後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「コロナで孤独に死んだ修行僧、望月崇英と泣き崩れる少女」

2021年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
銀座で托鉢しながら東日本大震災の犠牲者を弔い続けていた修行僧、望月崇英が新型コロナで突然死にました。死ぬ時、家族や親族がいない孤独な死でした。この僧侶、望月崇英は銀座で悩める人々の相談にのり失意の人々を勇気づけていたのです。そんな人々の中に一人の少女がいました。
今日はまずこの少女の母親から貰った投書をご紹介します。投書は私が書いた、「ある修業僧へ送る梅の花の和歌と写真」(2021年01月20日掲載)という望月崇英師の追悼記事のコメントとして送られて来たものです。
===ほうげつ志音さんからのコメント(2021年1月23 日)======================
いま10歳の娘の志音は毎週お坊様、望月崇英師にお会いしたくて銀座へ参っておりました。
望月崇英師とは娘が2歳頃の時に知り合いました。そして漸く昨年互いに連絡先を交わし、さていよいよこれからもっとずっと御縁を... と思っておりました。
そんな矢先に御闘病中であられることを知り、そしてその後すぐにご臨終と伺いました。
娘は悲嘆のあまり泣き崩れしました。気が違えたと思うほど声を出して「絶対にイヤだ!」と泣きしました。
お坊様の背景を何も尋ねなかったことを私は居た堪れないほど後悔しています。
もっと早くこのブログの記事を存じ上げていたになら娘共々生活をもっともっと切り詰めて少しでも望月崇英師のためにお役に立てたと思います。悔やんでおります。
志音は本日、銀座和光の一角へ参って、そこでもかける声もないほどずっと泣いておりました。手袋を外して傘も畳んでずっと手を合わせておりました。
志音には、「命に長いも短いもなく、どれだけ心を込めて生きようとしたか」と伝えました。
このお坊様のことを少し詳しく教えて下さったこのブログ記事に心より感謝申し上げます。勝手ながらこの記事を印刷させていただきました。お坊様と一緒に写った写真数枚と共に志音の宝箱へ収めたく存じます。 ありがとうございました。心より深く感謝申し上げます。(終わり)

母親の娘の志音さんへ対する暖かい愛情が胸を打ちます。素晴らしい母親です。
そして志音さんがの仲良しだったお坊さんの死を悲しみ泣き崩れる場面に感銘を受けます。志音さんは他人の愛が分る情感豊かな少女です。嗚呼、この人は一生幸せな人生を送る人だと思いました。確信しました。この母娘に幸せ多かれと祈ります。

以下に望月崇英師の死を伝える東京新聞の2021年1月23日 の記事を転載いたします。
「銀座で托鉢 震災犠牲者を弔い続けた僧侶 新型コロナで突然の死 <あの日から・東日本大震災10年>」
 東京・銀座で托鉢たくはつを続け、東日本大震災の被災地で死者を弔い続けた一人の僧侶が、新型コロナウイルス感染症で亡くなった。66歳。「まだ、どこからか現れそうだけど―」。その精力的に動く姿を知る人は、突然の死に衝撃を受けている。

1番目の写真は2012年3月11日本紙朝刊1面に掲載された写真です。望月崇英さんは仙台市の海岸で波に向かって祈っていた=同年3月4日撮影
【関連記事】祈りの僧侶、都心の街角で托鉢(2012年4月6日東京新聞朝刊記事を再掲)
◆月に1度は被災地で
 銀座・和光本館前の地下鉄出入り口の外壁。「この場所に立ち続けたとても優しく、美しい人 僧侶崇英、2021年1月18日永眠」と紙に記されている。その下には花束。亡くなった望月崇英さん=世田谷区=はここで托鉢を続けた。
 「銀座に立って半年ほどで東日本大震災。しばらくは毎週、被災地で弔いをしていた。最近も月1回は訪ねていた」。友人の白井糺ただしさん(73)=同区=は振り返る。仙台市の海岸で祈る姿は、震災から1年の12年3月11日の東京新聞1面に掲載された。

2番目の写真は托鉢僧の姿の望月崇英さんです。立っていた場所は銀座・和光本館前です。
◆根津甚八さんと釣り仲間
 変化に富む生涯だった。都内の私立高を卒業、ミュージシャンを目指しニューヨークへ。夢かなわず、日本人歌手のレコーディング場所を探したり、日本向けに古着を買い付けたりと約20年、米国で暮らした。
 帰国後は、バイク冒険家の風間深志しんじさん(70)=東京都小平市=の助手として、南極大陸でのベースキャンプ設営やパリ・ダカール・ラリーを経験。その後、アルバイト先の古着店で知り合った僧侶に促されて高野山で修行、僧籍を得た。

3番目の写真は昨年秋、冒険家の風間深志さん(左)と友人の白井糺さん(右)と写真に収まった望月崇英さん(中)です。
 風間さんは「僧侶になると聞いた時は驚いた。人の苦しみを救い、生きがいのある生活を目指したのだろう」と話す。托鉢僧として生きる決意だった。
 高校時代から一緒に銀座のディスコで遊んだという友人・高田顕治さん(67)=豊島区=は「托鉢をするなら、昔なじみの銀座の真ん中、和光前と彼は決めた」と明かす。朝、高田さんの焼き鳥店で配達弁当を作った後、正午から4時間、般若心経を唱えた。夏は足袋まで汗でぬらし、冬は使い捨てカイロを何枚も貼って耐えた。その場で悩みごとの相談にも応じた。
 一人暮らしで、山登りや釣りが好き。16年に亡くなった俳優根津甚八さんとも釣り仲間だったという。
◆「苦しい…」異変を告げるメール
 最後の托鉢は昨年12月26日。「何回か来てくれているおばあさんが、財布から小銭をざらざらと鉢に入れてくれた。続けて1万円札を5枚。財布を空にして、にこにこしている。お金以上に、救われることに巡り合ったんだね」。翌日、こう話した姿を高田さんは覚えている。
 29日、最後に高田さんが会った時、望月さんはせきをしていたが、互いに気に留めなかった。ところが30日に「苦しくてしょうがない。救急車を呼ぶ」とメールがあり、病院で新型コロナの陽性を確認。それでも点滴を受けて体調が戻り、帰宅した。
 しかし元旦に再び「救急車を呼ぶ」とメールがあってから連絡が途絶えた。「持病もないし、なんとかなるだろう」と楽観視していた高田さんに、望月さんの親族から訃報が届いたのは、亡くなった直後、18日夕だった。
 「死は本当に近いところにあると、彼に教えられた」。高田さんは長年の友の死を惜しむ。その一心に祈る姿は、銀座でも、被災地でも、もう見られない。(梅野光春)

4番目の写真は望月崇英さんです。写真の出典は、http://kaito308.livedoor.blog/archives/66110123.html です。

5番目の写真も望月崇英さんです。写真の出典は、http://kaito308.livedoor.blog/archives/66110123.html です。

最後に感じたことを一行だけ書きます。5番目の写真の望月崇英師の顔が実に良い雰囲気をかもし出していると感じます。感動します。望月崇英師の表情が全てをものがっています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)