔵国多摩郡」でした。
そして明治時代に現在の東京都の前身に当たる「東京府」に属する地域が「東多摩郡」、それ以外の地域が「西多摩郡」「南多摩郡」「北多摩郡」(いわゆる三多摩)となったのです。
ですから多摩地域とは一般的に、東京都の西側に位置するエリアのことを指します。
それはそれとして、としてこの多摩地域を主な営業範囲にしている金融機関に多摩信用金庫というものがあります。
この多摩信用金庫は多摩地域の絵画芸術の振興にも努力して来ました。そして「たましん美術館」を運営しています。この美術館は多摩地域在住の画家の作品を多数収蔵しています。
今回以下のような特別展覧会を開催することになりましたのでご案内いたします。
================================~=====
たましん美術館特別展覧会『足跡』のご案内
立川駅の南口にある、たましん美術館は特別展覧会『足跡』を1月9日から2月7日まで開催しますのでご案内申し上げます。
展示される絵画は飛永頼節の抽象画など20名の多摩地域の画家の作品です。
詳しくは、「開館記念展Ⅲ足跡1974‑2020—所蔵品と新作から見える多摩の美術—Act. 2」、https://www.tamashin.or.jp/post/sokuseki をご覧ください。
たましん美術館は〒190-8681 東京都立川市緑町3-4多摩信用金庫本店1階にあります。
参考資料として、「飛永頼節の抽象画の世界、その多様な構図と色彩の美しさ」を再録しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============================
「飛永頼節の抽象画の世界、その多様な構図と色彩の美しさ」
2020年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
飛永頼節さんは最近知り合った抽象画の画家です。お話を聞きどうしても絵が見たくなりました。そうしたらご自分の画集を一冊下さいました。1927年生まれですが、とてもお元気で現在も描いておいでです。
数十枚の抽象画を見て感動を覚えました。構図が面白く澄んだ色彩が美しいのです。
私は大胆に数十枚の抽象画を2つのグループに分類しました。若いころの情熱に溢れた華やかな絵画と老境に描いた鎮魂を主題にした一群の「レクエム」と題した絵画です。原爆で亡くなった人々の鎮魂を祈る絵画です。
そこで2つに分類した絵画を2つの記事としてご紹介したいと思います。今日は若いころの情熱に溢れた華やかな絵画です。
前置きはこれぐらいにして、さっそく5枚の絵画をお送りいたします。
1番目の写真は「聖母子(2)」です。1979年作のアクリル・キャンバスで91cmx72.5cmの大きさです。
飛永頼節さんは長崎県生まれでキリシタン文化を背負っているのでしょう。飛永頼節さんの父上は五島列島の警察署長でした。先祖は隠れキリシタンの島に住んでいたようです。
2番目の写真は「いのち(1)」です。1985年作のアクリル・キャンバスで116.5cmx91cmの大きさです。
3番目の写真は「或る晴れた日に(1)」です。1986年作のアクリル・キャンバスで162cmx130.5cmの大作です。
4番目の写真は「燃える大地」です。1989年作のアクリル・ペンキ・紙で62.2cmx46.4cmの大きさです。飛永頼節さんは長崎で原爆に被爆しました。生き延びましたが街の惨状が心に焼き付いているようです。
5番目の写真は「鳥」です。1997年作のアクリル・紙で26cmx26cmの大きさです。
ここに示した絵画は5番目の「鳥」以外大きな作品です。私は絵画の写真を見る時、原作の大きさを考え、原作の迫力と美しさを想像しまます。今回もそのように見ると飛永頼節さんが精魂込めて描いている様子が目に見えるようです。
それはさておき最後に飛永頼節の略歴を示しおきまずす。
1927 長崎生まれ、1945 長崎にて被爆、1953 行動美術研究所に学ぶ。
現在はTama Artist and Citizen Netに所属している。
主な個展 や展覧会は以下の通りです。
1961〜'63年、読売アンデパンダン展(東京都美術館)
1962 〜'64年、集団α展(東京・第一画廊、京都・青銅画廊 吉仲太造・末松正樹等と)
1965年、日本、今日の美術展(東京・村松画廊 アートクラブ・代表岡本太郎)
1970年、日本の肖像展、ミニモニュマン展(東京・サトウ画廊)
1971年、自然、人間拡張への反証展(東京・サトウ画廊)
1975年、第1回東京展(東京都美術館)
1976年、今日の<空間>展(横浜市民ギャラリー・横浜市主催)
1977〜'82年、コンフリュアント展(横浜市民ギャラリー・横浜市主催)
1979年、日本現代美術の20人展(立川・伊勢丹 - コミッショナー山本太郎・野村太郎)
1984〜'96年、ポイントナウ展(横浜市民ギャラリー)
1994〜'05年、TAC(多摩現代美術家会議)展
受賞は2005年、藝術出版社主催、第11回美奄大賞展にて大賞受賞
今日は飛永頼節さんの若いころの情熱に溢れた華やかな抽象画を5枚ご紹介いたしました。続編では鎮魂を主題にした一群の「レクエム」と題した絵画をご紹介する予定です。
その続きは次のとうりです。
「飛永頼節の抽象画の世界、原爆死者への鎮魂のための絵画群」
2020年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム