後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ホロンバイル平原の風景写真」

2023年11月25日 | 写真
ホロンボイルは、中華人民共和国内モンゴル自治区北東部にあります。地名はモンゴル語です。東西 630 キロメートル、南北 700 キロメートル、総面積 264,000 平方キロメートルで、山東省・江蘇省の面積の総和より大きいのです。人口は約269万人です。



「嗚呼、懐かしい昭和時代」、その(1)「消滅した満州の日本人学校」

2023年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和天皇の在位期間[である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まででした。 私は1936年に生まれましたので昭和時代が終わった1989年には53歳でした。人生の大部分は昭和時代だったのです。
日本の歴史のなかで昭和時代は激動の時代でした。満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続き昭和20年に敗戦です。全国の津々浦々をアメリカ兵が占領して戦後がは始まったのです。それは正しく激動の時代でした。
その激動の時代が終わって今年は34年目です。34年も過ぎてしまうと悲しかったこと忘れ、ただ懐かしく思います。
そこで今日から懐かしい昭和時代のことを連載にして書いてみたいと思います。その(1)は満州にあった日本人学校の消滅のことです。その卒業生の母校が消滅したのです。
昭和の太平洋戦争で300万人以上の日本人が犠牲になりました。日本軍は中国やアジア諸国を侵略して2000万人以上の人を殺したと言います。
戦争の最大の悲劇は貴い命を失うことです。これ以上の悲劇はありません。
しかし戦争はこの他に様々な悲劇を起こします。例えば日本の1945年の敗戦によって海外にあった日本人学校が一切消滅してしまったのです。学んでいた学童や生徒は驚愕し深い悲しみを覚えました。この悲劇は朝鮮、樺太、台湾、満州、そして南洋の地で突然起きたのです。海外にあった学校はみんな東京にある文部省が管理し日本の教育をしていたのです。
これらの地の学校の消滅を体験をした学童や生徒はその悲しみを生涯忘れることが出来ません。
以下では一つの例として満州にあった日本人学校の消滅の悲しみをお送り致します。
私の友人の竹内義信君は大学時代の旧友でした。しの彼が通っていた遥かなる満州のハイラルにあった日本人学校がロシア軍の侵略で突然消滅してしまったのです。楽しかった小学校が終戦とともに忽然と消えてしまったのです。
苦しい引き揚げの末、日本に帰ってきた竹内君は新潟県の小千谷市の中学、高校で学び大学を卒業します。しかし母校の小学校が消滅したことだけは酷く悲しんでいました。満州のハイラルにあった小学校を思い出しては悲しんでいました。
それが鄧小平の日中友好の時代がやって来ます。竹内君は何十年ぶりかに懐かしハイラルの小学校を訪問したのです。その小学校で一緒だった同窓生とともに訪問したのです。
そして日本に帰ってから数年間、ハイラル小学校の同窓会報を出し続けたのです。そしてその会報を収集編纂して、「草原明珠」という本を作ったのです。
1番目の写真が「草原明珠」という本です。
この「草原明珠」という本は2001年に発刊され、720ページの本です。国会図書館にも納められています。「草原明珠」とは草原のなかの美しい真珠のようなハイラルという意味です。
この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
上記のうち今日は(4)と(5)について少し詳しく説明します。

(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
日本が武力占領した外国に日本の学校を作ることは現地の人々を差別することです。
しかし例外もありました。満州の旅順工業大学の教授陣は日本の帝国大学から派遣されましたが、学生の大部分は満州人でした。その一人に瀋陽の東北工科大学の学長だった陸先生がいました。1981年に瀋陽に行ったとき陸先生は懐かしそうに、「旅順工大はとても良い大学でした」と言います。聞くと差別も無く教授が皆親切に指導してくれたと感謝しているのです。
これは例外的な学校でしたが、海外の日本の学校の実態を記録することは歴史的に重要なことです。しかしそんな記録は殆どありません。
(5) 学校の消滅と同窓生の悲しい運命、そして日中友好事業
日本人にとって母校の消滅は悲しい衝撃的な出来事です。「母校」という言葉が示すように卒業した学校は母のような存在のです。
ですから同窓会誌の合本の「草原明珠」には曾て在校していた数百人の悲しい思い出がビッシリと詰っています。「嗚呼、ハイラル思い出集」という特集号が何巻も合本されています。この本は数百人の悲しい涙と感傷の缶詰なのです。
しかし喜ばしいことも書いてあります。
この同窓会は現在のハイラルにある中国の「文化街小学校」への友好訪問をしたのです。正式には5回、非公式に同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
それは鄧小平の日中友好の時代の1980年代から1990年代にかけてでした。
第一回は1988年で48名が参加しました。その感想文は190ページから198ページに掲載されています。感傷的な感想文が主なものですが、その中には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容のものが多かったのです。
昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。
日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。
日本側がハイラルの為にしたことはそれだけではありません。その周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。その経過はすでに2015年2月20日掲載の次の記事にあります。「竹内義信著、「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業」をご覧頂けたら幸いです。
上記のハイラル小学校の同窓生が感傷だけに溺れないで中国人と友情を育んだのは実に良いことでした。
特に江沢民主席と小渕総理の合意にもとづいた小渕基金で40カ所以上の中国の場所で植林事業したのです。このハイラルの例はその中の一例に過ぎないのです。
我々日本人も中国人も日中熱烈友好の時代が存在していた歴史を忘れるべきではないと思います。
満州建国は永遠に日本の負の遺産として残りましたが幾つかの心温まるエピソードもあったのです。今日はその一例をご紹介しました。

挿し絵代わりの写真は現在、中国の東北にあるホロンバイル平原の風景の2枚の写真です。すぐ西にはロシアの国境が近い所です。蒙古族の住んで居るので中国領の内蒙古自治区の一部になっています。(写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1016966-d1718080-Reviews-Hulunbuir_Old_Town-Hulunbuir_Inner_Mongolia.html です。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)