後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ロダンと荻原碌山」

2021年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
信州、安曇野に彫刻家、荻原碌山の美術館があります。以前に訪問し感動しました。
碌山は明治12年安曇郡東穂高村に生まれ30歳で結核で死にました。相馬愛蔵・黒光の店である新宿中村屋で亡くなったのです。

碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入したのです。その功績を忘れるべきではありません。
明治維新以後にいろいろな分野で起きた東西の文化の衝突と融合を考えながら客のほとんどいない静かな美術館を歩みながら考えました。
荻原碌山はニューヨークに住みながらパリにも滞在しました。そこでロダンの彫刻を見て感動し、自分でもブロンズ像を作り始めます。
その前に彼の日本での生活を見てみましょう。
1879年(明治12年)に長野県南安曇郡東穂高村に5人兄弟の末っ子として生まれます。
少年の頃にキリスト教に接し、安曇野で断酒会に入会します。洗礼も受けたのです。
この経験が西洋へ目を向けるきっかけになったと考えられます。
明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
彼はパリで西洋文化の彫刻の魅力を身をもって理解したのです。これこそが東洋と西洋の融合の一例ではないでしょうか?
1908年(明治41年)に帰国し、新宿にて彫刻家として活動を始めます。
そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。しかし第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。
荻原碌山は30歳の若さでこの世を去りましたが、日本では生前から高く評価され、文部省主催の『文展』にも何度も彫刻を出展したのです。西洋の彫刻の魅力を紹介したのです。このお陰で日本でも数多くの西洋流の彫刻家が育って来たのです。
さてロダンと碌山の彫刻の違いは何でしょうか?
ロダンの彫刻は上野の西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館にあります。
そのロダンと碌山の違いを私個人の感じで言えばロダンは力強く自分の哲学を主張しています。西洋人の特徴の自己主張が強いのです。
しかし碌山の彫刻は内省的、繊細で東洋的な美しさを感じさせます。
例えば代表作の『女』は両手を後ろに回し縛られているように見えます。顔は天を仰ぎ悲し気です。体のフォルムは東洋の女です。何故か女の悲しみが感じられるのです。
ロダンの力強い自己主張を真似た「文覚」や「労働者」という作品もありますがロダンほど力に溢れていません。
ですから荻原碌山は彼の独創性で西洋と東洋の文化の融合を示したのです。
そんなことを考えさせる信州、安曇野の碌山美術館です。
写真で碌山美術館の様子を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は蔦の覆われた碌山美術館の様子です。

2番目の写真は明治42年の第三回文展に出展した「労働者」です。

3番目の写真は碌山美術館の内部の様子です。

4番目の写真は遺作で明治43年の第四回文展で文部省が買い上げた「女」です。

5番目の写真は荻原碌山です。

「西洋の彫刻は見ていると何故か感動する」

2021年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
西洋の彫刻は見ているといつも感動します。何故感動するのか説明出来ません。
時々見て感動したくなります。
そこで今日は箱根彫刻の森美術館と上野の西洋美術館の松方コレクションから西洋の彫刻の優れた作品の写真をお送りいたします。
はじめに箱根彫刻の森美術館ある彫刻の写真を6枚示します。箱根彫刻の森美術館には特にヘンリー・ムーアとメダルト・ロッソの彫刻が数が多く蒐集してあります。
強羅のなだらかな斜面にゆったりと展示してあるので新鮮な山の空気を吸い散歩しながら彫刻群を楽しめるめるのです。箱根に行ったら必ずのように寄る所です。
6枚の写真は、http://www.hakone-oam.or.jp/ から写真をお借りしました。

1番目の写真はオシップ・ザッキン(1890年 - 1967年)の「住まい」です。

2番目の写真はヘンリー・ムーア(1898年- 1986年)の「横たわる像:アーチ状の足」1969-70年制作、 ブロンズ です。

3番目の写真はアリスティド・マイヨール(フランス 1861-1944)の「とらわれのアクション」1906年制作、ブロンズ、213×104×95cmです。

4番目の写真は、後藤良二(日本1951-)の「交叉する空間構造」1978年、強化プラスティック、鉄、塗料、530×943×275cm です。

5番目の写真は、カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ 1875-1955)の「人とペガサス」1949年、ブロンズ、250×336×140cm です。

6番目の写真はメダルト・ロッソの「病院の病める男」( 1889) です。1858年 トリノに生まれ、1928年に ミラノで亡くなりました。
彼はイタリアの彫刻家で、ミラノのブレラ美術学校で絵画を学び,のち彫刻に転じた人です。 1884年パリに出て J.ダルーのもとで制作し、ロダンやドガと知合い,印象派風の代表的彫刻家の一人となり,思いに沈む婦人や病気の子供らの像を好んで制作しました。

次に上野の西洋美術館松方コレクションから4枚の写真を示します。
松方コレクションには48点ものオーギュスト・ロダン(1840-1917)のブロンズ彫刻があります。しかもそれらはロダンの代表作を網羅しているのです。野外の前庭と展示室の第一室にあります。
今日は野外展示のロダンの3点とブールデルの弓を引くヘラクレス像をご紹介いたします。
なお松方コレクションの全ての絵画とその題目や制作年は、https://www.google.com/…/the-national-museum-of-western-art… にあります。

7番目の写真はロダンの「地獄の門」(1880-1917年制作)です。

8番目の写真はロダンの「カレーの市民」(1884-2188年制作)です。

9番目の写真はロダンの「考える人」(1902-1903年制作)です。

10番目の写真はE.A.ブールデル作(1909年制作)の「弓を引くヘラクレス」です。
力強さ、逞しさ、人の体の美しさを表現した芸術家たちの作品に会えることで大きな幸せを感じます。

皆様が感動をもって今日もお元気にお過ごしなられるようにお祈りいたします。  後藤和弘(藤山杜人)