後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「『これぞ絶景!全国紅葉名所ランキング15選』から4枚お送り致します」

2023年11月04日 | 写真
15枚の絶景写真は、https://allabout.co.jp/gm/gc/447887/ に掲載されています。私の好きな4枚の絶景写真をお送り致します。

1番目の写真は石川県白山市の旧白山スーパー林道脇の姥ヶ滝です。
2番目の写真は長野県、奥蓼科にある御射鹿池です。

3番目の写真は北海道の層雲峡です。

4番目の写真は長野県の志賀高原の一沼です。


「第二次大戦中に航空隊で活躍した田中和彦中尉の孤独な死」

2023年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム
私の年上の友人に田中和彦さんという方がいました。第二次世界大戦中に陸軍の航空隊で活躍した方です。
昨日寄留さきの老人ホームを訪問しましたらつい先月に亡くなっていました。享年100歳。血縁者のいない孤独な旅立ちでした。
今日はこの田中和彦さんの思い出を書きたいと思います。
彼は陸軍士官学校第57期生でした。陸軍中尉として戦闘機、隼(はやぶさ)に乗って活躍していました。
彼は旧制の中学校を5年で卒業し、競争率24倍の陸軍士官学校に入学し、予科終了後に上等兵として連隊勤務を経て、軍曹になり本科に戻ります。歩兵の兵科を第57期生として卒業後、航空士官学校に転校しました。
その時が昭和19年だったそうです。それを逆算すると陸軍士官学校入学は昭和16年以前に想定されます。
さて航空士官学校では陸軍97式高等練習機で150時間の操縦訓練を受け、続いて隼(はやぶさ)という戦闘機で150時間の訓練を受けました。実戦には出撃しませんでしたが陸軍の戦闘機編隊を満州まで運ぶための渡洋遠距離飛行に参加しました。
終戦の時は陸軍中尉でした。戦後は大学に入り、実業界で外資系会社の日本支社の代表取締役を歴任し、その後は自分で会社を作り社長を18年間務めました。
このような経歴を書くとぎらぎらした欲深い人間のように見えますが、田中和彦氏は実に温厚な紳士でした。下に戦闘機の写真を示します。
1番目の写真は田中氏が操縦訓練を受けた陸軍97式高等練習機です。写真の出典は、
https://twitter.com/rikugun_kokuki/status/653429793506000896 です。
この飛行機の生産数は3710機で、陸軍練習機では最も多く、沖縄戦では多くの機体が特攻機として出撃している戦闘機でした。
2番目の写真は一式戦闘機、隼(はやぶさ)です。
3番目の写真も一式戦闘機、隼(はやぶさ)です。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BC%8F%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F です。
隼の開発と製造は中島飛行機、そして製造は立川飛行機も加わりました。隼は陸軍の主力機として使用されます。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位でした。

4番目の写真は海軍の零式艦上戦闘機です。

さて田中氏が陸軍士官学校で受けた教育について概略を示します。
本科の教育内容:
戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施された。

田中和彦氏の話によると真珠湾攻撃後は急に予科、本科ともに修了年限が短縮され実戦向きの内容に変更されたそうです。
しかし英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語は最後まで教科の中にあり田中氏はロシア語を最後まで勉強していたそうです。
さてここで田中和彦氏の家族関係をご紹介したいと思います。
父上は陸軍少将で日中戦争で戦死しました。実兄は陸士53期で大佐でした。終戦直前に満州に雪崩れ込んだロシア軍を迎え撃って戦死しました。
和彦氏が少年の頃は、連隊から当番兵が馬をつれて父を迎えに来ます。乗馬姿で出て行く父の姿を毎日見て育ったそうです。何も考えずに自然に陸軍士官学校に進むような家庭環境だったのです。そして戦後は大手商社に勤め結婚しました。しかし不運にも奥さんは若くして他界し、一人娘も病死し血縁者が誰もいなくなったのです。何年か前に「せらび」という老人ホームに入居しました。私は「せらび」の田中さんを何度も訪問しました。
感動したことは「せらび」の受付やその他のスタッフが心優しいことことでした。田中さんは誰も血縁者のいない晩年でしたが周囲に心優しいスタッフがいたのです。
最後に、友人だった田中和彦さんのご冥福を祈ります。

今日は友人の死にまつわることを書きました。日本の昭和時代というものも書きたかったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)