横浜の「みなと未来」に係留し一般公開している大型帆船日本丸は現役の帆船です。今でも東京湾に出ていけます。
今日は以前何度か訪れて撮った写真でこのロマン溢れる帆船をご紹介したいと思います。
なお帆船日本丸は、姉妹船海王丸とともに昭和3年の第55帝国議会で予算案が可決し、英国のリース市のラメージ&ファーガソン社へ発注されました。
ラメージ&ファーガソン社は設計と鋼材の切り出しと部品の調達を行い、全て日本へ輸送し、組み立ては神戸川崎造船所で行われました。昭和5年3月31日に竣工し日本側へ引渡されました。
すべての部品は鋼材に至るまで英国製であり、初めの帆走・操舵技術は英国人教官の直接指導によったのです。現在でも船内の鋼材には鋼材の切削・加工を行ったスキニンググローブ社(England)の名前が明記されています。総トン数は2278 トンで全長が97 mです。機関はディーゼルで搭載人員は138名です。
1番目の写真は29枚のセイルを全て上げた日本丸の後ろから前から撮った写真です。2008年の4月に総展帆をしました。
2番目の写真は29枚のセイルを全て上げた日本丸の後ろから撮った写真です。国旗が右に流れています。風が左後ろからすべてのセイルを膨らませています。ご自分が風になったおつもりで、29枚のセイルに吹き付けていると想像しながらご覧下さい。
3番目の写真はセイルを全て下した日本丸です。桜木町駅前のみなとみらい日本丸係留岸壁にて2008年4月29日に撮った写真です。
4番目の写真は帆船日本丸の甲板です。さて西洋の帆船には基本的には3本のマストが立っています。前からフォアマスト、メインマスト、ミズンマストと呼びます。それに加えて重要なのは、船首から突き出した棒です。これをバウ・スピレットと言います。このマストの配列を日本丸と比較すると殆ど同じですね。違うところは日本丸の最後尾にもう一本のマストが立っていますね。ジガーマストと呼びます。
5番目の写真は4本のマストにセイルを上げ下ろしするためのロープです。400年前に、この構造の帆船を作り上げていったヨーロッパ人の創意には深い感動を感じます。自分でクルーザーヨットを走らせていると、その完璧な構造に毎回感心したのです。
6番目の写真は日本丸の舵輪です。日本丸を丁寧に案内してくらた大西船長は、「帆船こそはヨーロッパ文化の真髄ですね」と言いました。大西船長はさらに、「帆船にはヨーロッパ文化の全てが詰まっているようです」とも言いました。
7番目の写真は船底の倉庫に積んである予備のロープです。大西船長は小生を日本丸の船倉の奥まで案内して、帆船の保守管理のために重要なコマゴマした修理方法を説明してくれました。
帆船ではロープという言葉は使わない。使用目的別にハリヤードとかステイとか固有の名前がついている。でも簡単のためこの記事ではロープと呼ぶことにしました。
日本丸では29枚の帆と横桁(ヤード)を動かすためのロープが245本ついているのです。
この帆船を案内してくれた大西船長もかつてこの日本丸の一等航海士をし、その後は、同じような練習用大型帆船の船長をしていたそうです。
この記事は大西船長の話と杉浦昭典著、海洋文庫19「帆船」(舵社1986年発行)の内容をまじえながら書きました。
なお杉浦昭典氏は神戸商船大学で大西船長の指導をしてくれた恩師とのことでした。
さて第二次大戦中には日本丸の全ての帆と帆桁が撤去されたのです。昭和18年、横浜浅野ドックで、撤去後、純白の船体も暗いネズミ色に塗り替えられました。鈍足なので敵潜水艦のいる太平洋へは出られないので、瀬戸内海で筑紫炭田から尼崎火力発電所へ石炭運びを続けつつ敗戦になります。敗戦は神戸港沖で迎えました。
戦後はアメリカ太平洋艦隊の管理下に置かれ、昭和20年12月から引揚船として24000名を運びました。
残留日本人を迎えにいった港は、上海、コロ島、シンガポール、ラングーン、台湾、南西諸島など。4年間で29航海した。。
船倉の中まで案内してくれた大西船長が言う、「年老いた男性の引揚者が、この船倉に座り込んでしまいました。随分長い間、目を閉じていました。引揚げのとき、その場所に座っていたそうです」
昭和25年、朝鮮戦争の勃発とともに今度はアメリカ軍の輸送船として米軍人を釜山港へ3回輸送する。帰りには韓国人避難民を日本へ。翌年の昭和26年3月にアメリカ軍の管理を解かれやっと日本政府へ返される。
帆船として生き返った日本丸は昭和28年、南方へ遺骨収集航海をする。南鳥島、ウエーキ、サイパン、テニアン、グアム、アンガウル、ペリリュー、硫黄島などの8島を巡り慰霊碑の建立と遺骨収集をした。
昭和の戦争に巻き込まれた日本人の苦難と同じように日本丸も危険な運命を何とか生き永らえ、横浜のランドマーク・タワーの前にゆっくり休んでいるのです。
今日は美しい帆船日本丸を写真でご紹介しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)