昨日の記事、「バイデン大統領の外交政策と中国の覇権指向の脅威」では中国は脅威だと書きました。
日本の将来は隣国の中国の世界の覇権指向の政策の影響を深く受けるざるを得ないのです。それは日米安保体制にある日本の大きな脅威になることは避けられない宿命です。
ところがこの中国へ1万3千社以上もの日本企業が根を下ろして中国の経済成長に貢献しているのです。
このことはマスコミにあまり出ていませんがこれが実態なのです。米中が激しく争っているのに日本は中国の経済成長に貢献しているのです。この事実どう考えたら良いのでしょうか?
今日は日本と中国の経済交流の実態を書いてみたいと思います。
まず中国に進出している日本企業の数について、https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p200208.html から抜粋いたします。
1 中華人民共和国(以下「中国」、香港・アモイを除く)に進出している日本企業は、2020年1月時点で1万3646社判明。2019年の調査時点から39社減少したほか、過去の調査で最も進出社数が多かった。2012年(1万4394社)からは748社減少するなど、中国に進出する日本企業数は引き続き減少した。
2 業種別では、最も多かったのは「製造業」(5559社)で、全体の約4割を占める。次いで多いのが「卸売業」(4505社)で、全体の約3割を占め、2019年(4495社)からは0.2%増加した。他方、「小売業」(443社)などでは前年比減少となった。
3 中国への進出地域では、最も多かった地域は中国東部の「華東地区」で9054社に上る。なかでも「上海市」は6300社と最も多く、中国全土でも最多。中国全土で3番目に多い「江蘇省」(1900社)などと合わせ、進出する日本企業の多くが上海経済圏に集積する。次いで多いのは「中南地区」で2252社。大規模港湾を有する広州市や、ハイテク産業が集積する深セン市などを擁し、中国全土で2番目に多い「広東省」(2036社)のほか、多数の自動車産業が集積する武漢市を含む「湖北省」(242社)で進出企業が多くみられた。
以下は省略いたします。
続いて日本の輸出相手の移り変わりを見てみましょう。そのためには、「3. 日本の主な貿易相手国 - 日本貿易会」を検索すると出て来ます。それを以下のように抜粋します。
・・・2008年までの50年余りはアメリカがだんぜん1位でしたが、この年にアメリカで金融危機が起こり、アメリカをはじめ世界中の景気が急激に悪くなり需要が落ち込みました。しかし、中国は政府のいろいろな経済対策により景気の落ち込みが少なく、引き続き高い経済成長を遂げたことから、2009年から日本の最大輸出相手になっていました。2013年以降はアメリカが再び1位となった後、2018年に中国が6年ぶりにトップへ返り咲きましたが、2019年はアメリカが中国を上回り、トップになりました。
3位以下の輸出先は、韓国、台湾、香港、タイなどのアジア諸国や地域が多くを占めています。
アメリカ向けでは自動車が多いのに比べて、アジア向けの輸出品は半導体などの先端技術を活かした機械類や部品、電気製品などと、鉄鋼や非鉄金属などが多くを占めています。これはアジア各国・地域に半導体などを使用した製品を組み立てる産業が多いことと、経済成長にともないビルや工場、道路などのインフラ(産業基盤と生活関連の社会資本)設備のための原料を必要としているからです。・・・以下省略します。
以上のように、1日本企業の数の多さ、2日本の輸出相手は米中が1位を争っていることが明らかになります。
中国は日本の脅威だと言いながら日本は中国に頼っているのです。いろいろな国の中で中国が日本にとって一番重要な国なのです。この変な状態は次のように言えば矛盾がありません。
「中国は軍事的に大きな脅威だが経済的には友好国だ!」
すなわち軍事と経済は別だという考え方です。しかしはたしてこの考えは正しいのでしょうか?疑問や不安が残ります。現世とはこういうものなのでしょうか?
そしてアメリカの企業も数多く中国に進出しています。これについては続編で説明する予定です。
今日の挿絵代わりの写真は地方都市の瀋陽の写真です。私が1982年に行った時はこんなに立派な街ではありませんでした。中国の地方都市の発展ぶりに驚いています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は瀋陽市の遠景です。写真の出典は、http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2012-09/25/content_486080.htm です。
2番目の写真は瀋陽市の中心街です。写真の出典は、https://ieny.jp/post/536 です。
3番目の写真は瀋陽市の故宮です。ここが清朝を始めた皇帝ヌルハチとホンタイジの皇居でした。
北京の故宮と並んで、保存状態の良い後金時代の皇居です。建築様式は漢民族・満州民族・蒙古民族の様式が融合しています。規模は、北京の故宮の12分の1です。1625年に建てられ、清朝が北京へ引っ越した後は引き続き離宮として用いられてきました。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%8B%E9%99%BD%E6%95%85%E5%AE%AE です。