後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「陸軍士官学校59期生、立石 恒少尉候補生の追悼」

2023年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は昭和はどのような時代だったかを書いてみたいと思います。
私の母の弟は戦前に陸軍士官学校の教官をしていました。その陸軍士官学校の卒業生が2人近所にいて親しくしていました。第57期生の田中和彦さんと第59期生の立石 恒さんです。
ご両人ともこの夏に旅立ちました。田中和彦さんの追悼記は11月4日に次のように掲載致しました。「第二次大戦中に航空隊で活躍した田中和彦中尉の孤独な死」。
今日は立石 恒さんの追悼記を書きたいと思います。
立石 恒さんは温厚な紳士でした。よく珍しい外国のビールや珍味を頂きました。お互いの家で一緒にビールを飲んだものです。
立石さんは陸軍士官学校59期生でした。その立石 恒さんからお聞きした話を書きます。
18年4月に入学した予科は修了期間が非常に短縮されたとはいえ、旧制高等学校とほぼ同じような外国語も含めて一般教養科目の教育を受けました。
しかし昭和19年10月に兵長として入学した神奈川県、座間(相武台)にあった本科の教育は、急を告げる戦局を反映して全く変更していました。
その概略は次の通りです。
(1)大本営をはじめ、政府の組織と天皇陛下は長野県の松代の地下要塞に移転する。
この松代の地下壕の現在の写真を4枚末尾に示したのでご覧下さい。
(2)米軍の上陸地点は九州南部に昭和20年10月、そして関東の九十九里浜と相模湾海岸には昭和21年初頭と判断しました。
この陸軍本部の予想は米軍のサイパン、硫黄島や沖縄の上陸作戦を見て決めました。
米軍は常に広い砂浜に多数の上陸用舟艇で一挙に上陸して来るのです。地形を考えると九州南部の志布志湾と鹿児島県の大隈半島の砂浜がまず米軍が上陸する場所と推定したのです。
九州に前進基地が出来たら、次は首都圏を西と東から攻撃する計画です。
この陸軍参謀本部の推定は米軍の本土上陸計画と完全に一致していたことが終戦後に判明したのです。

それはさておき、立石 恒氏の陸士本科で受けた教育は「第59期第13中隊第一区隊記録」という手書きの資料にありました。
昭和19年に予科を終了した後、9月15日に予科生徒隊が編成されて立石氏は兵長として第13中隊に入れられたのです。
そして10月14日から1226名の本科の教育が始まったのです。
教育内容は、防空作業、射撃訓練、築城訓練、築城作業、銃剣術、地雷訓練、地雷処理訓練、馬術訓練、機関銃訓練、毒ガス訓練、毒ガス教育、速射砲訓練、通信訓練、擲弾筒などに関する教育と訓練などだったそうです。
これらの本科の教育と訓練の合間には神奈川県海岸と房総半島の地形の授業が行われたそうです。
そして陸軍士官学校の卒業生は米軍の上陸に対抗する役割の他に長野県松代の大本営の近衛部隊としてその防衛も任務と言われていました。
昭和19年から20年8月の終戦までの陸軍士官学校の本科の教育内容は本土決戦に参加する陸軍将校の実戦的促成教育だったのです。
私が考えていた下記の諸問題は全く完全に無視されたいたのです。
(1)アメリカの航空母艦や上陸用舟艇の性能
(2)海外に展開した日本軍の弾薬と食料の補給方法について
(3)敵兵の捕虜の取り扱いに関すること

それにしても昭和20年8月にポツダム宣言を受諾して良かったかも知れません。
もしそれが遅れたら九州も本州でも沖縄戦のように膨大な人命が失われたのです。戦争は絶対に、何があっても始めるべきではありません。嗚呼!

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は見学者用に整備された松代の大本営の地下要塞の入り口です。
2番目の写真は大本営の地下要塞の坑道です。見学者用に整備された地下要塞はごく一部だけです。

3番目の写真は平和運動をしているアメリカの学生が坑道を見学している様子です。
4番目の写真は地下要塞の設計図です。陸海軍の本部だけでなく中央官庁や天皇陛下も入れるよな巨大な地下要塞です。
5番目の写真は現在の観光用の松代城の城門です。天守閣はありませんが観光客が沢山入っていきます。門の前は土産物屋が並んでいて美味しい栗菓子をいろいろ売っています。松代は現在、大本営跡の坑道と松代城が観光客を集めています。
===参考資料=========================
(1)立石 恒氏の略歴
1926年、大正15年2月7日、奈良県郡山市に生まれる。享年97歳。
昭和18年3月、兵庫県の旧制中学校卒業後直ちに競争率20倍の陸軍将校予科に合格。
昭和19年9月、予科終了。10月に士官候補として本科に入校。
昭和20年8月終戦にともない、同校中退。
戦後は京都大学に入り、昭和24年に東京銀行に入社。停年まで勤務し、最後は東京銀行大阪事務所の所長でした。
停年後に大手菓子製造会社の常務取締役などを務める。かたわら東京簡易裁判所の調停委員として社会奉仕をする。

(2)立石 恒氏からご提供頂いた文献
1、「第59期第13中隊第一区隊記録」という手書きの資料
2、土門周平ほか著、「本土決戦」、光人社、2001年発行
3、井上寿一著、「戦争調査会」、講談社、2017年発行
4、五九会発行、「望台」、陸軍士官学校第59期生史、、全303ページ
5、「陸軍士官学校第60期生史」、第60期生会発行、全502ページ