後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「昔の友人の訃報で遥か故郷を想う」

2021年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昔仙台の中学校で親友だった杉下君の訃報を貰いました。享年84歳でした。野球とバレーボールの選手で明るい少年でした。当時、私は何度も彼の家に遊びに行きました。特に杉下君は世話好きでした。
彼は中学卒業以来、茫々60年ほど後の2012年と2013年の10月に中学校の同期生の親睦会を開催してくれたのです。東京から出席した私を彼は暖く心をこめて歓迎してくれたのです。2013年の同期会が彼と会ったのが最後になりました。
2012年の仙台市愛宕中学校の第二回生の同期会は秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて出席しました。
61年目に再会した懐かしい友人たちが皆笑顔で迎えてくれたのです。
しかし2回生350人のうち76名以上もの人が旅立っていたのです。その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。私は長い間、仙台を疎遠にしていたのです。
昔の友人の杉下君の訃報を貰っていろいろなことを思い出しました。
そこで今日は懐かしい我が故郷、仙台の思い出を書くことにしました。懐かしい故郷の片平丁、お霊屋下、鹿落坂、大年寺山、愛宕山などの写真もお送りいたします。2012年の同期会で仙台に行った時に撮った写真です。

さて仙台は伊達政宗が作った町です。青葉山に政宗の居城がありその北に市街が広がっています。そして政宗の霊廟は経ヶ峰という山にあり、その下の町を霊屋下(おたまやした)と言います。霊屋下から広瀬川を下ると愛宕山があり、その下の橋を愛宕橋といいます。
愛宕中学校の学区は霊屋下から愛宕橋までの広瀬川の南側の丘陵地帯だったのです。
経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区のようです。何十年経っても昔のままの森林に覆われています。
そんな風景をタクシーに乗りながら撮った写真をお送りいたします。タクシーの上からですのですので出来たの悪い写真です。

1番目の写真の赤レンガの建物は私が1958年に卒業した東北大学の金属工学科の建物です。あれから茫々63年になります。この辺は片平丁と言います。

2番目の写真は金属材料研究所の前の道にある小さな三角形の公園です。戦争前から存在していた公園でヨーロッパ風の小さな公園です。それが現在でも存在していたのです。

3番目の写真はお霊屋橋(おたまやばし)です。
お霊屋橋は正宗の廟所への入り口なので白い石材で綺麗に出来ていて写真のように欄干の上には石燈籠があります。

4番目の写真はお霊屋橋の欄干です。右手に正宗の廟所がある経ヶ峰の森が見えます。欄干の間には広瀬川が見えます。そして経が峯の裾を左の方向へ登っている道が鹿落坂です。

5番目の写真は鹿落坂(ししおちざか)です。昔は車道が狭くて、左側に広い歩道がついていて人間が下の広瀬川の景色を見ながら登れたのです。
月夜の夜にカジカの鳴き声を聞きながら叔父さんに肩車をして貰って登ったことを鮮明に憶えています。昭和15年のある夏の夜でした。その叔父さんもとっくに亡くなりました。

6番目の写真は向山を歩き、愛宕橋に出て大年寺山を振り返って撮った写真です。
鉄塔はテレビ塔で、仙台の民間放送会社が使っています。NHKは八木山の方にテレビ塔があります。

7番目の写真は愛宕橋から見降ろした広瀬川です。この写真の場所には貸しボート屋があり随分何度も乗ったものでした。当時は生活排水をそのまま広瀬川へ流していたのでいつも腐ったような臭いがした広瀬川でした。現在は貸しボートの影も形もありません。時代の移り変わりにしばし感慨を覚えます。

2013年の同期会の時には仙台へ新幹線で行って仙台駅でおりました。そこから私は大町を通り抜けて、一番丁で右折し、三越のそばの同期会の会場まで歩いてみました。昔のことを思い出しながらゆっくり歩きました。
仙台での一番の繁華街の一番丁で昔あった店を探しながら行ったのです。しかし存続していたのはたった2軒です。メガネの相沢と井ケ田茶店だけです。あとは見知らぬ店々がえんえんと続いているのです。故郷も様変わりするのです。

皆様にも故郷はあるのと思います。そして故郷の思い出は財産です。とくに高齢者になってみると、「故郷の思い出」こそが大切な財産になるのです。

今日は昔の友人の訃報に接し故郷のことをいろいろ思い出しました。そして我が故郷、仙台の風景写真をいくつか掲載いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)