後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武蔵野の最後の黄葉を見ながらテロの続いた今年を振り返る

2015年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今年も間も無く暮れようとしています。
先週行った黒目川の水源地の武蔵野の黄葉の写真を眺めて楽しんでいました。
その写真をここに示します。





これらの写真をみながらどうしても脳裏に浮かぶのが後藤健二さんの殺害から始まった今年のテロ事件の数々です。
日本のマスコミでは後藤健二さんと湯川遙菜さんの殺害とフランスとアメリカのテロ事件しか大きく報道されていません。しかしデンマークやトルコやチュニジアやケニアやクウェートやバングラデシュやエジプトやレバノンや西アフリカやナイジュリアなどで合計18件もの残忍なテロ事件が起きたのです。
今年の世界はテロに揺れた一年でした。
幸い日本はイスラム世界とキリスト教世界の闘争には巻き込まれず、日本国内におけるテロ事件は有りませんでした。
しかし以下に示す今年の世界のテロ事件の一覧を見ると怖くなります。
「イスラム過激派とテロ事件の歴史」http://homepage2.nifty.com/hashim/terror4.htm
2015/01/07 仏週刊新聞「シャルリー・エブド」が襲撃され、17人死亡
2015/01/20 ISIS(イスラム国)が二人の日本人の人質を取って身代金を要求する動画がインターネット上に公開される
2015/01/24 湯川遙菜さん殺害動画がインターネット上に公開される
2015/02/01 後藤健二さん殺害動画がインターネット上に公開される
「アベ(安倍晋三首相)、勝ち目のない戦争に参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフはケンジを殺すだけでなくお前の国民がどこにいようとも虐殺をもたらすだろう。日本の悪夢が始まる」と脅迫
2015/02/14 デンマークの首都コペンハーゲンでイスラム教と言論の自由に関する討論会の会場を狙った銃撃、1名死亡。
翌日未明にシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)付近でも銃撃、1名死亡。
2015/03/18 チュニジアの首都チュニスのバルドー博物館で観光客に対して銃撃。日本人3名を含め19名死亡。
2015/04/02 ケニア東部ガリッサで覆面姿の武装集団が大学を襲撃。約150人死亡。ソマリアのアル・シャバーブが犯行声明。
(アル・シャバーブによる大規模テロとしては、2010/07/11、2013/09/21も参照)
2015/06/26 フランス南東部のガス工場に侵入した車が爆発するとともに、頭部が切断された遺体が発見。
2015/06/26 クウェート市内のシーア派モスクで自爆テロ、27人以上が死亡。クウェート国内でのイスラム国関連のテロは初めて
2015/06/26 チュニジアのスースで高級リゾートホテルを襲撃、39人以上が死亡。イスラム国が犯行声明。
2015/10/03 バングラデシュ北部ラングプールで農業に従事していた日本人男性が銃撃され、死亡。イスラム国が犯行声明
2015/10/10 トルコの首都アンカラ、アンカラ駅前で2度の自爆テロ。95人以上死亡。
2015/10/31 エジプトのシャルムエルシェイクを出発したロシアの航空機がシナイ半島上空で墜落。乗客乗員全員224人死亡。「イスラム国シナイ州」が犯行声明
2015/11/12 レバノンの首都ベイルートのヒズブッラー支配地域で連続自爆テロ、43人死亡。「イスラム国」が犯行声明。
2015/11/13 フランスの首都パリで、劇場、レストラン、サッカー場など6カ所で銃撃・自爆テロが同時発生。120人以上死亡。「イスラム国」が犯行声明。フランス史上初めての組織的な自爆テロ。仏政府は全土に非常事態を宣言。
2015/11/20 西アフリカ、マリの首都バマコで米系高級ホテル「ラディソン・ブルー」を襲撃、人質約170人をとる。27人以上死亡。
2015/11/24 チュニジアの首都チュニスで大統領警護隊が乗ったバスが爆発、隊員ら12人以上が死亡。
2015/11/27 ナイジェリア北部カノ州の村でシーア派の行進を狙った自爆テロ。21人以上死亡。
そして、サンバーナーディーノ銃乱射事件 は、2015年12月2日、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンバーナーディーノの障害者支援の福祉施設で、重武装した2名によって発生した銃乱射事件がありました。事件現場にて14名が死亡、重軽傷者17名。事件発生後に事件現場から数マイルの住宅街で、警察によって容疑者二名(男1、女1)が射殺された事件です。

それにしても日本は平和な一年でした。
一般市民をカラシニコフ自動小銃で乱射する事件も起きていません。そして自爆テロも皆無でした。
中東のイスラム教諸国は明治維新以来の日本の外交や戦争をかなり好意的に評価している様子です。安倍政権がアメリカ主導の「テロとの戦い」の戦列に加わろうとしていますが、多くの国民は反対しています。
フランス、アメリカ、親米のアラブ諸国はシリア国内のイスラム国陣営を爆撃していますが、日本が戦闘機や爆撃機を派遣する可能性はありません。
こんな事情をイスラム教諸国は冷静に見ているのでしょう。
元来、イスラム教とキリスト教との歴史的な抗争には日本は無縁でした。今後もこの方針を貫き通すのが賢明な外交政策と信じます。
国際情勢は複雑に揺れ動いています。
来年も日本が安全な国になるようにお祈りする他はありません。

どうぞ来年も日本にテロが起きませんように、!そして世界中からテロ事件が無くなるように!心からお祈りいたします。
===参考資料=============
何故カラシコフ自動小銃はテロに使用されか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%95
カラシコフ自動小銃AKはシンプルな設計で量産にも向いており、「どんなに乱暴に扱われても壊れない」「グリスが切れようが水に浸かろうがまだ撃てる」と言われるほどの、並外れた耐久性を備えていた。このため旧共産圏をはじめ、発展途上国等でライセンス生産品やその改良型、コピー商品が続出した。半世紀を経た後も世界中で広く用いられている。
彼の設計した小火器は、一般にソ連の兵器らしく簡潔な設計で、並外れて耐久性に優れ、過酷な環境でも確実に作動して、多くの軍人からの信頼をかち得た。
ミハエル・カシニコフは1946年に後にAK-47として知られることになる全自動発射可能な自動小銃を設計した。その年に行われた試験で他の小銃と比較した結果、信頼性と火力の高さを評価され、既に1946年に半自動式のSKS(シモノフ・カービン)が制式採用されていたにもかかわらず、新たにAK-47の生産が決定される。1949年からソビエト連邦軍内で配布が始まり、1950年代中期以降は広く普及した。のち改良型・派生型の「AKM」や「AK-74」も出現している。以下省略。

私の考えは甘かった、アメリカの人種差別

2015年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカは日本を占領し、飢えに苦しむ日本へ食糧援助をして助けてくれました。
その上、戦争放棄を高らかにうたった新憲法を作ってくれて日本人に非常に喜ばれました。毎日、空襲され恐怖におののいていた国民は戦争が無くなることを大歓迎したのです。
そして海外の戦場から命からがらで帰って来た兵隊さんたちは「もう二度と戦争は嫌だ!」と骨身に沁みていました。満州からの引揚者も戦争はコリゴリしていました。
当時の日本人はみな戦争放棄憲法に胸をなで下ろし新憲法の発布で歓喜したのです。
NHKのアナウンサーは盛んに戦争に関する街頭録音をして、最後は「戦争はいやですね」という決まり文句で締めくくっていたものです。
その時代は国民全体が戦争の悲惨さの体験が骨身に沁みていた時代でした。
そのような時代の雰囲気を現在の日本人は忘れつつあります。それも時代の流れです。
ところで私事で恐縮ですが、私はアメリカに留学し、アメリカで日本人の婚約者を迎え結婚しました。アメリカ人の先生や同級生に親身のお世話になったのです。
ですからアメリカ人は私の恩人です。どんなことでもアメリカの肩を持つようになったのです。
キング牧師の公民権運動でアメリカの黒人差別が無くなりました。
私は黒人差別が無くなり、その上黒人のオバマさんが大統領になった時は大変嬉しかったものです。
しかし私の考えは甘かったのです。
来年の大統領選挙の共和党指名をかけた選挙運動で人種差別主義者のトランプ氏が有力になっているのです。
イスラム教徒入国拒否とメキシコ人差別を主張しているトランプ氏の支持率が一位なのです。ワシントン・ポストとABCテレビの12月15日の共同世論調査ではトランプ氏の支持率が38%で断然トップなのです。続くクルーズ氏が15%、ルビオ氏が12%、ブッシュ氏が5%という結果だったのです。
トランプ氏がイスラム教徒入国拒否とメキシコ人差別を公言した時は冗談ではないかと思いました。
何でもアメリカ贔屓(びいき)の私はアメリカ人の良識を信じています。いずれトランプ氏は大統領選挙の「あだ花」として消え去ると思っていました。
しかし依然として共和党候補の一位の座を守って独走しているのです。
アメリカでの人種差別の実態を見るようで失望を禁じえません。
アメリカでは黒人と白人の結婚が増大しています。やれやれこれで黒人差別は亡くなると安堵していました。しかしもっと深く考えてみると家庭内でも差別が消えないのかも知れないのです。
人種差別に対する人間の本性は何時になっても牢固として消えないものでしょうか?
トランプ氏の発言は日本人の心の中にある人種差別の考え方を勇気づけることでしょう。
人間の文化は人間の悪い本音を抑えて善い考えを前面に出すようにしたいと思います。この考えも甘すぎるでしょうか?皆様のご意見をお聞かせ下さい。

今日の挿絵代わりの写真は昨日撮ってきた奥多摩周遊道路と甲州に抜ける柳沢峠の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









時代が変わっても宮沢賢治の作品は愛されている

2015年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢賢治は悲しい、美しい物語を沢山書きました。
その物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。
彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。
随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて現在の日本人の心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。時代が変わっても宮沢賢治の作品は愛されているのです。
この私のブログでも賢治の鳴らしている鐘の音を聞こうと何度も記事を書いては掲載してきました。
以下に過去に掲載し記事の一覧を、末尾に示します。それぞれの記事の後ろに掲載年月日が示してあります。記事の題目を眺めて、ご興味のあるものをバックナンバーから探してご覧頂ければ嬉しく思います。ブログは、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama です。
そして特に「銀河鉄道の夜」を詳しく書きましたので、下に2編の記事を再録致しました。どうぞ貴方自身の「銀河鉄道の夜」を探す旅にお出かけ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===2013年月25日掲載記事:あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会、2013/10/25===

(1番目の写真の出典は、http://gensun.org/pid/86817 です。)
宮沢賢治の作品は彼の心象風景や謎めいた表現が沢山書き込んであります。ですから読む人はその心象風景や謎めいた表現を自分なりに想像してしまいます。
そうすると宮沢賢治の作品は彼から少し離れて、読んでいる人特有のものになるのです。大げさに言えば宮沢賢治の作品は読者の数だけ違ったものになるのです。
「あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」」とはそういう意味を込めているのです。ですから、私の「銀河鉄道の夜」も、読む自分の年齢にしたがって違ってきます。賢治の作品を何度も読み返している人が沢山いるのはそのせいもあるのでしょう。
そこで筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の中にある「銀河鉄道の夜」をもう一度読んでみました。
第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。
その中で何故か「銀河鉄道の夜」には、私にとって理解できない謎が沢山あって、気になって仕方が無い作品なのです。
しかしいずれは私もこの銀河鉄道に乗る運命にあると感じるようになって来ました。自分がこの世と別れて「銀河鉄道」に乗ったと考えて、この作品を読んでみると書いてあることがよく分かるのです。
この作品のあらすじです。
夏の夜空にかがやく天の川には銀河が流れていて、そこに鉄道があり列車が走っているという話です。人間は死んで天に登り、星になる。ですから銀河鉄道の汽車に乗っている人は死んだ人です。
主人公のジョバンニ少年が、星祭りの夜に水死した親友のカンパネルラを探しに行きます。カンパネルラは、水に落ちて溺れそうになっている友人のザネリを助けるために飛び込んで、水死したのです。一方ザネリは助かるのです。
カンパネルラを探そうと暗い丘に登って行きます。そしてジョバンニは、いつの間にか銀河鉄道の汽車に乗っているのです。そして其処でカンパネルラを見つけ、一緒に汽車の旅をします。
その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つだけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時、無理にボートに乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。
3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから「タイタニック號」という名前は書いてありませんが、私はそのように想像しています。
最後に、一緒に乗っていたカンパネルラもみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは降りて現世に帰る時が来ます。
親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り、病気の母親を助け、真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの世の悲しみが滲んでいるのです。涙が出て来るのです。
もう一度読んでみてこの作品のキーは死んでしまった愛する人と再開するという奇蹟です。
再開出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。
カンパネルラは川に落ちたザネリを救って、自分が死んでしまうのです。
友のために死んだ者は天国へ行くのです。
行方不明になったカンパネルラの捜索を見ながら、彼の父が自分の腕時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
この一言に父の悲しみが溢れています。ですからこそジョバンニは死せるカンパネルラともう一度会わねばなりません。
そして銀河鉄道の中でカンパネルラを見つけるのです。(続く)

(2番目の写真の出典は、http://www.tokyo-np.co.jp/tochigi/watarase/1998/11/です。)
===そして、あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没など、13/10/26====
(3番目の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/rocky1010akio/folder/1148396.html?m=lc&p=5です。)
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は難しくて自分には分からないと言う人が多いものです。
しかし非常に感動的で、内容の深い、そして美しい作品であることには間違いありません。
そこで何故、難解なのかを考え、自分流に編集しなおして読むと明快になります。すなはち「私の銀河鉄道の夜」にするのです。
優れた文学作品を編集し直すということは不遜過ぎると怒ってはいけません。こんな読み方も
あるという単なる一例なのです。
この作品の難解な部分は、「銀河鉄道の夜」の下記の章です。
七、北十字とプリオシン海岸、
八、鳥を捕る人、
九、ジョバンニの切符、と終わりまです。
この部分は筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の、255ページから300ページと45ページもあり長いのです。
一方、その前の部分は六つの章に分かれているのに、231ページから254ページまでの23ページと短いのです。
何故そうなったのでしょうか。
それは昔岩手県にあった軽便鉄道をモデルにした銀河鉄道がこの物語の主題だからです。そして作者はこの銀河鉄道の客車がこの世のものでなく、あの世の列車だと強く描きたかったからです。
そのためには客車に乗っている人々も、車窓から見える景色も超自然的に描かねばなりません。
不思議な印象を読者へ与えなければいけません。車窓から見える風景もこの世の常識では理解されないものです。それは夢幻の世界なので脈略がありません。一貫したストーリがあってはいけません。
その上、登場人物も風景も数が多過ぎます。
それは宮沢賢治の脈略の無い心象風景の連続なのです。情熱を込めて書き込んだ部分なのです。
下に車窓から見える白い鳥の写真を示します。この4番目の写真の出典は、http://www.voiceblog.jp/ilmuffin/car36.htmlです。

ある人の心象風景を他人が読んで理解出来る筈がありません。その世界にスッと入り込でしまえばよいのですが、それが難しいのです。
私は登場人物や風景を自分好みに省略して、以下のようにしました。
七、北十字と乗客たちのキリストの賛美と信仰、
八、鳥を捕る人の不思議さ、そして灯台守の話、
九、豪華客船沈没で死せる人々、
十、友との訣別とジョバン二のこの世への帰還、
上の七の始めの部分で、車窓から、青白く後光の射した島の上に白い十字架が見えたと書いてあります。それは北極の方角でした。
客車の全ての乗客は立ち上がって、ハレルヤ、ハレルヤ、と神を賛美し、信仰が篤い様子です。
これが北十字の部分です。
法華経の宮沢賢治がキリスト教の信者のことを書いたのです。何故でしょうか?
そもそもこの童話の舞台はキリスト教を信じている西洋のある国と設定されているのです。
死んで銀河鉄道に乗ってくる人々は一応キリストの信者なのです。
あの世に行くということはイエス様の足もとに行くことなのです。ですから当然、始めの部分に
北の十字が出てきます。そして終わりの部分に出て来る南十字星へと繋がって行くのです。
宮沢賢治は熱心な仏教徒でしたがキリスト教も好きだったのです。
この同じ章にあるプリオシン海岸は飛ばし読みます。
八、鳥を捕る人の不思議さ、そして灯台守の話、
この部分は6ぺージくらいしかありません。
鳥を捕ってそれを平らな形のお菓子にしてしまいす。それを商売にしている人が乗り込んで来るのです。
その鳥を捕る人は、列車が停車すると、客車の外に出て、空から降りてくる鳥の足を次々につかまえるのです。つかまえた鳥を大きな袋に入れるのです。
袋の中で鳥たちの目が光っていますが、次第に弱々しくなり、しまいには消えてしまいます。
鳥の息が絶えたのです。そうするとその鳥たちは平べったいお菓子に変わるのです。
そして客車に帰ってきた鳥捕り人は、その鳥のお菓子をちぎってジョバンニとカンパネルラへ
与えるのです。傍の灯台守も調子よいことを言いながら一緒に食べます。
内容が不思議な上、童話的に面白いので誰でも丁寧に読むと思います。飛ばし読みはしない方が
良い部分です。
九、豪華客船沈没で死せる人々、
丁度、宮沢賢治がこの童話を書いている頃にタイタニック号が沈没します。
そして、ある豪華客船に乗っていた少女と弟と、その家庭教師がずぶ濡れになって銀河鉄道に乗り込んでくるのです。みんな裸足で、青ざめています。
この部分は268ページから296ページまでの28ページもある長い部分です。
九の豪華客船沈没で死せる人々、と 十の友との訣別とジョバンニのこの世への帰還、
を纏めて、原本では、一つの章にして、「ジョバンニの切符」という題にしています。
そこで私はそれを二つの章に分けて読みやすくしてみました。
その上、九 豪華客船沈没で死せる人々、を読むときは死んだ少女とカンパネルラやジョバンとの会話を拾い読みすると脈絡がつながって明快になるのです。
そして、十の友との訣別とジョバンニのこの世への帰還、の始めの部分の296ページで、カンパネルラが不思議な石炭袋のそばで本当の天上を見つけるのです。そこに、先に死んでしまったカンパネルラの母が見えるのです。(カンパネルラの水死の場面で父親しか描かれていなっか謎が解けるのです。)
カンパネルラはアッというまに母の方へ飛んで行ってしまいます。訣別がこうして起きるのです。
「ジョバン二はまるで鉄砲玉のようにたちあがりました。そして誰にも見えないように窓の外へからだを乗り出して、力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱいなきだしました。」
その後、ジョバンニはこの世に帰ってくるのです。そして母と一緒に住むのです。
この部分は5ページだけです。

この悲しい、美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。宮沢賢治の多くの作品の基調低音と同じです。彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。
38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。(終り)

==下は宮沢賢治についての私のブログの掲載記事です==
(後藤和弘のブログ、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)

(1)宮沢賢治の作品を気楽に読む・・・注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドン   グリと山猫、よだかの星、、、掲載年月日:2013/10/27
(2)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没   など 2013/10/26
(3)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水   死と再会 2013/10/25
(4)宮沢賢治、「銀河鉄道の夜」・・・あなたの銀河鉄道、私の銀河鉄道、2013/10/24
(5)「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 2013/10/24
(6)金子みすずの童謡詩と鯨の戒名  13/04/10 
(7)みにくいヨタカの姿・・・宮沢賢治の童話「よだかの星」の鳥 、13/04/04
(8)宮沢賢治の作品を気楽に読む(11)完結編:注文の多い料理店、風の又三郎、オッペル   と象、ドングリと山猫、よだかの星、、、12/06/01
(9)日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・そして宮沢賢治のこと、    12/05/09
(10)宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から生まれた詩、       12/05/09
(11)宮沢賢治の信奉していた法華経と国柱会の説明、12/05/08
(12)宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか?  12/05/08 
(13)宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?  12/05/08
(14)宮沢賢治の作品を気楽に読む(8)「注文の多い料理店」の序、12/05/08
(15)37歳で逝った賢治の親不幸・・・そして残された原稿の山、12/05/04
(16)宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治、12/05/03
(17)宮沢賢治の作品を気楽に読む(6)膨大な作品群に踏み迷う、 12/05/02
(18)宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版、12/04/20
(19)宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から、12/04/20
(20)宮沢賢治の活躍始まる・・・農学校、羅須地人協会、東北砕石工場技師、そして東京、    樺太、大島への旅、12/04/17
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品、12/04/16
(22)宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院、        12/04/15
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(2)盛岡中学3年の頃、12/04/05
(22)盛岡高等農林学校と宮沢賢治、12/04/04 
(23)宮沢賢治の作品を気楽に読む(1)盛岡中学の頃、12/04/03
(24)突然ですが、宮沢賢治の「慟哭」という詩とその朗読をお送りします、11/11/01


どんどん変わる日本人の歴史観・・・消え行く自虐的歴史観

2015年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の昭和11年生まれで主に戦後の教育を受けた私は、満州を作り中国に武力侵入した日本は悪いと教わりました。そして真珠湾攻撃をして、東南アジアを占領した日本の歴史は悪い歴史だったと教わりました。
新制中学や新制高校で教わった歴史はアメリカ占領軍の指導によるもので、日本は間違った軍国主義のおかげでアメリカをはじめ近隣の諸国に不当な損害を与えたのですと教わりました。世の中に溢れる出版物も占領軍の検閲があるので、戦前の日本は悪かったという歴史観だけが横行していたのです。それに対してアメリカは東京裁判をして軍国主義の首謀者を断罪し、日本が再び軍国主義に走らないようにしたと教わりました。
新しい平和憲法では武力の放棄と再び戦争をしないという誓いが高らかにうたい上げられたのです。そしてその憲法が占領軍の押し付けであることは長い間秘密にされていたのです。
日本人が間違った武力行使を反省し高邁な憲法をみずからの手で作ったと信じられていたのです。
そのようなお陰で戦後すぐに新制中学や新制高校で教育を受けた高齢者は大東亜戦争は間違っていた、反省すべきだという歴史観を持っていたのです。
このように日本が悪い事をしたという歴史観は最近では自虐的歴史観と言われています。
そしてこのような歴史観を持っている高齢者はどんどんこの世を去り次第に消えつつあります。
最近の若い日本人は明治維新以来の富国強兵策は決して間違っていなかったと言うのです。欧米列強が植民地政策を強化拡大している歴史の中で、日本が独立を守るために武力を使いアジア諸国を植民地から解放したのです。それは日本がせざるをえなかった歴史の必然であり何も間違ったことではないというのです。間違ったことではないので何ら反省などする必要がありません。
ついでに言えば占領軍が勝手にした東京裁判は間違った裁判で、それは戦勝国が復讐の為にした悪い裁判です。
このように日本人の歴史観が変わって来つつあるのです。間もなく後期高齢者が死に絶えれば「自虐的歴史観」は歴史学の文献に残るだけになるのです。
こういう時代になってみると戦前の昭和15年に開催された「紀元は二千六百年の式典」を思い出します。
その歴史観によると日本は天照大神が作った国で、それ以来歴代の天皇が治めた2600年の輝かしい歴史があるというのです。
2600年前といえば縄文時代の末期、地方によってな稲作が始まり弥生時代にさしかかる時代です。
それはさておき、江戸時代の武士階級はどのような歴史観を持っていたのでしょうか?
奈良時代や平安時代の天皇を中心とした貴族政治を覆したのが源氏の源頼朝です。武士を中心にした政府を鎌倉に作ったのです。
ですから江戸時代の武士階級は鎌倉幕府以後の歴史は良い歴史だと思っていたのでしょうか?
武家が政権をとるのが正しい歴史だと考えていたのでしょうか?
しかしそれも幕末になると尊王攘夷などと再び天皇が重要視されるようになります。その結果明治天皇が大きな権力を持ったのでしょうか。
しかし江戸時代やそれ以前の日本人の歴史観には、隣国の中国の歴史観が大きく影響を与えていたと考えるのが自然ではないでしょうか。それは紀元前500年以上にわたる華麗な文化を誇る国の歴史です。そして王朝が武力闘争によって交代する歴史です。その歴史を学んだ武士階級は日本の歴史をどのように考えていたのでしょうか?
薩長土肥の諸藩が江戸幕府を倒すのは中國の王朝の交代のようにも見えます。そしてそれに欧米列強が干渉するのですから話は複雑になります。
それにしても日本は、欧米の植民地にならずによく独立を守ったと感慨深いものがあります。
同時に日本人の歴史観も時代の流れにしたがってどんどん変わるという感慨にもとらわれます。
今後の日本政府の国内政策や外交政策は自虐的歴史観を払拭した新しい歴史観によって進められるようになります。
安倍政権はすでにその方向へ動いているので軍備強化と憲法改正は歴史の必然として実行されて行くのです。しかしアメリカの戦争観の「テロとの戦い」という戦争観にはあまり深く巻き込まれないようにすべきではないでしょうか?

そんな感慨に関連して、今日は大和朝廷より古い歴史を持っていると考えられている諏訪大社の写真を示します。諏訪湖の航空写真以外はこの11月3日に自分が撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
諏訪大社の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE
『古事記』・『先代旧事本紀』では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主命の次男である建御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。
以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に土着の勢力の上に外から入った神氏によって成立したのが当社であると考えられている。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。以下省略。

上の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BEです。









それを見ると無我の境地になる風景写真を撮る

2015年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム
無我の境地になると幸せになるという。しかし私は無我の境地とはどういうものなのかは理解していません。
そこで少し調べてみましたら自己というものを無の境地に至らしめることという意味だそうです。同じような意味の言葉には「 心を無にする 」とか「 自我を滅する 」とか「 心頭滅却 」などという言葉があるそうです。
よく聞くのは座禅をすると無我の境地になると聞きます。
またある説明によると、 無我とは、自我がないという意味で、自我に対するとらわれ(自分への執着)を離れよという仏教の根本的な教えです。
「無我の境地」という境地は、よほどの修行を積まなければ到達できない精神状態だが、「無我夢中」という言葉もあるように、われわれ庶民にも時にはこの境地に達する瞬間があるのです。(http://www.fleapedia.com/五十音インデックス/む/無我とは何か/より抜粋)
更に調べると同じような意味の類語が幾つも出て来ました。
雑念を排除し、完全にものに執着しなくなった心持ちのことだそうです。
この状態を、 無心の境地 ・ 悟り ・ 無の境地 ・ 悟りの境地 ・ 無我 ・ 無我の境地 ・ 梵我一如 ・ 解脱 ・ 悟り ・ 入涅槃 ・ 無我の境 ・ 自己を滅却 ・ 没我 ・ 無心 ・ 大悟の境地 ・ 悟りの域 ・ 諦念 ・ 虚心 ・ 無私 ・ 滅私 ・ 明鏡止水の心境 ・ 明鏡止水の境地 ・ 恬淡の心境 ・ 没我の境地 ・ 無私無欲の境地 ・自己というものを無の境地に至らしめること 心を無にする ・ 無我の境地 ・ 自我を滅する ・ 心頭滅却 などなどと言い換えることが出来るそうです。
これだけ書き並べれば「無我の境地」とはどういう境地なのか少しは分かったような気分になります。
そして私は何故か静かな自然の風景を見ると自分が無我の境地に入ったような気分になります。修行もろくにしていない私の場合はそれは錯覚なのでしょう。
しかしそんな錯覚は気分の良いもので、つい何時までもそんな静かな風景を眺めているのです。
そのような風景を撮った写真を示します。

上は山梨県と長野県の県境に聳えている甲斐駒岳です。

上は甲斐駒岳の麓の里の風景です。

上は茅ヶ崎市の相模湾の海辺です。

上は神奈川県の相模湖です。

上は山林の小屋の窓から見上げた樹木のシルエットです。
このような写真を撮っている間は何故か無心になり風景の中に自分が吸い込まれるような気分になります。
決して無我の境地ではありませんがそれに近いような感じがします。
そして自宅で時々、デスクトップに大きく写して何度も眺めています。見てると気分が落ち着いて良いのです。
でもこれは無我の境地ではありません。風景を意識し観賞しているのですから無我でないのです。
無我の境地に入るのは無理で、ただ、その入り口の近辺をうろうろしているのです。
私の解釈はたぶん間違っているでしょう。どなたかお教え下さいましたなら深く感謝いたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:仏教で用いる「無我の境地」の意味====
仏教で用いる「無我の境地」の意味は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91に御座います。しかし説明が難しすぎて自分には理解できません。ただその難しさに驚いています。何方か易しく解説して頂けたら幸いです。

「今日は寒い日なのでランの花々の写真をお送りいたします」

2015年12月13日 | 写真
今日は日曜日でくつろいでいらっしゃると存じますますので、ランの花々の写真をお送りいたします。
ランは熱帯の花でしょうか? 何故か南国を思い浮べ暖かい気持ちになります。
今日は曇りで寒い日ですがランの花々の写真をご覧頂き気持ちだけでも暖かくお過ごしください。先日、花屋さんで撮って来た写真です。








クリスマスの真実と詩的で美しいストーリー、そして遥かな五島列島への旅

2015年12月13日 | 日記・エッセイ・コラム
間もなくクリスマスがやって来ます。カトリックではその前の4週間を待降節といってイエスさまの誕生を待ち望みます。
そして日本ではクリスマスの夜には楽しいパーティをする家々が多いと思います。家族が仲良く幸せになるのです。
子供のいる家では子供が寝ている間にサンタクロ-スがプレゼントを持ってきます。25日の朝の子供達の喜ぶ声が聞こえます。
これは日本の楽しい年中行事としてすっかり定着しています。
戦前生まれ、戦後育ちの小生の思い出の中にはクリスマスはありません。お正月が楽しかったのです。年齢も、お正月にみんな一斉に一歳増えるので誕生日のお祝いはありませんでした。
しかし戦後の復興が進むにしたがって、アメリカ占領軍の影響もあってかクリスマスが全国へと広がりました。経済の高度成長の頃には会社主催の豪華なクリスマスパーティが盛んでした。飲食街では三角帽子を被って酔った人達を見かけたものです。
それが次第に家庭中心の心温まる年中行事になってきたのです。
大変素晴らしいことです。
さてクリスマスはイエス・キリストが12月24日の夜から25日の明け方にかけて母マリアから馬小屋でうまれたということを祝う祭りです。
今日は、このクリスマスに関連する言い伝えや、歴史の真実と後の人が作った話などを気楽に雑談風に書いてみたいと思います。真実でなくても後の人が作ったものは詩的で美しいストーリーなのです。
日曜日の朝の雑談ですので気楽にお読みください。
まず歴史的な真実から書きますと、旅に出たヨゼフとマリアが宿屋の部屋が取れなかったので、イエスを外の馬小屋か羊小屋か納屋で産んだということは間違いの無い真実のようです。
2000年ほど前の当時の中近東のシリア地方(現在の地中海東沿岸一帯)は現地のヘロデ王が支配していました。しかしローマの軍門に下り、ローマ帝国が完全に占領します。ヘロデはローマへ忠誠を誓い、王権を認められたのです。賢い政治的妥協です。
当時のローマ皇帝はアウグストウスでした。
彼はローマの全領土の住民に、住民登録をせよと勅令を出したのです。全住民は急いで出身地へ戻って、住民登録をしなければいけません。
多くの人々が急に旅をするので当然、宿屋が足りなくなります。
ナザレで大工をしていたヨゼフと、身ごもっていた妻マリアが出身地のベツレヘムの町に着いた時はすでに宿屋が全て満員でした。
寒い野外で夜を明かすよりは馬屋か納屋の中の方がまだましです。
その馬屋の中でマリアがイエス様を生むのです。そして飼い葉桶の中に藁を暖かく敷き、生まれたばかりの赤子を寝かせるのです。
この辺の聖書の記述はローマ皇帝アウグストウスの勅令とも合致するので真実だと思います。
しかしイエス様の生まれたのは約2000年も前のことです。正確な月日など分かる筈が有りません。
そこで次第に冬至の頃と設定して誕生を祝う人々が増えてきました。そして12月24日に定着したのです。冬至から次第に日が長くなりやがて春が来るのです。ですから冬の暗い北ヨーロッパでは原始宗教の祭りとして冬至祭が盛大でした。
それとキリスト教が混淆したので冬至に近い、12月24日の夜から翌朝にかけてキリストの誕生日を祝うことになったのです。北方民族の冬至祭と合流したのでサンタクロースはフィンランドの森に住んでいるのです。
サンタクロースは4世紀に実在した子供好きの聖ニコラスがモデルになっているようです。しかし彼は南で活躍していたのでフィンランドの森という話は詩的で美しいストーリーに過ぎません。
さて12月25日に明け方イエスさまが生まれたことになっています。
その時、シリアの東方の砂漠の部族の3人の賢者が星に導かれて拝みにきます。これが後に、「東方の三賢者」と伝わっています。これも確証がありません。
しかし星に導かれて3人の賢人が砂漠を歩く姿は何故か美しさを感じさせます。詩的な虚構です。
それから処女マリアが聖霊によって身ごもったというのも宗教的なストーリです。
新約聖書にはヨゼフが自分の憶えのない子をマリアが身ごもったので誰にも知られないようにマリアを離縁しようとしたと書いてあります。これは人間感情として本当だったと思います。しかしヨゼフはこの子を受け入れるのです。
このような歴史的真実と神秘的で美しいストーリーの混在はどの宗教にもあるものなのです。
お釈迦様が4月8日に摩耶夫人の腋の下から産まれたので、その日は楽しい「花祭り」をします。それも歴史的真実ではなく宗教的ストーリです。
それはさておき、私はカトリックの信者です。当然、すべての宗教的虚構を大切に思っています。尊重しています。それが私にとっては当然の姿勢です。理科系の教育を受けた自分が奇跡物語りを信じているのが不思議です。
日本のカトリック信仰は1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ第一歩を印したときに始まります。クリスマスは彼が日本へ持ち込んで来たものです。
今年の4月には始めて遥かなキリシタンの島、五島列島への旅をしました。人の近づけないような急峻な山に囲まれた小さな浜に建っている美しい天主堂を見ました。そして 狭い五島列島にはカトリックの教会が50ケ所もあるのです。五島出身の26聖人の一人、ヨハネ五島の磔の像も見ました。そして擦り凹んだ踏絵の真鍮のイエス像もありました。どれもこれも江戸幕府の過酷なキリシタン弾圧を耐え、信仰を守ろうとした証(あかし)です。
話はクリスマスのことから外れてしまいました。お許し下さい。
しかし遥かな五島列島への旅は生半可にカトリックを信仰している私にとっては衝撃的な旅でした。

今日もこれからミサに行きます。五島列島のことなど思い出しながら行きます。
今日の写真はそのたびの折に撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「師走になると花屋さんが華やかになります」

2015年12月12日 | 写真
冬になると自然界の花々が絶えて淋しくなります。そのせいで花を買う人が増えるようです。その上、師走になるとクリスマスやお正月が近づいてきて花屋さんが一層活気づきます。先日、花を買いに行った店先も華やかでした。その折に撮った写真をお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









平和な湖のほとりを散歩しつつ揺れ動くフランスやアメリカのことを想う

2015年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は急に晴れ上がり、暖かい南風が吹いて春のような陽気になりました。午後から家内と多摩湖(村山貯水池)へ散歩に行きました。堰堤の下側は都立狭山自然公園になっていて大きな無料駐車場があります。
公園のクヌギが見事な黄葉になっています。木立の下には美しい落ち葉の小道が続いています。
そして堰堤の上に出ると多摩湖の湖面が太陽に輝き、その向こうに奥多摩の山並みが碧く光っています。散歩しながら写真を撮りました。下にその写真をお送りいたします。









写真のような風景の中を歩いて平和な気分になっていました。しかし歩き始めてからすぐに大きなジェット戦闘機の爆音がしました。この公園の北は航空自衛隊の入間飛行場があるのです。
前脚を下し、着陸態勢に入ったジェット戦闘機がゆっくり降下しています。ゆっくり飛んでいますが非常に大きな爆音が響いています。
それが一機や二機ではありません。5分おきくらいにひっきりなしに着陸して行くのです。不気味な暗い灰色に塗った大型輸送機や爆撃機のようなものも降りて行きます。
以前もこの堰堤を散歩している時、着陸態勢に入ったジェット戦闘機を見ましたが最近は急に数が増えたような気がします。
平和な多摩湖の風景の上空には戦争に使う飛行機がしきりに飛んでいるのです。
その影響でつい中東の激しい戦争のことを思い出します。
そして揺れ動くフランスやアメリカの社会へ想いを馳せます。
下にフランス在住の元日本人のMotoko Boutdumondeさんから頂いたコメントを、本人のご承諾を頂いたので紹介します。揺れ動くフランスの社会の様子が描いてあります。日本のマスコミからは分からない緊迫した雰囲気が書いてあります。
===Motoko Boutdumondeさんからの頂いたコメント========
今回のフランスの地方議会(州議会)選で極右翼の『国民前線』が第一党になったのは、本当に恥ずかしいことだと思います。ナチスと同じ考えを持った政党ですが、今は票集めのために過激なことは一切言わず、無知な国民を甘い言葉で誘っています。第二次世界大戦のドイツのユダヤ人収容所やガス室での大量殺人を「歴史から見ると末梢的な部分」との発言をした党の創始者であるル・ペンを父の後を継いで党首となった娘が党から追放しました。『国民前線』に人気が出てきたからこういった極右翼的な部分は隠したかったのでしょう。しかし父と娘の考えは根底では同じなのです。驚いたのは、この党のなかの立候補者に北アフリカ系の移民の子孫のイスラム教徒がいたということでした。まあ、ナチスもイスラムもユダヤを嫌っているからそういうところからこうなったのかもしれませんが、まあ、本当にため息が出ることばかりです。私の住んでいる町はこの間の市長選から市長や市議会は『国民前線』が握っています。
私はこれがテロによるものだとは思いません。もちろん、それもあると思いますが、サルコジやオランドのだらしない、全く何の効果もない政治の反動として『国民前線』を支持し始めたのだと思います。馬鹿な国民たち。そして馬鹿な政治家ども。『国民前線』は批判するだけでなんのプログラムもない政党です。まあ、でも社会党やサルコジ率いる『レ・レピュブリカン』だって選挙の前にはいろいろと約束しますがちっともそれが実現しないわけですから、投票する方もヤケになるのかも... この『国民前線』がこれほど勢力を持ってしまったことで国民が目を覚ますといいのですが、問題はどの政党も良くない、良い政治家はいない、と言うことなのだと思います。(終り)
==================================
そして以下はアリアナ・ハフィントンという方のアメリカの新聞への投稿の抜粋です。
詳しい全文は末尾の参考資料にあります。
・・・現時点で共和党の大統領指名候補争いの首位に立っている候補者、トランプ氏が「イスラム教徒のアメリカ入国を完全に禁止する」よう主張しました。
アトランティック誌の記者ジェフリー・ゴールドバーグ氏は「ドナルド・トランプ氏は、今や国家安全保障への脅威だ。アメリカを悪者にし、攻撃する材料を聖戦主義者たちに与えている」とツイートしていますが、その通りです。
・・・中略・・・
喜ばしいことに、ありのままのトランプ氏の本性を伝えようとしているのは私たちだけではありません。
ワシントン・ポスト紙のダナ・ミルバンク氏は「率直に言おう。トランプ氏は偏見にまみれた人種差別主義者だ」というコラムを12月1日に掲載しています。
そしてその後もトランプ氏を非難する記事を掲載しています。
この報道姿勢は正しい姿勢です。真実を伝えたいリポーターは誰でもそういう姿勢をとる筈です。
トランプ氏が人種差別的な発言を繰り返すので、私たちは彼を人種差別主義者と呼ぶのです。性差別的な発言をするので、性差別主義者と呼ぶのです。真実を報道することに尻込みしません。そして彼のエンターテイメント性に惑わされることもありません。
もちろんトランプ氏だけが極端で無責任な発言をしているわけではないのです。
しかし彼は他のどの候補者より注目を集め「ミート・ザ・プレス」から「サタデー・ナイト・ライブ」などの人気番組まで、多くのメディアに出演しています。その点で、彼は特別な立場にいるのは事実です。
これまで彼が提供する大衆受けする話題に病み付きになり、その中身を非難しなかったメディアが、彼の不快で間違った意見を正当化してきたのです。
これまで共和党選挙戦からわかるように、トランプ氏の最悪の発言は必ず世の中に影響を与えます。主流派の人々や、過激な思想を持つ人たちへも深い影響を与えているのです。
だから私共は、トランプ氏が現在のアメリカ政治に与える破壊的な影響を報道していきます。そして他の候補者や国全体に耐える影響をも私たちは必ず伝えていくつもりです。
=============================
以上のアリアナさんの記事を見て私は安心しました。アメリカは健全だと安心したのです。
しかし最後の文章のようにトランプ氏のいろいろな発言は必ず世の中に影響を与えるのです。アメリカの政治や社会へ破壊的な悪い影響を与えているのです。世論調査の方法によって違いはありますが共和党支持者の35%あるいた68%がトランプ氏を支持しているのです。
この支持者の数は驚くべき多さです。それで私はこの記事の表題に・・・揺れ動くアメリカという表現を用いたのです。
アメリカの政治や社会の変化は必ず日本にも影響が出てきます。注意深く見守るべきではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料:Arianna Huffingtonの新聞投稿======
Arianna Huffington
アリアナ・ハフィントン(ハフィントンポスト創設者)
「ドナルド・トランプ氏の発言、もはや面白がっているだけでは済まない」
http://www.huffingtonpost.jp/arianna-huffington/we-are-no-longer-entertained_b_8754692.html
投稿日: 2015年12月09日 14時45分 JST 更新: 2015年12月09日 16時30分 JST
現時点で共和党の大統領指名候補争いの首位に立っている候補者が「イスラム教徒のアメリカ入国を完全に禁止する」よう主張した。それはもちろん、それはドナルド・トランプ氏だ。アトランティック誌の記者ジェフリー・ゴールドバーグ氏は「ドナルド・トランプ氏は、今や国家安全保障への脅威だ。アメリカを悪者にし、攻撃する材料を聖戦主義者たちに与えている」とツイートしているが、その通りだ。
トランプ氏の発言を受け、私たちハフィントンポストも彼についての報道の仕方を変えたいと思う。私たちは7月に、トランプ氏に関する記事を政治欄ではなくエンタメ欄に載せると発表した。ワシントン支局長のライアン・グリムと編集ディレクターのダニー・シーによれば、その理由は簡単だ。「トランプ氏の選挙キャンペーンは見せ物だから」
予想した通り、トランプ氏はエンタメ欄を賑わしてくれた。しかし、今回の発言で私たちははっきりと知った。彼の発言はもはや面白くない。それは不快でアメリカの政治にとって危険となる。だから私たちは、エンタメ欄で彼の政治キャンペーンを報道するのを止める。だからといって、普通の政治キャンペーンと同じ様に報道するわけではない。
私たちが彼の政治キャンペーンをエンタメ欄に掲載すると決めた理由。それは世論調査で高い支持率を保っているからと言って、トランプ氏が真剣かつ誠実にこの国を率いたいと思っていると考えなかったからだ。今でも同様に考えている。しかし多くのことが変わった。
キャンペーンを開始した当初から、トランプ氏は不快なコメントに事欠かなかった。6月の出馬表明の際には、メキシコ人を「強姦犯」と呼んで物議を醸した。しかし最初の頃、彼の激しい外国人嫌いは人を小馬鹿にするような皮肉漫画のジョークに過ぎなかった。しかし、メディアの追い風を受け、トランプ氏の残酷さと無知は倍増している。「彼の言った事、信じられる?」最初は目新しく、私たちを面白がらせたトランプ氏の発言は、今や不快極まりなく、脅威を与えるものに形を変えた。そしてアメリカ政治のよくない面をさらけ出している。
この変化を踏まえて、彼の政治キャンペーンを報道しなければいけないと私たちは強く感じている。トランプ氏がどんな人物なのか、彼のキャンペーンが何を目指しているのかを読者に伝えなければいけない。
ニューヨーク大学教授ジェイ・ローゼン氏は、トランプ氏について次のように述べている。
「2015年前までは、大統領選を報じるメディアは、報道に関するルールやそれに違反した時のペナルティについて、政界のエリートや選挙関連産業と共有してきました。このルールはこれまでほとんど破られることはありませんでした。ルール違反には大きなリスクが伴うと思われていましたし、選挙キャンペーンを取り仕切っていたのはリスクを嫌う戦略家だったからです」
つまり、とっぴで不快で危険な発言をすれば罰せられるとほとんどの政治家たちは知っていたので、それを避けてきた。ローゼン氏はさらにこう述べている。「そういった考えは今や崩壊してしまいました。トランプ氏はそういったルールをテストし、違反しました。それでいて、世論調査で首位に立っているのです」
しかしメディアである私たちは、トランプ氏や彼のやり方に続こうとする人たちを好きなようにさせてはいけない。今後彼の政治キャンペーンを報道する時、私たちは彼の発言を紹介し、出典を明らかにして彼が一体何を目指しているのか伝えていく。
例えば下記のような伝え方だ。
1) トランプ氏はアメリカ国内に住むイスラム教徒のデータベースを熱心に作ろうとしている。
2) トランプ氏はニュージャージー州のイスラム教徒が9/11を祝っているという嘘をついている。
3) オバマ大統領はアメリカで生まれていないから大統領として不適格だ、とトランプ氏は主張し続けている。
4) トランプ氏は女性を蔑視している。女性についての彼の発言をまとめたハフポストの記事がある。もちろん、他にも多くの女性蔑視発言をしている。
5) トランプ氏は外国人嫌いで移民に対する憎悪を掻き立てようとしている。彼はメキシコ系移民について嘘を発信し続けており、不法滞在の移民を国外追放しようとしている。
6) トランプ氏は弱いものいじめが大好きだ。具体例はつきない。たとえば自分の集会で抗議していた人を、支持者の一人手荒く扱った時、トランプ氏はその支持者を擁護した。また、身体に障害を持つニューヨーク・タイムズ紙の記者を馬鹿にしたこともある。
喜ばしいことに、ありのままのトランプ氏を伝えようと考えているのは私たちだけではない。ワシントン・ポスト紙のダナ・ミルバンク氏は「率直に言おう。トランプ氏は偏見にまみれた人種差別主義者だ」というコラムを12月1日に掲載している。そしてその後もトランプ氏を非難する記事を発信している。それは難しいことではない。そして真実を伝えたいリポーターは誰でもそうすべきだ。
トランプ氏が人種差別的な発言や行動をすれば、私たちは彼を人種差別主義者と呼ぶ。性差別的な発言をすれば、性差別主義者と呼ぶ。真実に尻込みすることも、彼のエンターテイメント性に惑わされることもない。
もちろんトランプ氏だけが極端で無責任な発言をしているわけではない。しかし彼は他のどの候補者より注目を集め「ミート・ザ・プレス」から「サタデー・ナイト・ライブ」まで、多くのメディアに露出している。その点で、彼は特別な立場にいる。これまで彼が提供する話題に病み付きになり、その中身を非難しなかったメディアが、彼の不快で間違った意見を正当化してきたのだ。
これまで共和党選挙戦からわかるように、トランプ氏の最悪の発言は必ず世の中に影響を与える。主流派の人々や、過激で受け入れ難い思想を持つ人たちの考え方を左右している。
だからトランプ氏が現在のアメリカ政治に与える破壊的な影響だけでなく、他の候補者や国全体に耐える影響をも私たちは伝えていく。
(この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。)

何故、日本の仏教は葬式仏教になり下がったか?・・・ある住職のせつせつたる日記

2015年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
仏教はお葬式のためにあるのではない。人間の生き方や考え方を教えているのです。お釈迦さまの慈悲は生きている人、死せる人に等しく与えられているのです。
それなのに現在の日本の仏教はお葬式の時だけに人々の役に立っているのです。それを葬式仏教と言って多くの人が嘆いています。
そして寺院制度や住職の世襲制度が悪いと非難します。
葬式仏教に困っているのは実は住職も同じです。本来のお釈迦さまの教えを説こうとしても人々が聞こうとしません。お寺にはお葬式の時だけお世話になると決めているからです。
困っている住職である「桃太郎さん」が何故、日本の仏教が葬式仏教になってしまったかを日記にせつせつと書いています。本人の許しを頂いたので、その日記の抜粋を下にしめします。
桃太郎著、『破戒坊主』⑩:http://smcb.jp/_ps01?post_id=6338990&oid=463063
この小さな田舎寺でも 檀家数は300程有った。
住職になって、まずはそれを一軒一軒 全部回る。まるで 新任巡査の戸別巡回だ。
300軒の中には 家が途絶えたり 離散したり 住人が変わったり なかなか帳面どおりにはいかない。その変わった事実を確認することも 仕事の中に入っている。
だが 檀家組織が組まれているため 実際には訪問は村落の世話人宅だけで 大体の用事は済むことが多い。
前もって世話人に 訪問の旨 通知がしてあるから 世話人宅では 茶菓の用意をして 迎えてくれる。
念のいった世話人は の集会所や 大きな家に 檀家の人たちを集めて置いて呉れたりもする。
晋山式(住職としての新任式)や 披露目の宴に来れなかった人に 新しい住職の顔を見せ そちらはそちらで家族構成や代替わりの有り無しを報告すると言う。
当山では古くから行われて来たもので 起源は江戸時代の人別帳改めだと聞くが ほんとかどうか 俺は分からぬ。
幕府には 徴税や治安防犯の為に 戸籍を作る必要が有った。
そこで目を付けたのが 寺の過去帳だ。
過去帳には 檀家の家族構成や 生死の年月などが記録されている。これに着目した幕府の慧眼は おそるべしである。
寺が過去帳を差し出す事と引き換えに 寺領の安堵保全を約した。
より大量の過去帳を提出した寺には より大きな寺領支配権限を担保した。
鎌倉以来の先鋭的な仏教は 江戸に入ると次第に形骸化して行き 所謂葬式仏教と揶揄される 今の形に近くなる。
つまり 人間の魂の救済よりも 管理する墓の数を追い求めるようになっていく。
都市部は比較的早くに 寺々の縄張りが決まってしまう。すると 当然の事 教宣活動は 地方に延びる。
戦乱に荒れた地方には 無住の寺が溢れている。民衆も 葬式を挙げて呉れる坊主を必要としている。
幕府・坊主・民衆 の利害が此処に一致し 歴史に記されない 見えざる宗教戦争が 起きていたのだ。
が この戦争には 敵が無い。
無住の寺や 宗教的に未開の土地に ひと足でも早く行った者が勝つと言う パン食い競走みたいなものだった。
それに賢(さか)しく目を付けたのが 我が宗旨で 我が先達は主に東北地方に布教を進めた。
だから東北地方には もとは他の宗旨でも今は我が宗旨だ と言う寺が多い。
過去帳には 檀家の俗名はもちろん 死んだ者の戒名が記録されている。
『被差別民』と呼ばれた人々がいた。
京鴨川の河原で 牛馬の皮なめしを生業としていた人々だと言われる。死んだ牛馬の処理をするのだから 忌み嫌われたのかも知れない。
戦乱の世に遡れば 人間の死体を処理したり 場合によっては 敗者や罪人を斬首する役目を請け負ったりしたのが その人々の前身だった とも言われる。
俺はその辺りの事は 良くは分からない。大学の授業で聞きかじっただけだ。
被差別人は 死んでも普通の戒名が付けられない。
だが 穢れていても 清らかでも 人は皆死ぬ。
死ねば 葬り 経を唱えるにあたっては 何としても 戒名が要る。
そう考えて便宜上の戒名が付けられた。
凡そ 人間に付けられたとは信じられない 悲惨な戒名である。
お釈迦様の慈悲は等しいというがこれはいけない。
我が宗旨には 生真面目な先達が多かったのかも知れない。
そういった 差別的な戒名を記した過去帳が 後生大事に保管されていたのである。
そこで宗門が反省して、宗派を挙げて 過去帳を遡り 可能な限り墓を探し出し 新たな戒名を付け直して 供養すると言う 気の遠くなるような作業が行われたのは さほどの昔ではない。
それでそれらのホトケたちが 無事成仏したかどうかは 俺などの知るところではない。
葬式仏教は江戸時代の政治権力によって生まれた。それが今でも続いているのが嘆かわしいかぎりです。以下省略。
桃太郎さんの日記は葬式仏教の生まれたいきさつを明快に書いています。
彼は本山の永平寺で2年5ケ月間の修行をして住職になりました。2011年の東日本大震災の時には自分の寺に運び込まれた数百の遺体を大切に供養し、毎日お葬式をあげたのです。
その後は生き残った遺族たちを訪問し心を寄せ、生きる希望を与えたのです。
幸い流されなかったお寺を全国から来たボランティアの宿泊所に提供もしました。
彼は仏教の本来は葬式仏教ではないと説き、本来の教えどうり生きている人々の救済に努力しています。そして自分も一介の行脚僧として修行を続けています。
今日の挿絵の写真は彼が住職になる前に修行をした曹洞宗の大本山の永平寺の写真です。
なお曹洞宗はどのようにして出来たか?何故、大本山は福井県にあるのか?などは末尾の参考資料にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真の出典は、http://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25980002926&GroupCD=0&no=です。

2番目の写真の出典は、http://zen-eiheiji.jp/event/entry-89.htmlです。

3番目の写真の出典は、http://fukuinavi.jp/?p=2027です。

4番目の写真の出典は、http://teishoin.net/blog/002694.htmlです。

5番目の写真の出典は、http://choukokuji.jiin.com/index.php?soudouです。
=====参考資料==========
何故、曹洞宗の開祖、道元が福井県に大本山の永平寺を1246年に作ったか?
:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97
(1)曹洞宗の出来上がったいきさつ
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
(2)道元の中国留学:
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
(3)何故、福井県に大本山を作ったか?
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
永平寺は、普通の寺院とは違い、檀家制度はありません。世俗と離れ、日々黙々と200人〜300人の雲水【うんすい】=修行者が修行しております。その多くは住職になったり行脚僧になるのです。以下省略。

花の世界には差別が無い、でも宗教差別を主張するトランプ発言

2015年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム
美しい花は皆が好きです。ですから花々の世界には原産国による差別などありません。
中東原産の花だろうが中国原産だろうが一緒の花束にして売っています。
私共がよく花を買う大型ホームセンターの花売り場ではいろいろな切り花を一つの花束にして売っているコーナーがあります。
単一の花の束なら花の名前の札がついていますが、多くの束はたんに「切り花」という名札がついています。そこで一昨日撮って来た「切り花」の写真をお送りいたします。









花を選んでいる家内を観察すると洋風の花も和風の花も差別しないで組み合わせています。家に帰って生け花にする時のアレンジを考えながら買うのです。私は批評しません。無言です。
私は花の世界には差別が無いと感動してしてしまいます。
何時もはそんなことに感動しませんが、最近のニュースでイスラム教徒のアメリカ入国を禁止するというトランプ発言が大々的に報道されているからです。
トランプ氏はアメリカの次期大統領選挙のさいの共和党の指名候補です。その指名争いでトップの位置にいる有力候補者です。
トランプ氏は、イスラム教徒のアメリカへ入国禁止を主張したほうが、人々の支持を集め大統領の最終選挙の投票において有利になると判断しているのです。
すなわち共和党を支持する多くのアメリカ人の本音はイスラム教徒を入国させたくないのです。
一方、同時多発テロで衝撃を受けたフランスでは最近の地方選挙で中東からの難民を拒否する政策の右翼政党が第一党になったのです。この選挙結果は多くのフランス人の本音を示してていると思えます。中東からの難民の多くはイスラム教徒ですからフランスは宗教差別をしようとしていると非難されても仕方のないことです。
自由と平等、そして博愛の精神を高らかにうたったあのフランス革命の栄光はどうなったのでしょうか?
自由と平等の国、アメリカの崇高な精神はどうなったのでしょうか?
人間には神のような良い精神と悪魔のような悪い精神の両方が混在しています。
最近の欧米では悪い方の考え方を公表して政治運動に利用しているように思えます。
一方、アメリカや西洋の国々からトランプ氏の発言を非難する報道が多いと言います。
日本の国際的な相互依存の現状を考えると、トランプ氏の発言やフランスの右翼の隆盛は必ずや日本の社会にも影響を及ぼすと思います。
差別や争いの無い花々の世界を見て感動するのは愚かな私だけでしょうか。
日本のマスコミは静観しています。騒動に巻き込まれないようにするのには静観が良いのかも知れません。しかし同じ人類として胸の痛みを感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

東日本大震災を忘れない、そしてその時のお寺の役割

2015年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム
月日の流れは早いものでこの師走があけると平成28年、2016年になります。
あの東日本大震災の大津波や福島原発の爆発からもう丸5年になろうとしています。
私の行っているカトリック教会は現在でも時々、大震災で亡くなった方々のためにお祈りを唱えています。残された町や村の復興もお祈りしています。
2012年の10月に被災地を訪問した折にかつて300軒もあったという集落は影も形もありませんでした。復興など始まっていませんでした。ただ墓地だけは整理され新しい卒塔婆が並んでいました。本堂が津波ですっかり流されていましたが生き残った住職が墓地の整理と犠牲者の供養をしているそうです。
その様子は、「大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。」という記事にして、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaの2012年10月16日 に掲載いたしました。
今日は朝から2012年の10月に訪ねた東松島町のことを思い出しています。
そしてせめてお花の写真だけでも亡くならた方々へお送りしてご冥福をお祈りしたいと思います。
ここに掲載するシクラメンの花の写真は昨日、三鷹市のJマートで撮ってきた写真です。









さて最近、趣味人倶楽部の桃太郎さんという方の日記を読んでいましたら大震災の時のお寺の状態が鮮明に書いてあります。ご自分が本山で修行し、大震災の当時は被災地のお寺の住職になっていた方の日記です。住職の地位に安住せず現在でも行脚僧として掛錫修行を続けている方です。ご本人のお許しを頂きましたので以下に日記の抜粋を示します。
桃太郎さん著、『破戒坊主』①:http://smcb.jp/_ps01?post_id=6326652&oid=463063
・・・・あの時は参った。
なにしろこのちっちゃな町で(津波で亡くなった人が)385人だ。
全部が全部 俺の寺じゃない 他に3つ寺があるけど。
たまらず 兄(あに)さん呼んで 手伝って貰ったよ。
山陰の貧乏寺の兄さんは 体力自慢で 本山でも兄さんに手出しする奴なんかいなかった。
したい放題さ。だから兄さんが本山下りた時にゃ 一山みんなホッとしたみたいだ。
・・・・・・
あんなに一度にたくさんのホトケ見たのは初めてだ。
それが 次から次からやってくる。
其処はさすがにまずかろう って所にも 並べていく。
仕方ないんだ 置くところが無いんだよ。
棺桶が手に入らなかったホトケなんか 色んな物にくるまれて 布団とか 毛布とか。
俺の寺は 海からずっと離れていたから 助かった。
でも あちこち大分傷んでしまった。
放射能だって気になるじゃないか。
中にゃホトケ置いたっきり逃げちまった家族もいたらしい。
後は宜しく ってね。
そいつらを責める気なんか無いんだよ。
取り敢えずは頼むけど すぐまた帰って来るから ってそんな気持ちだったはずだ。
俺だって生身の体 放射能がどんなものか分からないだけに 恐ろしくてどうにも仕方がなかった。
でも 放射能は見えないけど 目の前に並べられたホトケは 寝ても起きても見えるじゃないか。
このホトケ放ったらかして置くわけにいかないじゃないか。
幸い 焼き場は無傷だった。
そうなれば あとは 順々に 決まり通りにやってくしきゃない。
四つの釜を 四つの寺に割り当てて みんなフル回転。
寒い季節だったから まだ良かった。
あれが夏だったら と思うと 身震いがする。
それでも 腐敗を恐れて 釜の取り合いをする家族もいた。
隣の釜が空いているので、 先に我が娘を焼いてくれ って 俺に泣きすがる婆さま。
隣は托蓮寺のものだし すぐまた次のホトケが入る予定らしいし。
今だから言うが 野焼きしたホトケも 随分あったみたいだ。
仕方ないんだ。
ホトケが多すぎるんだよ。(つづく)
(脚注:掛錫とは錫杖(しゃくじょう)を僧堂の壁に掛ける意。行脚の禅僧が、僧堂に滞在し修行すること。転じて、僧堂に籍をおいて修行すること。)
上の記述を見ると被災地におけるお寺の役割が分かります。
家族は亡くなった人の供養を願ってお寺に運ぶのです。寺の住職は本堂が流されて無くなっていても亡骸にお経を唱え、あの世でお釈迦様の弟子になるようにと引導をわたすのです。そして火葬場へ送り、遺骨も家族が願えば墓に入れるのです。
大震災の時、マスコミは町や村の公共の施設に並んだ遺骸の写真だけを報道しました。寺の境内に並んだ遺骸の様子はほとんど報道されなかったのです。
そして大震災の直後に全国の神社に多数の人がお祈りに行ったこともほとんど報道されませんでした。宗教に関連するニュースはマスコミでは御法度なのです。しかしそれも時と場合によるのではないでしょうか?
大震災後、いろいろな宗教団体が復興支援活動をしています。カトリックでも仙台司教区に復興支援の本部を置き、根気よく支援を続けています。
それにしても東北地方と関東地方の太平洋岸の復興はまだまだです。福島原発の解体作業も遅々として進んでいません。
やはり東日本大震災のことは忘れられません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
「大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。」の抜粋:(http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaの2012年10月16日 に掲載)
・・・・この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。
踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民が住んでいて、260人が犠牲になったそうです。
一面の荒れ地の所々に上の写真のように津波の猛威をしめす家々がかろうじて立っています。
下の写真が運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。
下は彼の家の門の所から庭の方向を見た写真です。庭さきは海です。
運転手さんは庭に入って来て、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で写真のように枯れているのです。・・・・

行き先不明の謎の旅に出て老境の一日が流れ行く

2015年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
旅行会社の企画に「ミステリーツアー」というものがあります。行き先や訪問する観光地を一切秘密にして集合場所と時間だけを発表して申し込みを受け付けます。料金は前納です。
しかし行き先を絶対に秘密にするためにわざと紛らわしいヒントを公表しています。
一昨日行った日帰りの謎の旅のヒントはおみやげに小さなイセエビ、ミニアワビ、野菜の詰め合わせをくれると書いてあります。そして訪問する観光スポットは国宝の建物です。そしてイチゴ狩りをするとも書いてあります。
このヒントを満足する日帰り圏は千葉県と静岡県です。しかし千葉県には国宝の建物が皆無です。静岡県には駿府の東照宮があります。その南斜面にはイチゴのビニールハウスもありそうです。家内が今回の行き先は駿府の東照宮だと信じています。
ところがこの予想は見事に外れました。そして一日中、私共の予測がことごとく間違っていました。予想外の場所に行ったのです。それはまさしく謎に謎が重なった不思議な、そして面白い旅でした。
老境になると時間が悠々と流れます。昨日も今日もこうしてキーボードをゆっくり叩きながら平穏な日々が流れて行きます。
感謝の気持ちも湧いてきますが、たまには旅に出てみたいと思います。その時、日帰りのミステリーツアーは手軽で大変便利なのです。
泊まりませんから着替えの衣類がいりません。毎日飲んでいる薬もそろえる必要がありません。老人にとってまことに気軽な旅なのです。カメラを持ってバスに飛び乗るだけです。
今回のバスの旅は小金井駅前からです。バスはいきなり関越高速道路に入ります。驚きました。これで静岡県は間違っていたことが分かります。関越道路に入っても東に行けば千葉県です。ところが西へ、西へと群馬県の方向に行きます。イセエビやアワビをお土産にくれるというのは予想を間違わせる為の仕掛けだったのです。
バスは熊谷を過ぎて藤岡のインターを真っ直ぐ新潟方面に行きます。これで世界遺産の富岡製紙や軽井沢には行かないことが分かりました。

上の写真は高崎付近を走っているバスの窓から見た風景です。
渋川で出て伊香保温泉や榛名湖の行くのかと思っていたら通過します。

上の写真は迫って来た谷川連峰の写真です。ここまで来たら県境を越えて新潟県の湯沢温泉に出るのかと予想出来ます。
しかし予想に反して沼田で高速道路をおりて原田農園という巨大な林檎農園に着きました。

上はその農園の林檎の木です。
そこでズワイガニの足二本と寿司のついた海産物を主にした昼食をとりました。上州牛のすき焼も少々ついていました。上州牛の2切れは歯ごたえがありました。
それから新潟県の湯沢温泉に行くと信じていたら午後は関越道路を逆戻りします。

上は月夜野付近の風景です。バスはどんどん山を下り、北関東高速道路に入ります。ここで国宝は栃木県、足利市の鑁阿寺だと分かりました。
足利学校と鑁阿寺については昨日、「日本遺産、足利学校に入学し、国宝、鑁阿寺を見て来ました」という記事で書きましたので省略します。
下に鑁阿寺の境内の紅葉の風景を示します。



これで終わりかと思ったら佐野市を東に抜けて小山市の岩船フルーツパークでイチゴ狩りをしました。イチゴは関東で有名な「とちおとめ」です。甘く適度に酸味がある大変美味しいイチゴでした。ミステリーツアーは何度も行きましたが、今回ほど予想が外れたことはありません。二人で大笑いしてしまいました。
イチゴ狩りのあとは佐野から東北自動車道路にのり、圏央道でまた関越高速に戻り所沢インターを経由して小金井市に帰ってきました。
これで料金は一人9000円です。行き先の謎を解きながらバスで行くのが楽しいのです。上州牛とイチゴが美味でした。
そうして添乗員が清純派の若い美しい女性で、優しく面倒を見てくれたのです。家内も「やはり若くて綺麗なかたがいいわね」とこの添乗員には感心していました。こうして老境の一日が流れ行くのです。
皆様はミステリーツアーはお好きでしょうか?どのような旅の楽しみ方をなさっていらっしゃるでしょうか?コメントなどでお知らせ頂ければ嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本遺産、足利学校に入学し、国宝、鑁阿寺を見て来ました

2015年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
関東平野の北、栃木県足利市には日本遺産、足利学校と国宝、鑁阿寺があります。隣り合っています。昨日はこの両方を見て来ましたので簡単にご報告します。
足利学校は日本一古い学校で、ザビエルによって海外にも紹介された学校でした。創立は諸説ありますが、1432年(永享4年)に上杉憲実が足利の領主になって自ら再興したのが確実なことです。彼は学校の整備に尽力し,鎌倉円覚寺の僧、快元を校長に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げたそうです。ザビエルが日本に来た頃は学生数が3000人もいて日本一の大学でした。
一方、鑁阿寺は1196年(建久7年) 足利義兼(戒名:鑁阿)が理真を招聘し、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立したのが始まりです。1234年(文暦元年) 足利義氏が伽藍を整備、足利氏の氏寺としたお寺です。
昨日は足利学校に行き、入場料、420円を払ったら、いきなり立派な墨書き風の足利学校入学証をくれたのです。入学を許可されたのですから、この学校に責任を感じます。
そこでこの学校の教科内容を調べてみました。
面白いことに仏教のことは一切教えていません。それはお寺で習いなさいというのです。
教科内容は論語です。孔子の教えです。紀元前552年に生まれた孔子の教えをもっぱら教えていたのです。
その教えの始めの部分をご紹介します。
子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
(http://kanbun.info/keibu/rongo0101.html)
子(し)曰(いわく)、学(まなびて)時(とき)に之を習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋有あり、遠方より来たる。また楽しからずや。人知らずして慍(いきどお)らず、また君子(くんし)ならずや。
◦子 … 孔子の尊称。
◦曰 … 「いわく」と読む。「のたまわく」と読んでもよい。送り仮名は「曰いわく」「曰わく」のどちらでもよい。
◦学 … 学問する。ここでは『詩経』と『書経』を読み、礼と楽がくを学ぶこと。
◦而 … 接続詞の働きをする置き字。「~して」「~て」と、直前の語に続けて読み、訓読しないことが多い。
◦時 … やれる時はいつでもの意。「ときどき」の意ではない。
◦不亦説乎 … 「またよろこばしからずや」と読む。「不亦~乎」は、「また~ずや」と読み、「なんと~ではないか」と訳す。詠嘆の形。
◦亦 … 語調をゆるやかにする語。「~もまた」の意ではない。「亦また」「亦また」のどちらでもよい。
◦説 … 「説」は「悦」と同じ、「よろこぶ」と読む。
◦有朋自遠方来 … 後藤点(後藤芝山しざんのつけた訓点)では「朋有り、遠方より来たる」、道春点(林羅山のつけた訓点)では「朋、遠方より来たる有り」と読む。なお、武内義雄は「有朋とも(友朋)遠方より来きたる」と読んでいる(『論語』岩波文庫、『武内義雄全集 第二巻』所収)。
◦朋 … 学問について志を同じくする友人。
◦自 … 「より」と読み、「~から」と訳す。
◦不亦楽乎 … 「またたのしからずや」と読む。詠嘆の句形。
◦人不知而 … 「ひとしらずして」と読む。人が自分の学徳を認めてくれないこと。
◦不慍 … 腹を立てない、不平不満をいだかないこと。朱注に「慍は怒を含むの意(慍含怒意)」とあり、「いからず」とも読む。また、説文では「怨也」とあり、「うらみず」とも読む。
◦不亦君子乎 … 「またくんしならずや」と読む。「なんと君子ではないか」と訳す。
◦君子 … 徳の高いりっぱな人。人格者。反対は小人しょうじん。
上のような文章は高校時代に習いました。懐かしいです。そこで足利学校で編纂した「論語抄」という本も買って来ました。日本人なら一度は聞いたことのあるような格言や文章が並んでいます。訳も分かりやすいのです。孔子はやはり卓越した思想家であったと改めて認識しました。
それでは昨日撮って来た写真でご説明いたします。

上は現在の足利学校の全景です。右側の大きな屋根の下に広い教室がありますい。左の方の建物は江戸時代に出来た孔子を祀ったお堂です。

上は足利学校の四方を囲んでいる堀の風景です。学校への入り口は橋になっています。

上は入り口を入った所にある校門です。

上は学校の校舎です。右の入り口から入ってゆっくり論語を筆で写す机があり数人の人が熱心に筆を動かしていました。

上は教室の裏にある庭園の風景です。

上は鑁阿寺へ入る橋です。鑁阿寺も四方が堀で囲まれています。

上は山門を入ったところの風景です。

上は国宝になっている1299年に作られた本堂です。
さてこの足利学校と鑁阿寺とは隣り合っています。両方を歩いて、ゆっくり見物すると2時間位かかります。
しかし日本遺産と国宝の両方が見られるのです。是非、足利市へお出掛けになられはいかがでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料============
(1)日本遺産、足利学校の歴史:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A6%E6%A0%A1
足利学校の創建年代については諸説あり、長らく論争となっている。
室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し,鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。「能化」とは校長に相当する責任者であるが、江戸時代には「庠主(しょうしゅ)」と呼ばれるようになり、今日では「庠主」と呼ばれる事が一般的である[4]。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主(能化)も全国各地の出身者に引き継がれていった。
上杉憲実は1447年(文安4年)に足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めた[5]。この中で足利学校で教えるべき学問は三註[6]・四書・六経[7]・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。従って、教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた[8]。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。
享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、という。
(1)国宝、鑁阿寺:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%81%E9%98%BF%E5%AF%BA
寺号は詳しくは「金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺(こんごうさん におういん ほっけぼう ばんなじ)」と称する。足利氏の氏寺。本尊は大日如来。
鑁阿寺はもともとは足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されている。
12世紀の半ばに足利氏の祖・源義康が同地に居館(足利氏館)を構える。
1196年(建久7年) 足利義兼(戒名:鑁阿)が理真を招聘し、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立。
1234年(文暦元年) 足利義氏が伽藍を整備、足利氏の氏寺となる。
南北朝時代 鶴岡八幡宮の支配下となる。
1922年(大正11年)3月8日 「足利氏宅跡」として国の史跡に指定される。
2013年(平成25年) 本堂が国宝に指定された。
国宝の本堂 の説明:
入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)5間、梁間(奥行)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す)。正安元年(1299年)の建立だが、応永14年から永享4年(1407 - 1432年)に大規模な改造が行われ、この時に柱をすべて入れ替え、正面に向拝を付した。平面構成は前方2間分を外陣、後方3間分を内陣及び脇陣とする密教仏堂の形式だが、建築様式は禅宗様を基調とする。組物を詰組とし、柱に粽(ちまき)を設け、扉を桟唐戸、壁を竪板壁とする点などは禅宗様の要素だが、組入天井、板敷の床など和様の要素もある。密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重である。平成25年(2013年)に国宝指定。

私が住んでいる場所の旧石器時代(無土器時代)からの歴史

2015年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム
私の郷土史は「素人の想像をまじえた郷土史」という意味です。郷土史として取り上げるのは東京都小金井市とその隣の小平市や府中市の歴史です。特にこの私の郷土史では約3万年前の旧石器時代(無土器時代)からの歴史を詳しく調べました。
全国のあちこちの郷土史の多くは甲斐国、信濃国、武蔵国などの律令国家の成立以後の歴史を取り扱っています。しかし私はもっと遡って古墳時代、弥生時代。縄文時代、無土器の石器時代と調べて行きました。
それではまず私の住んでいる小金井市のご紹介から始めます。

上の写真はJR中央線の武蔵小金井駅の南口です。東京駅から乗り換えなしで45分です。新宿からは30分です。

上の写真は北口を出て上野原通りを西の方を見た風景です。この写真の左には上野原公園があり、写真の上野原通りをもうすこし西に行くと自宅が」あります。

上の写真は小金井市の北にある都立小金井公園の入り口の道路です。

そして上の写真は小金井公園中央広場の脇にある花壇の写真です。

上の写真は小金井市の南端に東西に延びている都立武蔵野公園です。
これらの写真のような風景は旧石器時代や縄文時代には見られませんでした。あたり一帯はクヌギやカシワやコナラのような雑木林が昼なお暗く覆っていたのです。そしてその森の中にはイノシシやシカやキツネやタヌキが沢山棲んでいたのです。
森の切れる開けた土地には石器時代や縄文時代の竪穴住居が散在していたのです。人口が現在より非常に少なかったので食料にするイノシシやシカを落とし穴で捕らえるのは簡単な事でした。夏や秋になると野生の果物や栗やクルミも豊富に実ります。人口は少なかったので食べものに困ることは少なかったのではないでしょうか。
さて小金井の中町には3万年前の旧石器時代の石器と4500年前の縄文時代中期の環状集落跡が出土した「中山谷遺跡」があります。
縄文中期の環状集落跡から2m50cm下の約3万年前の関東ローム層から多数の石斧、鏃や石器道具が出て来たのです。ですから現在の小金井市には約3万年前から人間が住んでいたのです。
そして約4500年前の環状集落跡を見ると家々が広場の周りに建っています。そして広場の中心が墓地になっていました。
住居跡からは多数の土器や石器や耳飾りが出てきました。
そして住居の土間の下からは亡くなった乳幼児を入れて葬った埋甕が完全な形で出て来たのです。乳幼児が死ぬと悲しくて家の外に葬ることが出来なかったのです。
この「中山谷遺跡」は小金井市の古代の歴史を物語る貴重なものですが、残念ながら展示施設がありません。
そこで隣町の小平市の展示室を何度も訪問しました。
小平市の鈴木遺跡資料館は感動的な展示をしています。
素人の小生が感動したことが2つあります。
(1)発掘した地層の断面模型の展示があり、その横に各地層から出てきた旧石器時代のいろいろな石器が示してあるのです。
地層区分から出てきた石器の作られた時代が厳密に分かるのです。大変明快な展示方法です。その地層の中には鹿児島湾北部の姶良火山が爆発して飛散し、火山灰が積もった第VI層も有るのです。
旧石器時代の35000年前から12000年前(新石器時代)までの石器が時代ごとに区分してガラスケースに展示してあります。そして縄文時代、すなわち新石器時代の石器も縄文土器も展示してあります。石器はどれも精巧に加工してあります。
この展示室の素晴らしさはその黒曜石で出来た鋭利な石器のその精巧さにあります。そして時代推定が科学的に厳密なことにあります。
(2)この資料展示室で感動するもう一つの理由はこの小平市の鈴木町の歴史の変遷が見事に説明してあることです。
元来、この一帯は窪地になっていてその西端に泉があり広い池があったのです。現在の石神井川の源流だったようです。シカやイノシシが集まる絶好の狩猟場だったのです。その理由で旧石器時代から人間が狩猟場にしていたのです。
しかし縄文時代の後期頃ころからこの泉が涸れ、石神井川もずっと東方向に移動してしまったのです。縄文時代の後期には土器や石器は見つかっていますが、住居跡は見つかっていません。その縄文時代の後からは人間の住んだ痕跡が絶えてしまうのです。
わずかに近辺に奈良時代のものと推定される竪穴住居跡が小平第八小学校の校庭から見つかっています。
ですから小平市の鈴木町には平安初期以後人家が絶えてしまったのです。それが数百年後の江戸時代にまた人が住むようになったのです。1654年に玉川上水が出来たことも農業がしやすくなりました。
鈴木遺跡の周辺にも江戸中期の1732年頃から次第に鈴木新田が出来のです。それが現在の鈴木町です。
いろいろな鈴木新田の遺物が残っていますが、特に「定右衛門水車」は有名な水車で明治41年まで動いていたそうです。その江戸時代の陶磁器も多数展示してあります。
このような遺跡の定点観察のおかげで小平市の鈴木町の人家がどのように変遷して行ったかが明快に分かるのです。
この事実は私にいろいろなことを連想させます。日本の地方、地方の歴史は決して連続していないで人家が絶えた時代もあるのです。もちろんそれは地方によりますがこの事実は興味深いことです。
現在、日本の各地で起きている過疎化は長い歴史では繰り返して起きていたのかも知れません。この鈴木資料展示室はいろいろな問題を考えさせる展示です。
なお詳しくは小平市教育委員会編、「鈴木遺跡―解説―」平成7年3月31日発行、をご覧ください。
なお参考までに、近辺の所沢市の砂川遺跡から出土した旧石器時代の石器の写真をお送りいたします。

上の写真が砂川遺跡から出土した旧石器時代の石器です。
写真の出典は、http://www.google.co.jp/imgres?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3&start=97&hl=ja&sa=X&tbo=d&biw=964&bih=550&tbm=isch&tbnid=9cFlKv7RtInbsM:&imgrefurl=http://www.ranhaku.com/web04/c1/2_02.html&docid=-ycVjtYXFXksxM&imgurl=http://www.ranhaku.com/web04/c1/2_02sekki-s.jpg&w=475&h=317&ei=R17RUNjzL-qOmQWYzID4Ag&zoom=1&iact=hc&vpx=643&vpy=200&dur=207&hovh=183&hovw=275&tx=201&ty=102&sig=101447057814816231306&page=6&tbnh=144&tbnw=240&ndsp=22&ved=1t:429,r:13,s:100,i:43です。
砂川遺跡は、所沢市で最初に発見された旧石器時代の遺跡です。
明治大学考古学研究室によって行われた遺跡調査では、石器類の出土地点の全記録と出土した石器類の接合という作業が初めて試みられ、ナイフ形石器等の製作工程が明らかとなりました。また、当時の人々が常に石を携行して移動し、そこで石器を作ったり、他の場所で作ったものが持ち込まれたり、他の場所へ持ち去ったりするなど、人々の生活や動きが実証され、日本の旧石器時代研究に大きな成果をあげました。
出土した石器類は、「埼玉県砂川遺跡出土品」として国の重要文化財に指定され、明治大学博物館に所蔵されています。

上の写真は有名な岩宿遺跡から出た約3万年前の旧石器です。
(出典は、http://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/pemranent-ex.htmlです。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)