2012年9月の北海道旅行で3泊した弟子屈町の川湯は、かの大横綱・大鵬の出身地です。ホテルのフロントに記念館の場所を聞くと、道路の向こう側の公園にあると教えてくれます。まさに「巨人 大鵬 卵焼き」の家内は跳び上がって喜んでいました。
早速、翌朝一番に訪れました。大鵬は32回の優勝記録を打ち立て、あの柏鵬時代を築いたのです。その柔軟で敏捷、粘り強い天才的な取り組みの光景は現在でも脳裏に刻んでいる人々も多いと思います。
撮って来た写真をお送りいたします。
1番目の写真は「川湯相撲記念館」です。中の展示物はすべて大鵬に関連したものです。
特に映像室では、当時の数々の名勝負の映画の上映があり、大鵬の天才的な相撲を直接見ることが出来ます。
2番目の写真は大鵬の修行時代の写真の展示です。
3番目の写真はは子供や孫に囲まれ幸せそうな大鵬一家の写真です。「現在お孫さん達がお相撲さんになっている」と家内は喜んでいます。
4番目の写真は函館の西にある「横綱千代の山・千代の富士記念館」です。木古内から峠道に入り山を越えて、再び海岸に出たところの福島町にあります。こんな小さな町から二人も横綱がでたのです。相撲の好きな家内が感激して両手を上げています。
5番目の写真は「横綱千代の山・千代の富士記念館」の中の展示です。
第41代横綱・千代の山と第58代横綱・千代の富士の生誕の地が同じで、函館の西にある福島町なのです。
師弟関係にもあった二大横綱の歩みと大相撲の文化を知ることができます。館内の展示物には横綱の綱や優勝トロフィー、千代の富士が断髪した際の大銀杏、国民栄誉賞状など、たくさんの記念品があります。その他にも九重部屋の稽古場と土俵が再現されてあります。
大鵬、千代の山、千代の富士 の活躍と思い出は下に簡略にまとめました。
=====大鵬、千代の山、千代の富士 の活躍と思い出=========
(1)第48代横綱 大鵬
1940年(昭和15年)5月29日生 身長187cm。
樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町で育った。父親はウクライナ人のマルキャン・ボリシコ、母親は日本人の納谷キヨで
ハーフである。納谷は母の姓である
1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに 「柏鵬 (はくほう) 時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれる事もある。幕内最高優勝32回は2009年(平成21年) 現在、最多優勝記録である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退 (1971年) までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は 「一番破られにくい記録」 と言われる。
当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度がわかる。また、 酒豪としても有名でかつての酒量は4時間程で5升を空け、 翌日の朝稽古に出たというエピソードもあるほど。
第48代横綱になる。(入幕から1年10ヶ月)この間、三賞:敢闘賞2回、技能賞1回、金星1個
1971年 現役引退
(2) 第41代横綱 千代の山
千代の山 雅信(ちよのやま まさのぶ、1926年6月2日 - 1977年10月29日)は、北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士。第41代横綱。本名は杉村 昌治(すぎむら まさはる)。
1949年10月場所に大関へ昇進し[3]、その場所は13勝2敗で北海道出身力士としての初優勝を挙げた。翌場所も12勝3敗で連覇を達成するが、前田山英五郎のシールズ事件を始めとする当時の横綱陣への批判が渦巻いていた煽りを受け、不運にも横綱昇進は見送られた。これは玉錦三右エ門が、大関で3連覇しながら横綱昇進を果たせなかったこと以来であった。
横綱昇進〜引退へ
1951年5月場所を14勝1敗で3度目の優勝を挙げ、ようやく横綱へ昇進した。時を同じくして、横綱免許の権限を持っていた吉田司家の24世吉田長善による不祥事のため、免許権限が相撲協会に移行しており、千代の山は協会が独自に推挙した最初の横綱となった。
(3)第58代横綱 千代の富士
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年6月1日 - 2016年7月31日)は1980年代から1990年代初頭にかけて活躍した大相撲力士。北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。昭和最後の優勝力士。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。
1981年は、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。一気に大関・横綱への昇進を決めた1年間は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。
1982年は3~7月の3場所連続優勝を達成し、初の年間最多勝を記録した。
早速、翌朝一番に訪れました。大鵬は32回の優勝記録を打ち立て、あの柏鵬時代を築いたのです。その柔軟で敏捷、粘り強い天才的な取り組みの光景は現在でも脳裏に刻んでいる人々も多いと思います。
撮って来た写真をお送りいたします。
1番目の写真は「川湯相撲記念館」です。中の展示物はすべて大鵬に関連したものです。
特に映像室では、当時の数々の名勝負の映画の上映があり、大鵬の天才的な相撲を直接見ることが出来ます。
2番目の写真は大鵬の修行時代の写真の展示です。
3番目の写真はは子供や孫に囲まれ幸せそうな大鵬一家の写真です。「現在お孫さん達がお相撲さんになっている」と家内は喜んでいます。
4番目の写真は函館の西にある「横綱千代の山・千代の富士記念館」です。木古内から峠道に入り山を越えて、再び海岸に出たところの福島町にあります。こんな小さな町から二人も横綱がでたのです。相撲の好きな家内が感激して両手を上げています。
5番目の写真は「横綱千代の山・千代の富士記念館」の中の展示です。
第41代横綱・千代の山と第58代横綱・千代の富士の生誕の地が同じで、函館の西にある福島町なのです。
師弟関係にもあった二大横綱の歩みと大相撲の文化を知ることができます。館内の展示物には横綱の綱や優勝トロフィー、千代の富士が断髪した際の大銀杏、国民栄誉賞状など、たくさんの記念品があります。その他にも九重部屋の稽古場と土俵が再現されてあります。
大鵬、千代の山、千代の富士 の活躍と思い出は下に簡略にまとめました。
=====大鵬、千代の山、千代の富士 の活躍と思い出=========
(1)第48代横綱 大鵬
1940年(昭和15年)5月29日生 身長187cm。
樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町で育った。父親はウクライナ人のマルキャン・ボリシコ、母親は日本人の納谷キヨで
ハーフである。納谷は母の姓である
1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに 「柏鵬 (はくほう) 時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれる事もある。幕内最高優勝32回は2009年(平成21年) 現在、最多優勝記録である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退 (1971年) までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は 「一番破られにくい記録」 と言われる。
当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度がわかる。また、 酒豪としても有名でかつての酒量は4時間程で5升を空け、 翌日の朝稽古に出たというエピソードもあるほど。
第48代横綱になる。(入幕から1年10ヶ月)この間、三賞:敢闘賞2回、技能賞1回、金星1個
1971年 現役引退
(2) 第41代横綱 千代の山
千代の山 雅信(ちよのやま まさのぶ、1926年6月2日 - 1977年10月29日)は、北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士。第41代横綱。本名は杉村 昌治(すぎむら まさはる)。
1949年10月場所に大関へ昇進し[3]、その場所は13勝2敗で北海道出身力士としての初優勝を挙げた。翌場所も12勝3敗で連覇を達成するが、前田山英五郎のシールズ事件を始めとする当時の横綱陣への批判が渦巻いていた煽りを受け、不運にも横綱昇進は見送られた。これは玉錦三右エ門が、大関で3連覇しながら横綱昇進を果たせなかったこと以来であった。
横綱昇進〜引退へ
1951年5月場所を14勝1敗で3度目の優勝を挙げ、ようやく横綱へ昇進した。時を同じくして、横綱免許の権限を持っていた吉田司家の24世吉田長善による不祥事のため、免許権限が相撲協会に移行しており、千代の山は協会が独自に推挙した最初の横綱となった。
(3)第58代横綱 千代の富士
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年6月1日 - 2016年7月31日)は1980年代から1990年代初頭にかけて活躍した大相撲力士。北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。昭和最後の優勝力士。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。
1981年は、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。一気に大関・横綱への昇進を決めた1年間は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。
1982年は3~7月の3場所連続優勝を達成し、初の年間最多勝を記録した。