見事な老木です。そこで『老木とその花』というテーマで写真を撮って来ました。人間も老人になっても花が咲くと良いのですが。
洋上飛行中の小型単発ヘリでエンジンがバースト(破裂)して、人員も機体も故障箇所以外は全く損傷が無かったのは、ひとえに幸運だったとしかいい様がない。
しかしその幸運を支えたのは、関係者の普段の努力と技量と適確な判断であった。重なり合った幸運の一つでも欠けていたら、私は今この世にはいなかったであろう。
鳥の衝突か!エンジンの爆発か!
“それ”は全く突然に起きた。晴天微風の日中で緩やかに上昇中のベル206Bの機内で突然“ドーン”という激しい音と衝撃に襲われた。一瞬なにが起きたのかわからなかった。
とっさに目を走らせた機外も機内も大きな変化はなく、計器盤上には注意灯も警報灯も点灯していなかった。真っ先に思い浮かんだのはバードストライク(鳥の衝突)である。 眼下にはコバルト・ブルーの美しい南国の海が広がっていた・・・。
乾期も終りに近い9月の半ば、インドネシア中部の気象状態は大変安定している。午後によくスコールはあるものの、積乱雲は局地的で大きく発達することはあまり無い。
インドネシア大手木材会社Mの長期契約で、ABC-AIRはスラウエシ島北部のポパヤト・キャンプにB-206B1機を常駐させていた。
仕事は広大な伐採権保有区域の、調査と連絡飛行である。ヘリコプター会社の幹部とはいえ、私もクルーとして出張に出かける。この日PK-EBDが、メナド国際空港事務所に提出した飛行計画は次のようなものであった。
出発地はポパヤト場外ヘリポート、ETD(出発時間)13:20ローカルタイム、目的地はメナド国際空港、ETA(到着予定時刻)15:50、途中ローカル空港のあるゴロンタロ市を通過、高度3500ft(1000m)、巡航速度100kt(185km/h)、予定所要時間2.6時間、搭載燃料3,5時間,搭乗人員3名、メナドまではおよそ500kmの距離である。この距離は、メインベースのあるバリックパパンにほぼ等しい。
メナドはスラウエシ島北端にある美しい都市で、インドネシアで一番の美人の産地?でもある。一説によるとメナドは日本語の港、ゴロンタロは五郎と太郎が訛ったものというのだが・・・。
M社は中北部スラウエシに広大な縄張り?を有し、ポパヤトは主力のキャンプであった。長距離HFや近距離VHF無線等の通信施設は充実して、奥地で広大な南洋ヒノキの、ほとんど無尽蔵ともいえる森林資源を発見して活気づいていた。
B206 1977年9月某日、13:20ポパヤトを離陸したPK-EBDは、メナド国際空港に向かって順調に上昇を続けていた。機長は日本人のT、整備士は私、乗客はインドネシア人のキャンプ・マネージャーYさん、それに高価な荷物と重要な書類などなど。今夜はメナド泊りの予定なので久方ぶりに都会に泊まれる・・・。
離陸後9分、VHFでポパヤト・キャンプに、HFでメナド空港に通信設定が出来た。天候は上々で穏やか、小さな岬の、絵のように美しい海岸線を斜めにクロスして洋上に出た。高度は2800ftを越えたあたりで、エマージェンシー・フロート(非常用浮袋)を付けたスキッド(着陸用そり)の先端がわずかに揺れている・・・。
エンジン・バーストはこの時に突発したのである!!
不時着!! 降りてみたら畑だった!
「ピッチが効かない!」「TOT!!」
機長の鋭い声に計器板に素早く目を走らせる!TOT(エンジン排気温度計)の指示がレッドマーク(超過禁止の赤線)に近い。NR(メインローター回転計)は低下してイエローゾーン(警戒区域)に入ろうとしている。
ヘリコプターは頭上のメインローターを回転させて飛行している。この回転数が低下すれば、飛行そのものが維持できなくなり、墜落する。ピッチが効かない、というのはエンジン出力が失われて、高度が維持できないことを意味する。
機長がピッチ(上下方向の操縦をする装置)を下げてローター回転を維持し、大きく左旋回に入れた。急激な旋回は急速に高度を失う恐れがあるし、右旋回すると陸地への到達が遅くなる・・・、後からクールに考えての事で、その時は“とっさ”だった。
つい先ほど通過した海岸線が目に入り、私は平地を目でさがすのと、エンジン油圧計に目をやるのと、VHF無線機で「エンジン故障で不時着する!」をポパヤトにインドネシア語で怒鳴るのを一緒にやった。
こう記すと極めて沈着に、リズミカルに流れているようだが実際は無我夢中だった。
「ステイック(操縦桿)は?ラダー(方向舵ペダル)は?」と私。「異常なさそうだ」と機長。
操縦系統に異常を来たしたら普通の着陸はおぼつかない。高いTOTのままで油圧が失われたら火災になる!エンジンもミッション(減速装置)も油圧は正常だった。
エンジンはまだ回っている!!その他のエンジン出力を示す計器は、自立運転ができる程度の状態で、ほとんどパワーを発生していない。
先程通過した、小さな岬のなだらかな丘の上に、かなり大きな草地があるのが目に入った。高度はすでに1000ft位だったろうか。乗客に説明しているヒマはない。
「あそこに降りる! シートベルト!」を手振りで伝え、Yさんのうなずくのを認めた。ポパヤトから無線でワンワン言ってくるが、それどころじゃない。
ゆるやかな旋回から小さめに機首を上げて減速し、草地の中央に滑り込んだ。わずかに速度を残しての見事な着陸だった。“ドン”と来てからおそらく1、2分だったろう。
エマージェンシー・フロート付きも幸いした。フロートはスキッドよりも接地面積が大きい。地表は凹凸があったが、機体はきれいに水平に接地していて、エンジンはまだ回っている。始めて気がついたが何と落花生の畑だった。
“畑があるなら人がいる!!”
機体が転覆や火災の恐れのないことを確かめて、機長にエンジンの運転を続けるように合図を送った。エンジンを止めたら発電機も止まる。そうなると通信手段の電源は機上のバッテリーしかなくなる。
近くに“公衆電話”は無い。しかもHF無線機は電力消費が大きい。幸いポパヤトには、地上でVHF無線が通じた。これは心強い。
気がついたら、いつの間にか回りは大勢の人だかり。人家らしきものは見当たらなかったが、ヒトがわいてきた感じだ。
乗客のYさんに、群衆のテールローター(後部の小さなプロペラ)への接近の防止と周囲の警戒をお願いして、私はエンジン・カバーを開けてみた。一見とくに変化はない。
しかしエンジン・ルームには金属片が散乱し、エンジン補機の金属配管は高周波振動でピリピリ震えている。タービン(扇車)ではなくコンプレッサー(圧縮機)のバーストだった!!
機上で交信していた機長が「TOTが限界を越えた、これ以上は危険だ!」と知らせてきた。飛散した金属片が燃料配管を破断したら爆発しかねない。
私は片手で自分の首を切る真似をして、エンジンを停止するように伝えた・・・。
そして帰還
エンジン停止後私は入念に機体を調べて、エンジン以外には差し当たり損傷のない事を確認した。そして会社と交信中の機長にこう伝えた。「エンジンを持ってきてくれ!」
沢山の人だかりの中から制服の警察菅らしい人と、畑の持ち主らしい人がやってきた。私の標準的?なインドネシア語は彼等に通じているらしいが、彼等の訛の強い方言はこちらにはサッパリ分からない。 乗客のYさんに“インドネシア語からインドネシア語に通訳してもらう羽目になった。英語はほとんど通じない。
私はまず畑を台無しにしてしまったことを丁重に詫びて、ポパヤト・キャンプへの輸送手段を依頼した。までは徒歩20分、そこにはエンジン付きのスピードボートがあって、1時間半の距離だそうである。陸路は無い。
不自由な会話ながら、土地の人達が非常に純朴で好意的なのがよく分かった。またポパヤト・キャンプは、地元で唯一の大規模事業所である。このからも、働きに行っている人がいるという。
気持ちの上では“謝礼などいくら出しても良い”と思った。
それにしても良くもまあ、こんなに条件の良い所に不時着できたものである。我々には冗談を言うような余裕が出てきた。ポパヤトからも救援のボートを出すそうだ。Yさんと機長に、先にポパヤトに戻ってもらうことにした。
私は会社の責任者として、残って機体をさらに詳しく調べて今後の処置を決めなければならない。季節が乾期であったことと、非常用食料・飲料が十分搭載してあったことを感謝した。一人で残る心細さなど、かまっていられない。
客先への迷惑を最小限にするために、明日主基地から代替機を出すことにした。詳細は機長に先にポパヤトに戻ってもらい、航空局への報告も含めて段取りを付けることとした。現場は206Bならあと5、6機は降りられそうだ。
すべてを終り、ポパヤトからよこしてくれた警備員に後を頼んで、現場を離れたのはもう夕暮れだった。南国の夕暮れはいきなり暗くなる。の桟橋からボートで送ってもらう頃には、トップリと日が暮れていた。さすがに疲れたが、それより今頃になってモーレツに怖くなった。後で話したら機長も同じ思いだったそうだ。
翌日の昼前に別の206Bが、予備エンジンや必要な器材と腕のいい整備士を乗せて飛んできた。アメリカ人整備士のRは普段はビールばかり飲んでるが、こういう時はモーレツに働く。相手がだれであろうと自国語である早口の英語でまくしたてる。
流石に私に対しては多少ていねいな“物言い”はするのだが・・・
エンジンはコンテナーのままでは乗らないので、裸にして機内に上手に仮止めしてあった。救援機は別のクルーでM社の仕事に復帰し、我々は現場に丸太でヤグラを組んで、エンジンの交換作業に取り組んだ。 インドネシア人整備助手のUは、整備士免状こそ持っていないが英語は達者で、実に良く働く。いい選手たちが来てくれた。
そして同日の夕方に、試験飛行を完了しはて復旧してしまった。
後日バリックパパンに戻ってから、このエンジンを社内調査して驚いた。軸流コンプレッサーの、ステーターベーンの第2段以降がキレイに吹き飛んでいる。第6段まで1枚も残っていない。コンプレッサーローターブレードは捩じくれて曲がっていたが欠け落ちてはいなかった。インレットガイドベーンにはFODの形跡はない。
さらにこのエンジンをシンガポールの修理工場に送って調査した。ステーターベーンは腐食で第2段の内の1枚が折れ飛び、これが内部FODとなって以降のベーンを丸坊主にしたのであろう。タービンモジュールもFODで損傷を受けていた。
コンプレッサーの定期的な内部点検がメインテナンス・マニュアルで義務付けられたのは、このインシデントよりもだいぶ後のことである。
蛇足であるが、後日ジャカルタ本社で保険会社とさんざんやり合ったが、保険金は降りなかった。相手はインドネシア人であったが交渉は英語でやった。何故ならお互いに外国語だから…。万国共通であるが、エンジン故障に起因する損害は保険では補償されない。(当時…現在は不明)
この事故の後、私は社内で“事故追放”“安全運航”を徹底的に教育した。面白いことにベトナム帰りのアメリカ人パイロットなどは素直に賛同してくれるが、なまじ日本語の出来る韓国人クルーの方がかえって言うことを聞かない。
今回のインシデントはまさしく幸運の積み重ねであったが、それがベストの形で収束できたのは、単なる偶然ではあるまい。(了)
-注-
FOD…Foreign Object Damage の頭文字で、異物吸入による損傷のこと。
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この記事は、社団法人「日本航空機操縦士協会」季刊誌「ヘリコプター・セーフティ」No-11(1996)と、月刊誌「ヘリコプター・ジャパン」No-21(1997)に掲載された「ある不時着」を、一般向けにわかり易く書き改めたものです。
「赤道直下の真珠のネックレス」と呼ばれるインドネシアは、赤道を挟んで16000もの島々からなる群島国家で、観光客に人気のバリ島は、ほぼその中央にあります。その東西は5000kmにも及び、仮にヨーロッパに重ねると、東の端はトルコまで至ります。
そのバリ島の北約1000kmにある、赤道をまたいだ風景の非常に美しい島が本件の舞台のスラウエシ島です。世界の秘境タナトラジャは、この島にあります。
写真はインドネシアでのベル20とインドネシアの地図とエンジン交換中とスラウエシ島の写真です。
しかしその幸運を支えたのは、関係者の普段の努力と技量と適確な判断であった。重なり合った幸運の一つでも欠けていたら、私は今この世にはいなかったであろう。
鳥の衝突か!エンジンの爆発か!
“それ”は全く突然に起きた。晴天微風の日中で緩やかに上昇中のベル206Bの機内で突然“ドーン”という激しい音と衝撃に襲われた。一瞬なにが起きたのかわからなかった。
とっさに目を走らせた機外も機内も大きな変化はなく、計器盤上には注意灯も警報灯も点灯していなかった。真っ先に思い浮かんだのはバードストライク(鳥の衝突)である。 眼下にはコバルト・ブルーの美しい南国の海が広がっていた・・・。
乾期も終りに近い9月の半ば、インドネシア中部の気象状態は大変安定している。午後によくスコールはあるものの、積乱雲は局地的で大きく発達することはあまり無い。
インドネシア大手木材会社Mの長期契約で、ABC-AIRはスラウエシ島北部のポパヤト・キャンプにB-206B1機を常駐させていた。
仕事は広大な伐採権保有区域の、調査と連絡飛行である。ヘリコプター会社の幹部とはいえ、私もクルーとして出張に出かける。この日PK-EBDが、メナド国際空港事務所に提出した飛行計画は次のようなものであった。
出発地はポパヤト場外ヘリポート、ETD(出発時間)13:20ローカルタイム、目的地はメナド国際空港、ETA(到着予定時刻)15:50、途中ローカル空港のあるゴロンタロ市を通過、高度3500ft(1000m)、巡航速度100kt(185km/h)、予定所要時間2.6時間、搭載燃料3,5時間,搭乗人員3名、メナドまではおよそ500kmの距離である。この距離は、メインベースのあるバリックパパンにほぼ等しい。
メナドはスラウエシ島北端にある美しい都市で、インドネシアで一番の美人の産地?でもある。一説によるとメナドは日本語の港、ゴロンタロは五郎と太郎が訛ったものというのだが・・・。
M社は中北部スラウエシに広大な縄張り?を有し、ポパヤトは主力のキャンプであった。長距離HFや近距離VHF無線等の通信施設は充実して、奥地で広大な南洋ヒノキの、ほとんど無尽蔵ともいえる森林資源を発見して活気づいていた。
B206 1977年9月某日、13:20ポパヤトを離陸したPK-EBDは、メナド国際空港に向かって順調に上昇を続けていた。機長は日本人のT、整備士は私、乗客はインドネシア人のキャンプ・マネージャーYさん、それに高価な荷物と重要な書類などなど。今夜はメナド泊りの予定なので久方ぶりに都会に泊まれる・・・。
離陸後9分、VHFでポパヤト・キャンプに、HFでメナド空港に通信設定が出来た。天候は上々で穏やか、小さな岬の、絵のように美しい海岸線を斜めにクロスして洋上に出た。高度は2800ftを越えたあたりで、エマージェンシー・フロート(非常用浮袋)を付けたスキッド(着陸用そり)の先端がわずかに揺れている・・・。
エンジン・バーストはこの時に突発したのである!!
不時着!! 降りてみたら畑だった!
「ピッチが効かない!」「TOT!!」
機長の鋭い声に計器板に素早く目を走らせる!TOT(エンジン排気温度計)の指示がレッドマーク(超過禁止の赤線)に近い。NR(メインローター回転計)は低下してイエローゾーン(警戒区域)に入ろうとしている。
ヘリコプターは頭上のメインローターを回転させて飛行している。この回転数が低下すれば、飛行そのものが維持できなくなり、墜落する。ピッチが効かない、というのはエンジン出力が失われて、高度が維持できないことを意味する。
機長がピッチ(上下方向の操縦をする装置)を下げてローター回転を維持し、大きく左旋回に入れた。急激な旋回は急速に高度を失う恐れがあるし、右旋回すると陸地への到達が遅くなる・・・、後からクールに考えての事で、その時は“とっさ”だった。
つい先ほど通過した海岸線が目に入り、私は平地を目でさがすのと、エンジン油圧計に目をやるのと、VHF無線機で「エンジン故障で不時着する!」をポパヤトにインドネシア語で怒鳴るのを一緒にやった。
こう記すと極めて沈着に、リズミカルに流れているようだが実際は無我夢中だった。
「ステイック(操縦桿)は?ラダー(方向舵ペダル)は?」と私。「異常なさそうだ」と機長。
操縦系統に異常を来たしたら普通の着陸はおぼつかない。高いTOTのままで油圧が失われたら火災になる!エンジンもミッション(減速装置)も油圧は正常だった。
エンジンはまだ回っている!!その他のエンジン出力を示す計器は、自立運転ができる程度の状態で、ほとんどパワーを発生していない。
先程通過した、小さな岬のなだらかな丘の上に、かなり大きな草地があるのが目に入った。高度はすでに1000ft位だったろうか。乗客に説明しているヒマはない。
「あそこに降りる! シートベルト!」を手振りで伝え、Yさんのうなずくのを認めた。ポパヤトから無線でワンワン言ってくるが、それどころじゃない。
ゆるやかな旋回から小さめに機首を上げて減速し、草地の中央に滑り込んだ。わずかに速度を残しての見事な着陸だった。“ドン”と来てからおそらく1、2分だったろう。
エマージェンシー・フロート付きも幸いした。フロートはスキッドよりも接地面積が大きい。地表は凹凸があったが、機体はきれいに水平に接地していて、エンジンはまだ回っている。始めて気がついたが何と落花生の畑だった。
“畑があるなら人がいる!!”
機体が転覆や火災の恐れのないことを確かめて、機長にエンジンの運転を続けるように合図を送った。エンジンを止めたら発電機も止まる。そうなると通信手段の電源は機上のバッテリーしかなくなる。
近くに“公衆電話”は無い。しかもHF無線機は電力消費が大きい。幸いポパヤトには、地上でVHF無線が通じた。これは心強い。
気がついたら、いつの間にか回りは大勢の人だかり。人家らしきものは見当たらなかったが、ヒトがわいてきた感じだ。
乗客のYさんに、群衆のテールローター(後部の小さなプロペラ)への接近の防止と周囲の警戒をお願いして、私はエンジン・カバーを開けてみた。一見とくに変化はない。
しかしエンジン・ルームには金属片が散乱し、エンジン補機の金属配管は高周波振動でピリピリ震えている。タービン(扇車)ではなくコンプレッサー(圧縮機)のバーストだった!!
機上で交信していた機長が「TOTが限界を越えた、これ以上は危険だ!」と知らせてきた。飛散した金属片が燃料配管を破断したら爆発しかねない。
私は片手で自分の首を切る真似をして、エンジンを停止するように伝えた・・・。
そして帰還
エンジン停止後私は入念に機体を調べて、エンジン以外には差し当たり損傷のない事を確認した。そして会社と交信中の機長にこう伝えた。「エンジンを持ってきてくれ!」
沢山の人だかりの中から制服の警察菅らしい人と、畑の持ち主らしい人がやってきた。私の標準的?なインドネシア語は彼等に通じているらしいが、彼等の訛の強い方言はこちらにはサッパリ分からない。 乗客のYさんに“インドネシア語からインドネシア語に通訳してもらう羽目になった。英語はほとんど通じない。
私はまず畑を台無しにしてしまったことを丁重に詫びて、ポパヤト・キャンプへの輸送手段を依頼した。までは徒歩20分、そこにはエンジン付きのスピードボートがあって、1時間半の距離だそうである。陸路は無い。
不自由な会話ながら、土地の人達が非常に純朴で好意的なのがよく分かった。またポパヤト・キャンプは、地元で唯一の大規模事業所である。このからも、働きに行っている人がいるという。
気持ちの上では“謝礼などいくら出しても良い”と思った。
それにしても良くもまあ、こんなに条件の良い所に不時着できたものである。我々には冗談を言うような余裕が出てきた。ポパヤトからも救援のボートを出すそうだ。Yさんと機長に、先にポパヤトに戻ってもらうことにした。
私は会社の責任者として、残って機体をさらに詳しく調べて今後の処置を決めなければならない。季節が乾期であったことと、非常用食料・飲料が十分搭載してあったことを感謝した。一人で残る心細さなど、かまっていられない。
客先への迷惑を最小限にするために、明日主基地から代替機を出すことにした。詳細は機長に先にポパヤトに戻ってもらい、航空局への報告も含めて段取りを付けることとした。現場は206Bならあと5、6機は降りられそうだ。
すべてを終り、ポパヤトからよこしてくれた警備員に後を頼んで、現場を離れたのはもう夕暮れだった。南国の夕暮れはいきなり暗くなる。の桟橋からボートで送ってもらう頃には、トップリと日が暮れていた。さすがに疲れたが、それより今頃になってモーレツに怖くなった。後で話したら機長も同じ思いだったそうだ。
翌日の昼前に別の206Bが、予備エンジンや必要な器材と腕のいい整備士を乗せて飛んできた。アメリカ人整備士のRは普段はビールばかり飲んでるが、こういう時はモーレツに働く。相手がだれであろうと自国語である早口の英語でまくしたてる。
流石に私に対しては多少ていねいな“物言い”はするのだが・・・
エンジンはコンテナーのままでは乗らないので、裸にして機内に上手に仮止めしてあった。救援機は別のクルーでM社の仕事に復帰し、我々は現場に丸太でヤグラを組んで、エンジンの交換作業に取り組んだ。 インドネシア人整備助手のUは、整備士免状こそ持っていないが英語は達者で、実に良く働く。いい選手たちが来てくれた。
そして同日の夕方に、試験飛行を完了しはて復旧してしまった。
後日バリックパパンに戻ってから、このエンジンを社内調査して驚いた。軸流コンプレッサーの、ステーターベーンの第2段以降がキレイに吹き飛んでいる。第6段まで1枚も残っていない。コンプレッサーローターブレードは捩じくれて曲がっていたが欠け落ちてはいなかった。インレットガイドベーンにはFODの形跡はない。
さらにこのエンジンをシンガポールの修理工場に送って調査した。ステーターベーンは腐食で第2段の内の1枚が折れ飛び、これが内部FODとなって以降のベーンを丸坊主にしたのであろう。タービンモジュールもFODで損傷を受けていた。
コンプレッサーの定期的な内部点検がメインテナンス・マニュアルで義務付けられたのは、このインシデントよりもだいぶ後のことである。
蛇足であるが、後日ジャカルタ本社で保険会社とさんざんやり合ったが、保険金は降りなかった。相手はインドネシア人であったが交渉は英語でやった。何故ならお互いに外国語だから…。万国共通であるが、エンジン故障に起因する損害は保険では補償されない。(当時…現在は不明)
この事故の後、私は社内で“事故追放”“安全運航”を徹底的に教育した。面白いことにベトナム帰りのアメリカ人パイロットなどは素直に賛同してくれるが、なまじ日本語の出来る韓国人クルーの方がかえって言うことを聞かない。
今回のインシデントはまさしく幸運の積み重ねであったが、それがベストの形で収束できたのは、単なる偶然ではあるまい。(了)
-注-
FOD…Foreign Object Damage の頭文字で、異物吸入による損傷のこと。
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この記事は、社団法人「日本航空機操縦士協会」季刊誌「ヘリコプター・セーフティ」No-11(1996)と、月刊誌「ヘリコプター・ジャパン」No-21(1997)に掲載された「ある不時着」を、一般向けにわかり易く書き改めたものです。
「赤道直下の真珠のネックレス」と呼ばれるインドネシアは、赤道を挟んで16000もの島々からなる群島国家で、観光客に人気のバリ島は、ほぼその中央にあります。その東西は5000kmにも及び、仮にヨーロッパに重ねると、東の端はトルコまで至ります。
そのバリ島の北約1000kmにある、赤道をまたいだ風景の非常に美しい島が本件の舞台のスラウエシ島です。世界の秘境タナトラジャは、この島にあります。
写真はインドネシアでのベル20とインドネシアの地図とエンジン交換中とスラウエシ島の写真です。